揺れる、真っ赤な瞳

 頭痛とともに、意識が戻った。未だ閉じられている瞼から、赤い光が漏れてくる。それ以外にわかることは、換気扇からか、低い振動音と、漏水しているような音だけ。そして、特殊な匂い。多分、普段使わないような言葉が含まれた、化学品。

 指を、動かしてみる。眠りから目覚めたばかりか、動かしづらい。けど、動く。ゆっくりと、今度は瞼を上げる。思っていた通りの、薄暗い部屋。扉が背後に一つと、よくわからない液体の入った容器、水滴が漏れ出す流し台が脇にあるだけ。シンプルな四角い部屋。

 自分は椅子に座らされていて、体も縛られていない。何がしたいのだろうか? そして、辺りに人の気配を全く感じない。これでは、いつでも逃げてくださいと言っているみたい。

 固まった首をほぐし、上を見上げる。中央に、赤い電球が陣取っていた。牡丹。キムさんと勉強をしていた部屋に飾られていた、絵を思い出す。

 そうだ、逃げないと……。


 そこで微かながら、背後から足音が聞こえた。

 カツン、カツン、カツン——。

 急いで立ち上がり、忍び足で扉に近く。およそ一人。蝶番がこちらに向かい、剥き出しになっている。扉側がこちらに開かれることを想定し、横に隠れる。息を殺し、近づいてくる音に、集中する。

 カツン、カツン——。

 律動が、停止。

 目の前で、剥がれかけのペンキが、揺れた。反射する紅い光が、白くなる。つまり、外からの光。錆びついた音と共に、ゆっくりと律動が、ふたたび始まった。

 カツン——。

 記憶が薄れる前に見た、懐かしい光景を思い出す。入ってくる相手は、自分を気絶させた相手だと、気づく。この人……。未だ頭痛は、薄れていない。あぁ、もう、苛つく。

 相手の半身が部屋に入ってきたのを確認。牡丹の花びらが落ちるのと同時に、全身を前に、傾ける。腰を落とし、右足を下げ、うなり、警戒。

「誰」

 目を離さず、相手を見つめる。黒い瞳。照明のせいで、丹色に見える髪がゆっくりと揺れた。驚き、瞬き、沈黙。そして、言葉を発する。

「さぁね。敌人dí rén寻找xún zhǎo、それか——」

 ——敵、捜しもの、それか——言葉を区切り、口元が歪む。


 ——《老鼠》。


 左足に重心を乗せ、軋み。骨盤が歓喜をあげ、背筋が叫ぶ。そして私は、憎しみを訴える。衝撃。足の甲に、重い物体が当たる。力の限り、叩きつける。脱がされなかった、ダッフルが地味に重い。デニムの硬さが、頭に来る。こめかみが、膨張する。ムカつく。キムさんのせいだ。私が捕まったのも、こんなところで外れかけているウィッグを気にするのも、全部。キムさんが悪い。

 開きっぱなしだった扉から、そいつが吹き飛び、唸り声が聞こえた。

「あんた、私に名乗らせたくせに……自分の名前は言わないのかよ」

 クソ痛いと呟き、痛めたのであろう腰をさすっている。近づき、みっともない姿になったそいつを、見下ろす。

「知らないの? 貴方、知らないのに、私をさらったの?」

 視界に映る、金色を退かす。ホント、ウザ過ぎ。地面に転がった足が、スニーカーを汚す。何度も、何度も、右足をネチネチネチネチ。

你是nǐ shì……言いづらいけど、笨蛋吗bèndàn ma?」

 試しに馬鹿なのかと聞いてみると、動きが止まった。

「……はぁ?」

「ふっ」

 無意識に、鼻で笑ってしまった。

 また同じ、言葉を繰り返そうとしている彼女の足首を、スニーカーでにじり踏む。もっと暴れたいと吠える声と、彼女の痛がる声が交互した。煙草の炎を揉み消すように、くねり、ぐらり、くるり、強く。

 すると彼女の逆の足に蹴られ、バランスを失いかけた。血管が、膨張。私、この人嫌い。踏みにじるのをやめ、脳髄に。衝突、打撃、もがき声。何度か繰り返し、砂糖漬けのサンザシが、割れていった。蹴るのをやめ、まぶたを閉じる。

