第2話

ある晴れた日のこと。平五とおみえはにぎり飯を持って散歩に出かけた。いつもなら蔵を開けて店の準備に取り掛かるころだが、今日はあまりにも天気が良かったのでそんな気になれなかった。

「ちょっと申し訳ないかな、お客さんたちに」

平五は言った。大小堂には複雑な事情を背負った客もやってくるので、平五はそこを心配していた。対しておみえは楽観視していた。

「大丈夫よ。あたしたち、いつも働きづめだったんだから、たまにこうしてお出かけしたくらいじゃあバチは当たらないわ」

「そうだけど、気持ち的になんだか悪い気がしてね」

「もう・・・」

おみえは平五の脇腹をつついた。

二人は適当に道を歩いた。強いて言うなら、より緑の豊かそうな所へ、無意識に進んでいた。そうすると、彼らは山へたどり着いたようで、そこで昼食をとることに決めた。そこからの景色は良好で、おかげで会話も弾んだ。これが夫婦の幸せというものなんだな、と彼は思った。

――おみえと二人でいられるだけでいい。日常の些細な幸せこそ、大切にしないといけないから。


一年前、平五がおみえに激しく求め、そして全力で拒まれて泣いたあの日の翌日、さすがに二人は話し合う必要があった。平五は意を決しておみえに問いただした、なぜ愛を確かめさせてはくれないのかと。すると意外な答えが返ってきた。

「幼いころに父上と母上が致しているのを見て、なんだか恐ろしくて・・・。今でも、引きずっているようですの」

おみえは涙ぐみながら言った。それを聞いた平五は拍子抜けした。彼はもっと、不感症だとか、子供が作れない体質だとか、そういう深刻なものを想定していた。子供を産めないとなると離婚もありえたので、そうではないと知った彼は、急におみえがいとおしく思えた。平五はおみえを包むように抱きつき、耳元でこうささやいた。

「焦る必要はないよ。俺はそんなことしなくても我慢できるし、おみえが嫌がってまでしようとも思わないんだよ。ゆっくり、愛を育みながら、二人が幸せになれる道を探していこう」

こうして、不幸中の幸いにも、この出来事は二人の距離を縮める結果となった。以降一年たっても、二人は一度も交わったりしなかったが、十分に幸せな生活を送っていた。流石に、たまには肉欲が平五を襲うこともあったが、そんな時は厠でこっそり処理して難を逃れた。


しかし、上手くいっていることばかりではない。まず二人はそれぞれの両親に事情を説明する必要があった。そもそも彼らはまだ自分たちが子づくりを始めていないことすら伝えていなかった。「もし必要なら、養子をもらって跡を継いでもらうことにする。父上らにもそれで納得してもらう」と平五は一度おみえに提案したが、双方の両親が子供を心待ちにしているのを見ると、とてもそうする気にはなれず、難しい問題であった。


さて二人がピクニックを終え店へ戻ると、店のまわりを人がウロウロしていることに気が付いた。平五は客かと思ったが、見るとそれは彼の弟の伝次郎でんじろうと呼ばれる青年だった。「よ」と彼は平五に挨拶した。

「どうも、おみえさん。今日はいい天気ですね。お出掛けでしたか。あ、荷物が重そう。持ちますよ?」

彼はその女性への紳士的な振る舞いで周囲から気味悪がられた。蘭学から得た「れでぃ・ふぁーすと」なる考えを実践しているのだが、性差別のはっきりしていた当時は異質なことであった。

「伝次郎さん、いつもお世話になっております。今日は主人と散歩に出かけていたのよ。ところで、今日はどうしてこちらへ?」

伝次郎は、平五と二人で話をしたいと言い、おみえに家へ戻るようすすめた。おみえは「では夕飯の支度をしておきますので、ごゆっくり」と言って家の中へ入って行った。伝次郎は「さて団子でも食おうか」と誘ったが、平五は夕飯が食えなくなるからと断った。すると、彼は深刻な表情で「おみえさんとのことで話しておきたいことがある。ここじゃ話せないことだから、とりあえず団子屋へ行こう」と言った。

伝次郎がおみえのことで相談?平五は意味が分からなかったが、何か良くない知らせであることは間違いなさそうだった。彼はそれが大したことでないことを祈りながら、伝次郎と歩きだした。


・・・団子屋にて

「まず、断っておくとな、平五・・・ゴホッ」

伝次郎は出そうとした言葉が喉につっかえたようで、落ち着くために茶を啜った。

「俺は、お前とおみえさんが、末永く幸せでいてほしいし、これからも応援していきたいと思っている」

「何だ、いきなり」

「まあ聞け」

「落ち着いて、最後まで、聞いてくれ」と伝次郎は続けたが、彼の手は震えており、伝次郎のほうが落ち着いていないという有様だった。平五は何が何だかわからず、ただ彼の次の言葉を待つしかなかった。

「お前、・・・おみえさんと最後に接吻せっぷん(キス)したのはいつだ」

伝次郎は言った。それを聞いて、平五は石のように固くなった。バレかけている、と彼は思った。

――どういうことか。もしかして、おみえが産まず女だと勘違いしているのだろうか。そして今日は、父上たちが何か行動を起こしたのかもしれない。でも、どんなことが起ころうとも、離婚だけには、絶対になってほしくない。なってはならない。

しかし、次に伝次郎が口にした言葉は、もっと非情で、もっと残酷だった。

「おみえさんを、めかけに欲しいと申し出た男がいる。平五、お前の嫁であることを知っているうえでだ」

「う」と平五は声を出した。

「そいつは、・・・言いづらいが、お前さんたちは、まだ一度も子づくりしたことがないようで、・・・それをなぜか知っていた。俺も親父たちも、それを聞いたときは度肝を抜いたよ。でもそいつは、平五は何も悪くないとかばって、はやく、二人は離婚するべきだと言った。そして、代わりに、自分の妾にもらうつもりだと言い出したんだ。ふざけた話だが、本当だ。もうおみえさん側の親族とは話がついているようで・・・」

