小谷 進 無口な少女

鞍美台に来て初めての朝を迎える。

うっすら目を開けるとカーテンの隙間から朝日が差しこみ、朝の訪れを告げていた。布団の中で大きく背伸びをして上体を起し、カーテンを思いっきり開ける。窓を開けると、新鮮な空気が飛び込んできた。空気が美味しいと生まれて初めて思う。街中ではなかなか味わえない感覚に少しばかり浸った。すでに田舎暮らしに溶け込んでいるようだ。昨日まで都会に居たことが嘘のように思えてくる。軋む階段を下り、リビングへ足を運ぶと、母親は鼻唄を歌いながら皿洗いをしていた。


「おはよう。」

「あら、今日は早いのね。」


言われて時計に目をやると、七時になったばかりだった。確かに早い起床である。今までは目覚まし時計が鳴ろうと、母親に怒鳴られるまでは布団から出たことがない。


「ちょっと村を見て回りたくて。ほら、初めての場所だし、いろいろ知っておかないと。」

「いい心掛けね。報告楽しみにしてるわよ。」


どこから涌き出てくる好奇心だろうか。すぐにでも家を飛び出したくてたまらない。


「父さんは?まだ寝てるの?」

「お仕事よ。朝早く出ていったわ。今日は新しい職場だから挨拶周りをするって張り切って出ていったわ。」


口元に手を当て、子供のように笑いながら言った。そう、僕だけではなかった。新しい環境を迎えるのは、父も同じだ。母だってそうだなと改めて思う。友達から離れて確かに寂しさはあるし、生活だって今まで以上に不便になるだろう。だけど、こうやって家族揃って新しい道を進むのは悪くはない。


「気をつけて行きなさいね。あまり遠くに行ったら駄目よ。ほら、浅野さんも言ってたでしょ。ここには警察も居ないみたいだし。迷子になったら大変よ。」

「はーい。」


中学生になっても心配は尽きないようだ。親心だろうか。有り難く受けとめておく。目の前に朝食が準備された。ハムの上にのった固めの目玉焼きと、こんがりと両面が焼けたパンを口いっぱいに頬張り、牛乳で流し込んだ。さて、出発しよう。顔を洗って、服を着替え、履き古した運動靴の紐を結び直した。


「行ってきます。」


張り切って玄関から飛び出した。空には大きな雲がその場から動きたくないのか、思い腰をゆっくりと動かすように流されていく。僕は湧き出す好奇心を押さえきれず早々と家から出た…までは良かったが、一歩踏み出せば同じような景色が目の前に広がり戸惑いを感じていた。土地勘のない場所だ。目指すものも何もなかった。悩んだあげく、とりあえず川沿いの道を歩いてみることにした。鞍美台を右と左に分けるように村の中央を堂々と流れる川を目印に歩いて行けば、まず迷うことはない。さらに、この集落は川の周りを囲うように広がっているようにも見えた。道に迷うことなく、尚且つ、あらかた村を見渡すには絶好の散歩道であった。緩やかな登り道をしばらく進むと、30メートルほど先だろうか、川に石橋が架かっていて、向かい側へ渡れるようになっていた。その橋の少し右の斜面には階段が備え付けられていて、川の近くまで下りることができそうだ。

…あれ、誰かいる。

川岸まで続く階段の途中に誰か座っている。女の子だろうか…。石橋まで辿り着くと、容姿もはっきりと見えてきた。麦わら帽子の紐を首に掛けて後にずらし、肩まで伸ばした黒い髪を風に揺らせていた。肌は白く、薄い黄色のワンピース。怪我をしているのか、左手首に包帯を巻き付けている。川の流れをじっと見つめるその姿は、風景に溶け込んでいて、一枚の絵画のように美しく思えた。歳は同じくらい、中学生だろうか?思いきって声を掛ける。


「こんにちは。初めまして。」

「…。」


階段の上から声をかけてみたが、返事がない。声が小さかったと思い、少し声のボリュームを上げてみる。


「昨日ここに引っ越してきたばっかりなんだけど。良かったらこの村のこと教えてくれませんか?」

「…。」


返事はなかった。聞こえていないはずはないだろう。街中ならともかく、何の騒音もない静かな場所だ。まさか、日本語が通じない…いや、落ち着こう。それはなさそうだ。外国人には到底見えない。これは、いわゆる…無視だ。外部から来た人間を簡単には信用しないつもりなのだろうか。それならこちらも無理にとは言わない。村に来て初めて同い年であろう子供と会えて、少し浮かれていたのかもしれない。諦めて立ち去ろう。