 赤い照明が、飛び散る液体と同化した——。紅色。


 動かなくなったのを確認し、自分の入っていた部屋に引きづりこむ。早く逃げないと。

 扉を閉め、深呼吸。大丈夫、殺してない。まだ息があった。きっと、気絶してるだけ。落ち着け。辺りを見渡せ。部屋の照明と、同じ色をした壁紙。そして、ダークグレイの床。私のいた部屋は、一番端っこ。廊下はまっすぐ、どこかに続いてる。約三メートル先に、扉がもう一つと、左に曲がるルートが見える。物音は、今のところ自分の衣服の摩擦のみ。落ち着け、落ち着け。指先が震えている。まぶたが痙攣し始めた。

 そうだ、目の前にある扉は無視し、さっさと逃げよう。中にラスボスがいたとしても、どうでもいい。私は帰りたい。任務なんて、疲れた。キムさんを殴りたい。あったかい豆乳飲んで、眠りたい。もう、イヤ……。

 重くなっていく足取りを引っ張っていき、進んでいく。騒がしい物音を立てないスニーカーは、靴紐を緩みかけている。そういえば、私のバッグはどこだろう……。


 そこで物音。いや、喘ぎ声に似た、悲痛の叫び。次にガラスの割れる音がして、怒鳴り声。そして、扉から何かが飛び出た。

 青い鳳凰——いや、人間。女性。

 逃げようと抗う彼女に、磁器青花が投げられ、「お前みたいなやつは頼んでねぇ」腹を煮込むような低い声が、撃ち込められる。水中から見上げる、空みたいに透き通った色。シルク生地なのか、光に反射する箇所ばかり、白くなる。

 隠れなきゃ……見つかる。けれども何処へ? 来た道に戻る以外、出来ることがない。

 幸運なことに、投げられた陶器は彼女に当たらず、頭上を飛び、雨となった。頭を守る姿勢をするも、所々、滑らかな肌に血が濡らしていった。痛そ。彼女は傷を負いながらも、中にいる者に懸命に懇願した。

「許してください……。お願いします。何でもしますので……おねがい」

 何度も何度も何度も何度も、破片に頭を擦り付けてく。着物に似た形のローブははだけ、下着を身に付けていないのか、肌が垣間見えた。

 彼女は——。

「……来い。たっぷり遊んでやる」

 力なき動きで、立ち上がるも、足元には破片の数。裸足でそれを踏みつける音が、廊下に響いた。叫びすぎての酸欠か、胸が弱々しく上下している。

「——」

 聞くに耐えない男の声がまた、彼女に放たれる。

 ——気持ち悪い

 私はいつの間に、歩んでいた。


「落ち着いて、小猫。いや、落ち着け——」


 キムさんの声が、突如として思い出せれる。確かに《老鼠》という言葉を聞いてから、苛々してる。けど、しょうがないでしょ。怒っていい、理由が目の前にあるから。


 辺りでは、甘美な香り。嫌な臭い。お香。壁越しから、しらない声が聞こえてくる。喘ぎ声のような、悶える、獣。


 歩みが、徐々に早くなっていた。女性が私の存在に気付き、こちらを振り返る。綺麗な顔立ちなのに、額から流れる傷が生々しい。

 敵の数はわからないけど、きっとあまり多くないはず。大丈夫。大丈夫よ、きっと。

 邪魔だからと脱いだスヌードは、私を攫った女に被せた。そのおかげで、少し身が軽い。体は温まった。もう、必要ない。

 ウィッグは使い物にならないけど、整えて着けることにした。だから、私の見た目は、おかしくないはず。それでも、彼女の瞳は大きく、開かれている。涙で溢れた輝く目元と、緩やかに靡く黒髪。月の女神嫦娥をも羨むだろう、白い肌。透き通った青色のローブから片胸の出た、弱々しい彼女の姿——。

 バッグは未だ、どこにあるのかわからない。私の居場所すら、不明。だけど——。


「——大丈夫」


 彼女にか、自分自身にか。まじないの言葉を呟く。


「大丈夫。扉から離れて、見守っていて」


 静かに頷き、しゃりんと鳴る破片から降りる。子供みたい。時折嫌な声が聞こえるけど、その他には何も聞こえない。早くも、遅くもない、自分の呼吸のみ。一切の無音本当は嘘。首の骨を鳴らし、息を吐く。

 シーンは、開かれた。

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