「ま・・・待ってくれ。頼むから、ちょっと時間をくれ」

平五は腰を抜かすほど驚いた。ひゅー、ひゅーとまるで過呼吸のような音をだし、「仏様」と呟いた。いくらなんでも唐突すぎる!、と彼は思った。

「一体、どこのばか野郎だ。そいつは、一体、誰なんだ」

「“義一ぎいち”・・・とかいうやつだ。そいつはお前とは馴染みがあると言っている。そうなのか」

義一、、、平五が知る限り、その男は大小堂の常連客のことである。呉服屋のお坊ちゃんとかで、羽振りが良さげな客であった。平五は、彼が大小堂に多くの金を落としてくれることに感謝しつつも、おみえになれなれしい態度が気に食わず、よく文句を言っていた。その時の義一は特に腹も立てず、素直に謝るのだが、その態度がまた平五にはと見えて、いらいらさせた。

「なるほど、合点がいったよ。つまりは、金で丸めようって魂胆なんだな、そうだろう?」

平五は伝次郎をじっと見つめた。伝次郎は、自分が責められているような気がして、身を縮めた。

「そうだよ。確かに義一はこれは謝礼だとか言って、金を出したさ。10両あった。でも、もちろん受け取ってはいないぞ。親父も『急なことだから受け取れない』と断ったんだ」

「『急なことだから』・・・か」

平五は失望した。伝次郎の口ぶりから、両親たちが、まんざらでもないような受け止め方をしていると感じたのだ。

「とにかく・・・俺が今日伝えたかったのはそれだけだが、親父たちには、本当にお前たちが子作りを始めていないと、始める気もないようだと、伝えてもいいか」

「・・・隠しても無駄だから、好きにするといい。でも、俺たちの許可なしにそういう話を勝手に進めるのは許せない。とにかく、俺は義一と話がしたい」

「あ、そのことなんだが、義一のほうもお前と話をしたがっているらしい。しかし平五、注意したほうがいい。お前一人ってのが気になる」

「承知の上だよ。とにかく話さないことには解決しない。でも、俺のほうから、邪魔して大丈夫だろうか」

「分かった。俺が取り次いで聞いてみる。・・・しかし平五、変な気は起こすなよ」

伝次郎はそう言い、口角を上げて見せた。明らかに作っていると分かる笑顔であった。

「ありがとう。迷惑はかけないよ」

平五は帰る支度をした。


・・・その日の夜にて

平五は、帰っても義一のことをおみえに話さなかった。話したところで、おみえを不安にさせるだけだと思ったのだ。だから自分一人でどうにかしなくてはならない。一方おみえは平五の謎の熱い視線を不安に思ったが、大して気にすることはなかった。

飯を取り終えると、平五は一人で散歩に出かけた。なんとなく、河川敷で夜空を見上げたい気分だった。固くてデコボコした石ころの上に寝っころがると、なんだかひんやりしていて気持ちよかった。平五は蔵から持ちだしてきた名刀、正宗をふところから出し、じっくりと眺めた。暗くてよく見えなかったが、満月の輝きから反射されて見える正宗の切っ先が、恐ろしいほど鋭利に見えた。

「うん、そうだな。この高い気迫のこもっているところは、正宗の作に違いない」

平五はうなずいた。そして、ため息をついた。

「義一は、俺とおみえの関係を知っている。おみえの事情を知っている。知っているうえで、おみえを妾にしたいという。それはなぜか」

「それだけじゃない。あいつめ、俺に落ち度がないだと?周到な調べようだな。なぜそう言い切れる」

平五には手掛かりがあった。

「思い返せば、義一が店にやって来たときのおみえの様子は、普通じゃなかった。やたら義一から避けているような感じがあった。それは俺も気づいていた。俺は、それは義一がおみえに無理に言い寄るからだと、ずっと思っていた。でも、もし理由が別にあるとしたら?義一とおみえに、俺の知らない過去があったとしたら」

――もし、義一がおみえを手籠めにし、無理やり抱いた過去があるのなら__

「すべての辻妻が合う」

平五は瞳を閉じた。そして、かぶりを振った。

「そうは思いたくない。だが、可能性は否定できない」

平五のまぶたがけいれんしだした。彼は、目頭が熱くなるのを感じた。

「おみえ」

そうつぶやいた彼の声は、ほとんどかすれていて、川の音にかき消された。


同じころ、義一は邸宅で一人書物を読んでいた。召使の呼ぶ声が聞こえて、彼は「入れ」と命じた。

「先ほど、伝次郎さまがいらっしゃり、言伝を預かりました」

「平五のことか」

「はい。平五殿が義一様との面談に応じる模様です。ひいては、具体的な日時と、場所を決めてほしいとのことでした」

「分かった。それは考えておく。それより、用心棒たちは今どうしている」

「は、引き続き、おみえ様の密偵に励んでいる模様です」

「よろしい、下がれ」

召使は「失礼しました」と言い、下がった。とうとう来たか、と義一は思った。

「平五さえ攻略すればすべてがうまくゆく」

彼は、気持ちよさそうに、寝っころがった。彼は今でも、おみえとのひと時を、鮮明に思い出せるようだ。

――いやだ、やめて。ああ・・・痛い、痛いわ。お願い、勘忍して・・・!ううっ


フンッと何かを思い出したように義一は鼻を鳴らした。

「あのうめき声はよかった」

「かならず、もう一度抱いてやる。闇を抱える女は、どんな声を出すのかな」

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