愛情

@Kosuke_N

第1話

時は江戸中期、戦乱の世を知る人間がいなくなり、泰平の世が当たり前になったころの話。大小堂という小さな質屋を営む夫婦がいた。夫の名は平五へいご、妻はという。おみえは20歳で平五は25歳。一年前に籍を入れたばかりで、子供はいなかった。


今日こんにちは雲一つない快晴で、夏の暑さと日の出の早さから二人はいつもより早く目が覚めたようだ。おみえは朝食の支度を始めて、平五は店を開ける準備に取り掛かった。彼が品物を保管している蔵を開けると、そこには太刀と脇差わきざしがびっしりと置かれていた。これが彼の商売道具なのである。


彼は刀の質屋を営んでいる。客のほとんどが家計に窮した浪人か、収集家の金持ちだった。たまに吉原の女らしき人物が「これ売れるでありんすか」と言って立派な太刀を持ってくることもあるのだが、得体のしれないモノはたいてい断った。


朝食を取り終えると、店を開け客との真剣勝負が始まる。平五を若造と見くびって、法外な価格で売りつけてくる客は少なくない(逆に限界まで安く買おうと値切る客もいた)。しかし平五は刀の目利きに優れていた。自分の目に自信があるから相手のゆさぶりには動じない。その強さが今日まで大小堂を繁盛させてきた。しかし平五は人と話すことが苦手だった。うまく断ろうにも断れず、相手を不快な思いにさせてしまうこともしばしばあった。その上繊細な性格で、気を悪くすると自分から喧嘩を吹っかけてしまうという精神的な弱さも持ち合わせていた。


おみえはそんな夫のよき理解者であり、相性の良いパートナーだった。夫が客といるときはたいていが仲裁に入るとおさまった。どうやら言葉からにじみ出る彼女の穏やかな性格が、人々に安らぎを与えているらしい。平五も妻になだめられると不思議と心が落ち着いた。これは自分にはない素晴らしい才能なので、その点において彼はおみえを尊敬していた。


規模の小さな店にもかかわらず、大小堂の客足は絶えなかった。これは店の信頼のあかしであるが、中には目当てに冷やかしで通う客もいた。そういう客はたいてい平五ともめた。


さて二人は店を閉めると夕飯を食う。当時は1日2食が当たり前の時代だった。また刀の目利きは頭をよく使うこともあり、平五はよく食べた。おみえもよく食べたが、これはただ彼女が食いしん坊だったからである。


あとは銭湯に入ったり、家計簿をつけたり、会話を楽しんだりして1日が終わる。以上からもわかるように、二人はまだ若いが人並みの生活ができるだけの裕福さはあった。互いに愛し合い、裕福で不足のない生活を送っている二人はとても幸せなことだろう。しかし平五には一つだけこの生活に不満があった。二人は籍を入れて一年の月日が流れたにもかかわらず、一度も交わったことがなかったのだ。夫婦なら行ってしかるべきその行為をなぜやらないのか。それにはおみえの複雑な過去が絡んでいるのだが、それは作中でいずれ述べるとして、まずは平五の涙ぐましい努力を知っていただきたい。


二人は親の勧めでお見合いし、そしてめでたく入籍した。驚くべきことに、これにはたった3か月しか要さなかった。2人は初めて会った時から互いに惹かれあっているご様子で、これを認めた双方の両親はいそいそと二人が早くくっつくように、様々な手を尽くしたのだ。


二人は式が終わった後、自分たちのこれからについて話し合った。その会話にはまだ恥じらいとぎこちなさが残っていた。しかしおみえにとってそれはとても甘酸っぱいひと時であり、彼女はとても心地の良い空間だと思った。対して平五はムラムラしていた。彼は式の夜には必ず行われる儀式があることを知っていた。当然自分たちもそれを行うものだと確信していた。しかしいざ床についてみると、なんというか雰囲気で、おみえがそれを行いたくない様子であることを感じ取った。そこで平五は自分が早とちりしてしまっていることに気が付いた。

――まだ出会って間もない仲だ。別に今日やる必要はないだろう。互いがその気になるまでじっくり待とう。


そして2日がたった。今夜は半月だった。ちょっと平五も恋しくなり、それとなくおみえに触れてみた。それにおみえの体は過剰に反応した。とても驚いたようにびくっと体を震わせたのだ。女の繊細な心を読むことは刀の調子を確かめることに似ている。平五は機がまだ熟していないことを悟った。「ごめんよ」と言って、今夜もそのまま寝ることにした。


そして、とうとう二人が入籍して10日が立ってしまった。さすがの平五ももう我慢できなかった。鼻息だけ聞いたらもはやオオカミだった。彼はふとした衝動で布団をぶっ飛ばし、おみえに抱き着いた。この時、彼は恥ずかしいことを言った、「おみえ大好きだ!」。おみえは度肝を抜かれ、必死に抵抗した。しかし平五はそんな彼女のことなどお構いなしに事を進めようとした。彼の頭の中はあのことでいっぱいだった。実は平五はとある勘違いをしていた。おみえは初めてだから緊張しているだけで、自分が先導してあげたらそれをする気になってくれると本気で信じていたのだ。もちろんそんなことはなかった。おみえは力いっぱい主人の頬を叩いた。それが性欲がぶっ飛ぶほどの衝撃で、ようやく平五は正気に返った。そして見ると、おみえがはだけた姿で泣いていることに気が付いた。普段言いもしないことを言い、普段見せもしない自分をさらけ出したのに、本気で拒絶され、おみえを泣かせてしまった....これが平五にとってどれだけ屈辱なことだったか、記すに及ばないだろう。彼は自分を恥じた。下賤な人間だと心の中で罵倒した。そして彼は必死におみえに謝った。「おみえ、済まなかった」と何度も頭を下げた。しかし、おみえの方も「あなた、ごめんなさい」と何度も謝り、事態の収拾がつかなかった。


しばらくして落ち着いた二人は、とりあえず今夜は眠ることに合意した。しかし平五はその前にかわやへ行った。彼はそこで泣きながらマスをかいた。それはとても複雑な心理だった。彼の感情は罪悪感から自分への嫌悪感へと変化していた。自分のいやらしさ、汚らわしさに辟易とし、もういっそ川に身を捨ててしまいたい気分になった。ここで筆者の意見を言わせてもらうと、平五はいやらしくもないし、汚らわしくもない。交わることはとても健全なことであり、時に神聖でもある。それをおみえに求めることは決して間違ったことではなく、とても素晴らしいことなのだ。ただし何がまずかったというとそれは意思疎通の乏しさだった。二人はまだ性のことを気軽に話せるほど親密な仲ではなかった。平五が自分の性欲をしっかりコントロールし、きちんとした順序を踏めば、少なくともおみえは泣かなかっただろう。ここで読者にこのような指摘を受けるかもしれない。「おみえもおみえで、何か事情があるのならはっきり言うべきでは?」。ごもっともな意見だと思う。しかし、おみえにも女性なりの複雑な事情があったのだ。それは後でわかるので、今は温かい目で見守ってほしい。

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