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「というか、ヴィクトル帰らないの?」

 ヴィクトルの足を踏んづけてから十数分後、いい加減怒りの収まってきたコレットは、いつもまでも後ろを付いて歩く彼に、そう聞いた。

 足を踏んづけた時こそ痛そうにしていた彼だが、今ではもうなんてことない顔で普通に歩いている。なんだかそれが少しいけ好かない。

 けれど、なんだかこのやりとりにも少しだけ、本当に少しだけだが、愛着がわいてきたような気がする。

 コレットはそんな自分の心を隠すかのように、努めて固い声を出した。

「最近、孤児院の方にも来れてなかったから、来てくれるなら子供達も喜ぶと思うけど……。忙しいんじゃないの?」

「え? あぁ、さっきの話聞いてなかった? 俺は確かにコレットのデートを邪魔しに来たんだけど、もう一つ用事があってね」

「用事って何よ?」

「さっきも言ったじゃないか。父がコレットに会いたいって。しかも、俺も同伴するようにって言付けられたよ」

「はぁあぁ!? 国王様が!? なんで? なんか怖いんだけど!?」

 ヴィクトルの言葉にコレットは目を剥いた。

 国王が誰かを呼び出し、直々に会うだなんてなんて、ただ事ではない。何か命令をするにしても、要件を伝えるにしても、書状を送るのが一般的だ。それこそ半年前のような皇女暗殺事件でも起こらない限り、国王が平民であるコレットに直接会おうとするとは到底思えない。

 彼女が“戦姫”ともてはやされた、かの戦争の時でさえ、コレットが国王と直々に顔を合わせた回数は、片手の指に収まるぐらいだ。

 何か嫌な予感がする。

「そんなに怪しまなくても良いじゃないか。もうコレットは俺の婚約者って立場なんだし、父がコレットを呼び出すのもおかしくないと思うよ」

 ヴィクトルの軽い物言いに、コレットは言葉を詰まらせた。

 確かに、平民の・・・コレットと直々に会うのはおかしな話だが、ヴィクトルの婚約者・・・・・・・・・のコレットに会うのならそうおかしな話ではない。

「要件については、実は俺も知らないんだよね。てっきりコレットが何かしたのかと思ったんだけど、そういうわけでもなさそうだし……」

「本当に何も知らないの? そういうこと言っておいて、本当は全部知ってましたー! とか言って、私のこと騙すんじゃないの?」

 普段から散々煮え湯を飲まされている関係だ。彼女がそう疑うのも無理はない。

 コレットが今まで出会ってきた人間の中で、ヴィクトルほど油断のならない人間はいなかった。

 そんな油断のならない男は、飄々と笑ってみせる。

「俺がコレットを騙すなら、もう少しうまくやってみせるよ。それこそ、コレットが一ミリも疑問に思わないように立ち回ってみせる」

「……騙さないって選択肢はないの?」

「騙されないって自信はないの?」

「ああ言えばこう言う!!」

 ヴィクトルの切り返しに、コレットの怒りのパラメーターはまた上がっていく。

 しかし、怒ってばかりもいられない。

「で、国王様の招集はいつなの? 明日……は早いから、一週間後ぐらい?」

「三時からだよ」

「はい?」

「今日の三時から。場所はいつもの部屋らしいよ?」

「って、今何時!?」

 焦ったようなコレットの声にヴィクトルは胸元から懐中時計を取り出した。そして、彼女にみせる。その時計の長針は十二。短針は二を指していた。

 ちょうど二時だ。

「ちょっと、それ早く言いなさいよ!? 一時間しかないじゃない! ヴィクトルはそのままの格好で良いかもしれないけれど、私はドレスを着る時間とかもあるのよ!?」

「あぁ、そうだったね。間に合わないようなら、俺が手伝ってあげようか? 脱がすのも、着せるのも、割と得意だよ?」

 からかっているだけとわかっているのに、コレットはその言葉に赤くなる。頬が熱くなってどうしようもないけれど、それをヴィクトルに見せるのはなんだか癪だった。

「――っ! 結構ですっ!」

 コレットはのんびりと歩くヴィクトルを置いて、城の方向へと走っていった。

 まるで逃げるように。


◆◇◆


「ティフォン、もうちょっと急げない?」

『急いでも良いけど、あんまり急ぐと人の速さじゃなくなるから《神の加護》使ってるの一発でバレるよ? 良いの?』

「そ、それは……」

 ヴィクトルと別れたコレットは、城へ向かい走っていた。城門に通じる道が大通りなので、コレットはティフォンを呼び出したのにもかかわらず、その力を存分に生かせないでいた。

