エピローグ

 ステラの事件を含む一連の出来事から一ヶ月。

 コレットはすっかり元の生活に戻っていた。

 数個の仕事を掛け持ちしながら、孤児院のために奮闘する生活である。

 公爵家の娘となったステラとは今ではすっかり文通仲間で、殆ど毎日のように手紙が届いていた。彼女はいまだにコレットのことを男性だと思っているらしく、届くのは恋文のようなものも多い。いつか本当のことを言わなくてはとも思うのだが、どうにもそのタイミングをはかりかねているところだった。

 突き抜けるような青い空に、綿菓子のような雲。

 コレットは頬に泥をつけたまま、苗の植え終わったばかりの畑を見渡した。

 そうして、満足そうに頷く。

「よし! 完璧!!」

「今日も精が出るね。はい、手ぬぐい」

「ありがとう……って、なんでアンタがここにいるのよ……」

 差し出された手ぬぐいを受け取りながら、コレットは半眼で隣にいる彼を睨みつける。

 そこにはヴィクトルがいた。まるで最初からその場にいたかのように馴染んでしまっているところが逆に恐ろしい。

「今日も来ちゃった」

「『来ちゃった』じゃないわよ。こんなところで何してんのよ、忙しいんでしょう?」

 王太子が遊学という形で国から消えた今、ヴィクトルは以前にも増して忙しそうにしていた。にもかかわらず、彼は三日と置かずに孤児院に顔を覗かせている。

「忙しいけど、婚約者殿の様子は見に来なくっちゃね」

 飄々とそんなことを言ってのける彼に彼女は顔をしかめた。それもそうだ。

 結局、コレットとヴィクトルの婚約はそのままなのだ。

 コレットが今の生活に戻れているのはいわゆる結婚までの準備期間らしい。コレット的には準備期間なんて一生終わって欲しくないのだが、このままでは本当に近い将来結婚させられてしまいそうである。

「あ、ヴィクトル! おひさぁ!」

 そんな時、孤児院の方からティフォンが可愛らしい声を上げながら歩いてきた。

 小さな手を振り上げながら彼はまるで毬が弾むように二人の傍まで来る。

「ティフォン、久しぶり。……と言っても一昨日ぶりだけどね」

「そうだっけ? こうもゆったりだと、時間間隔狂っちゃうよねぇ」

 おっとりそう言って、ティフォンはその場に腰を下ろす。

 彼を見下ろしながら、ヴィクトルは何かを思い出したかのような顔つきになった。

「そういえば、ティフォンが消えた原因って結局なんだったんだい?」

「あ、それ! 私も気になったのよね! 肝心な時に現れてくれたからいいものの、突然消えるとか本当にやめてよね……」

 コレットが賛同するようにそう言うと、ティフォンは頬を膨らませた。

「ボクが使えなくなったのはコレットのせいなのに、勝手にボクだけのせいにしないでくれる?」

「え、私の?」

 驚いたコレットにティフォンが人差し指を突き付ける。

「そうだよ! コレットがボクのこと否定するからでしょう? 『こんな力なんてなかったらよかったのに』なんて思われたら、僕らだってコレットに力を貸してあげられないよー」

 その時のことを思い出したのか、ティフォンは腹立たし気に足をばたつかせる。

「まったく、ヴィクトルに自分自身を好かれていないかもしれないってだけでボクのことを否定するなんて、『ボクらの友情はそんなものだったんだね』って、ちょっと落ち込んじゃったよー。ぶーぶー」

「ちょ!!」

「つまり、コレットは俺に好かれてないかもしれないと思って、それがショックで力が使えなくなった、ということかな?」

「そんなわけないでしょう!」

 冷や汗を滲ませながら、コレットがそう叫ぶ。

 しかし、ヴィクトルの勢いもティフォンの勢いもまったく緩まらない。

「『嫌よ嫌よも好きのうち』っていうけど、あれってコレットのことを指す言葉だよねぇ。少しくらい素直になればもうちょっと可愛げがあると思うのにー」

「ちょっと、ティフォン! いい加減黙って……!」

「コレットは可愛いと思うよ。特に全力で嫌がっている姿とか、見ていてゾクゾクするね」

「アンタはちょっと怖いわよ!!」

 コレットは両手で二人の口をふさぐ。ティフォンは小さいので小脇に抱えた状態で口を押さえていた。

「二人とも、本当に黙って――って、ひゃぁあ!!」

 ヴィクトルの口を押えていた手を彼女は変な声を出しながら引っ込める。

「ヴィクトル! い、いま、舐め――!!」

「いや、どんな反応するのかなぁって気になったから」

 ヴィクトルはにこにこと悪びれもせずそう言う。

 コレットは赤ら顔で金魚のように口をパクパクさせていた。

「コレット、まっかぁー!」

「うるさい!」

「そうやってすぐ赤くなるコレットも可愛いと思うよ」

「アンタが原因でしょうが!!」

 何もかもヴィクトルのペースである。

 自分の行動一つ一つが彼に操られているような気さえしてきて、コレットは本能的に彼から距離を取った。

「私なんかに構ってないで、ヴィクトルはお兄さんのことなんとかしなさいよ! このままにしておくつもりはないんでしょう?」

「まぁ、その辺のことは色々考えてるよ」

 少しだけ真剣みが増した声色に、コレットも警戒を解いた。

「……ってことで、協力してくれるよね。コレット」

「……いいわよ。と言うか、どうせ巻き込まれるんでしょう?」

 呆れたようにそう言えば、彼は頷く代わりに唇の端を引き上げる。

 瞬間、肩を引き寄せられたかと思うと、唇に何か押し当てられた。

 温かくて、柔らかくて、しっとりと湿っている。

 それがヴィクトルの唇だと気付く前に彼の顔は遠ざかっていく。

「あと、ちゃんと迎えに行くから心の準備の方もよろしくね」

 砂糖をまぶしたような声で囁かれて、コレットは全身を赤く染め上げた。コレットが呆けている間に、ヴィクトルはティフォンともう孤児院の方へ向かっていて、彼女は一人ぽつんとその場に取り残される。

 じわじわと這い上がる熱に、叫び出しそうになる。

 赤くなった顔を覆いながらコレットはその場にしゃがみ込んだ。

「絶対に、絶対に頷いてなんかやらないんだから……」

 嬉しいと思ってしまったその心でさえもヴィクトルに操られているような心地がして、コレットは唸るようにそう呟いた。

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