「小谷 進って言います。またどこかで会ったら、よろしくね。」


名前を告げては見たが、やはり反応はなかった。もし村の皆が同じ対応なら、これから送る学生生活…考えたくもなかった。もしそうなったら、こんな環境に身を置いた父を恨むかもしれない。

石橋から離れると段々畑が広がる道に繋がり、丘の上に少し大きな建物が見えてきた。目の前に立つと田舎には似合わない近代的な建物で、周りをアスファルトの壁に囲まれていた。


「おや、見ない顔だな?迷子にでもなったかい?」


どこか聞き覚えのある声が頭に響く。声のする方向へ振り向くと、がっちりとした体格に作業服姿、浅野だった。


「こんにちは。小谷 進と言います。」

「小谷…。ああ、小谷さん家の息子さんか。浅野です。よろしく。こんなところで何をしているんだい?探検かな?」


顎を手で撫でながら顔を近づけてくる。


「そんなところです。いろいろ見てみたくて。ここは少し他と雰囲気が違う建物みたいですけど…。」

「ここは村の役所で、私の職場でもある。まぁ簡単に言えば、村の何でも屋さんかな。学生さんもよく来るよ。中には図書館も備えてるからね。そうだ、少し中を案内してあげるよ。」


浅野は近くに自転車を止め、連れ添うように歩き出した。僕も自然と歩幅を合わせる。建物の自動ドアを入ると、中には少し大きめのカウンターがあり、その奥では、机に向かって何かを書いている人もいれば、パソコンのキーボードを軽快に打ち鳴らしている人もいた。5、6人と数は多くない。


「田舎だからね。働き手も少ないよ。」


頭をポリポリかきながら答えた。


「そうだ。あそこに村の地図がある。」


カウンターから左側の壁には一面に鞍美台の地図が貼り付けられていた。


「今居る役所がここ。君の家がこの辺かな。そして、これから君が通う学校がここだ。」


地図を指しながら一つ一つ丁寧に教えてくれた。学校は役所からそう遠くないようだ。周りを森に囲まれた高台で、村が一望できるらしい。また村には学校は一つしかなく、小学生から中学生までの一貫教育となっている。児童の数も20人ほどでクラスも一つしかないという。今までの経験からは考えられない環境だった。学校の他にも、ここがあれで、あそこが…と説明は20分ほど続いた。話に終わりがみえた頃合で、最後に一言、絶対に守ってほしいと念を押された。


「いいかい。この場所には立ち入ってはいけない。絶対に、いいね。」


真剣な顔つきだった。学校から少し下った坂の途中に、山に向かう階段道があるという。そこには決して入ってはいけないらしい。さあ、と笑顔を作り直した浅野が言うと、渡り廊下へと案内をしてくれた。


「ここから先の建物には村の図書館がある。自由に出入りできて、朝9時から夕方5時まで開けている。行ってみるといい。」


浅野と別れ、図書館に向かう。街のコンビニ位の広さしかないが多くの本が並び、本棚の奥には本が読める机があった。覗いてみると、すでに一人先客がいた。


「あの…。」


先程のこともあってか、村の人に話しかけるのが少し不安になる。茶髪のショートカットで鼻筋が通っていて、綺麗な顔立ちをしている。ピンク色のTシャツにデニムのショートパンツを履いたボーイッシュな女の子だった。声に気付いたのか、本からこちらに視線を向けると、


「やっほ。初めまして。」


笑顔で言葉を返してきた。名前を明日香というらしい。お互いに簡単な自己紹介を済ませると、少しだけこれまでの話をした。


「なるほど。引っ越してきたということは、私達同じ学校に通うことになるんだ。へー、楽しみ。これから仲良くお願いしまーす。あ、もうこんな時間。じゃあ、私はお使いがあるから、また会おうね。」


そう言い残すと、明日香は手にした本を元の棚に戻し、その場を去って行った。まさに台風のような人だったが、後味は悪く感じなかった。


ふいに時計を見上げると、指針はすでに3時を迎える少し前に差しかかっていた。誰も居なくなった図書館を抜け出し、朝来た道を確かめるように、自宅を目指して歩き出した。


帰り道、石橋の階段には、あの子の姿はなかった…。





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