 風に背中を押されるようにして走っている彼女は、人が速く走れる限界ギリギリの速度だ。

 まだ《神の加護》については、国か国王の了承なしに使ってはいけない決まりになっている。前回の事件を解決したことで、国王もさほど目くじらを立てる気はなさそうだが、それでも一般人の前では使わない方が良いだろう、と言うのが彼女の判断だった。

 コレットだって、平民の自分が王族しか持たない力を扱えるということが、どういうことかはわかっているつもりだ。

「じゃぁ、ちょっと森の中に入るわよ!」

『どうするの?』

「誰も見てないところで、城壁を飛び越えるのよ! そっちの方が速いでしょう?」

『もー、仕方ないなぁ』

 更にスピードが速くなる。

 コレットが森の中に入ると、風が全身を包んだ。それはまるで重力がなくなったかのよう。彼女は跳ねるように木々の上を進んでいく。

 そして、立ちはだかった高い壁を一跳ねで飛び越えた。

 コレットがちょうど空を舞っている時、歌声が聞こえた。川のせせらぎのような優しい歌声だ。テノールよりは少しだけ高いその美声は、コレットの意識を地面に向けるのに十分すぎるほどだった。

「え?」

「あ」

 青年と目が合った。恐らく、彼がその声の持ち主だろう。

 見下げる形になった彼の茶色い髪の毛は軽くうねっていて、エメラルド色の瞳は、空を駆るコレットを映していた。服装はシャツにズボンという軽めの格好なので、もしかしたら非番の騎士なのかもしれなかった。

『ちょ、コレット! 集中して!!』

「あ、へ? ちょ、ちょっとっ!」

 急激に身体に重力が戻ってくる。

 緑色の大きな瞳に見とれていたからか、コレットは集中力を欠き、真っ逆さまに落ちていってしまう。その先にはあの青年の姿。

「ちょっと! にげてっ!」

 ティフォンがかろうじて落ちるスピードを落としてくれたので、逃げる時間はあったはずだ。しかし、彼は何を思ったのか落ちてくるコレットを受け止めようと手を伸ばしていた。

「――ちょっとっ!」

 身体同士がぶつかる。青年はコレットを受け止めきれず、足を滑らせた。

「――っ!」

 とっさの判断でコレットは彼の頭を抱え込む。このままでは後頭部を打ってしまうと思ったからだ。二人はもつれたままごろりと転がる。気がつけばコレットが青年を押し倒すような形になっていた。

「怪我はない!? 大丈夫?」

「あ、はい。庇ってくださったので……」

 コレットを見上げ、彼は呆けたような声を出した。

 彼の無事な様子にコレットは肩の力を抜いて、その場にへたり込んでしまう。青年の方も身体を起こした。

「ごめんなさいっ! 急いでて!」

「貴女は……?」

「コレット、急がないとダメなんじゃない?」

 物陰に隠れて顕現したティフォンがそう声をかけてきて、コレットは焦りながら立ち上がった。そうして、座り込む青年を立ち上がらせる。

「今日は本当にごめんなさい! それじゃ、急いでるから!」

 コレットは深々と腰を折った後、踵を返した。しかし数歩走っただけで、振り返ってしまう。その顔には笑顔が浮かんでいた。

「あと、歌上手ね! もし、また会うことがあったら、今度は一曲聞かせてちょうだい!」

「え、あっ! はいっ!」

「それじゃ!」

 コレットは走り去る。その後ろ姿を眺めながら、彼は風に掻き消えそうな声でぼそりと呟いた。

「……かわいい……」


◆◇◆


「間に合ったー!」

 コレットは以前寝泊まりしていた部屋に滑り込むと、そう声を上げた。

 城の中に自分の部屋がもう用意されているというのはおかしな感覚だが、こういうときは純粋にありがたいと思ってしまう。クローゼットを開ければ袖を通したことのあるドレスがコレットを出迎えた。

「でもここからが戦争よ! 急いでドレスを着なくっちゃ!」

 ヴィクトルと別れてこの部屋に辿り着くまでに三十分程度しかかかっていない。しかし、ドレスに着替えて化粧をしていたらそんな時間などあっという間になくなってしまうだろう。

「ねぇ、コレット。謁見って三時からだったよね?」

「そうだけど……って、え?」

 ティフォンの声にコレットは部屋に置いてある時計を見て、固まった。

 時計はまだ一時半を指している。今からゆっくり準備しても十分に間に合う時間だ。

 コレット耳に、ここにいないはずのヴィクトルの声が響く。

『ほら、一ミリも疑わなかっただろう?』

「――っ!」

 一瞬にして沸点を超えた怒りをぶつけるように、コレットは手に取ったドレスを寝台に投げつけた。


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