38

 コレット達は何十人という兵士と数匹の虎達から逃げていた。彼らの狙いはステラだけなので、三人の兵士とは別行動を取っている。この人数ならば、むやみに逃げ惑うことなく、どこかに隠れて作戦を練ることが出来るというヴィクトルの判断だった。

 その判断が功を奏したのか、三人は森の中にある洞窟の中で息を潜めて身を寄せ合っていた。入り口は折った木の枝などで隠し、なかなか見つからないように工夫してある。

 別行動をとっている三人の兵士の誰か一人でも城に帰り、援軍を呼んでさえくれれば、まだ勝機が見いだせる。黒の軍団は倒せなくても、それを操っているポーラを戦闘不能にしてしまえば片が付くからだ。数には数で勝負である。

 冷たい岩肌に背を預けて、コレットは息をつく。

 ポーラが裏切っていたという事実がよほどショックだったのだろう、ステラは逃げている最中に気絶してしまっていた。そんな彼女の頭をコレットは優しく撫でる。

「身体は大丈夫?」

 そう優しく声をかけられて、コレットは顔を上げた。目の前に座るヴィクトルはどこか困ったような表情を浮かべている。

 コレットは一つ頷いた。

「たぶんね。身体の方はなんともないと思うわよ。ただ、ポーラのことがショックでしょうね……」

「ステラ様のこともだけど、俺はコレットのことも聞いてるんだよ。まだ病み上がりだろう?」

「私も平気。もういつも通りに動けるもの! きっと薬がよく効いたのね」

 前にも同じようなやりとりをした事を思い出しながら、コレットはそう答える。

 その言葉にヴィクトルは心底安心したような表情になった。

 彼は本当に心からコレットの身を案じてくれているように見える。けれど、それはコレットが《神の加護》を持っているからだ。コレットが《神の加護》を使えなくなっているとわかれば、彼はコレットに露ほどの興味も示さなくなるかもしれない。

 戦っている時に気付いたのだが、もうコレットには《神の加護》が殆ど使えなくなってしまっていた。まるで風船が萎むかのように、その力は失われつつある。

 次に戦う時はきっと一般の兵士と同じか、それ以下ぐらいにしか戦えないかもしれない。

(力のこと、ちゃんと言っておかないとね……)

 ヴィクトルが自分に対して何も思わなくなるのは怖い。けれど、それ以上にこの状況をなんとかする作戦を立てるのが先決だ。

 コレットは顔を上げて腹の底に力を込めた。

「あのさ……!」

「コレット、もしかして《神の加護》使えない?」

 彼女の言葉を遮るようにして、ヴィクトルがそう言う。その瞬間、コレットの表情は固まった。

 明らかに図星を突かれた表情のコレットを見て、ヴィクトルは短く息を吐いた後、視線を逸らして眉を寄せた。

「それなら尚のこと、なんで来たんだ……」

「ごめん……」

 飛び出してきた時はこんなに何も出来なくなるとは思っていなかった。普通の兵士よりは力になれると思って飛び出してきたのに、今ではこのざまである。

 力の使えなくなった彼女に落胆したのか、ヴィクトルは視線を合わせないまま黙ってしまっている。

 その表情を見てコレットも視線を落とした。

(しんどいなぁ……)

 ヴィクトルにとって自分がそれまでの存在なのだと言われたような気がして、心臓が苦しくなる。『使えない』と判断されたこともそうだが、《神の加護》以外に価値がないのだと突きつけられたのが、なにより辛かった。

 彼からもらった優しい言葉も口紅も何もかも嘘だったのだと改めて思い知る。

(嬉しかったのに……)

 ポケットを探れば、指先はいつも持ち歩いているガラスケースに当たった。それをぎゅっと握りしめる。

(それでも、出来ることをしないとね!)

 コレットは滲みかけた涙を袖で拭い両手で頬を張った。そして、無理矢理唇の端を引き上げる。

「まぁ、ということだから。囮でも殿でもなんでもやるわよ! ヴィクトルとステラはちゃんと城に返さないとね!」

 わざとらしいほどの明るい声にヴィクトルの表情がどんどん固くなっていく。

「こう見えても女騎士の中では腕は立つ方なのよ! 《神の加護》は使えないけど、足止めぐらいは出来ると思うわ!」

 こういったときの場合、命の優先度を最初に決めるのが定石だ。この場合は、ステラが一番、次いでヴィクトル。この中ではコレットが一番どうにでも使える命である。

 別に、むやみやたらに死にたいわけではないし、殿や足止めを勤めることになっても逃げ切る気満々ではあるが、覚悟もそれなりに決まっている。

「気にすることはないから、なんでも言っちゃって! あ、こんなに働かされてるんだから、特別報酬はもちろんもらうからね!」

 おどけるようにそう言うと、ヴィクトルの眉間の皺がますます深くなった。睨みつけるような視線にコレットは息を飲む。

「あ、まぁ、そうよね。私が《神の加護》使えてたらこんなことになってないのよね。ごめんなさい」

 ははは、と乾いた笑いを浮かべながら頭を掻く。

 ヴィクトルは少しも笑っていない。じっとコレットを見つめながら、黙っているだけだ。

 コレットは笑みを収めるとヴィクトルから視線を逸らした。そして、しゅんと項垂れてしまう。

「言いたいことはそれだけ?」

 冷たい刃物のような言葉にコレットは一つ頷いた。

「もし、誰かが一人残って足止めや囮をしないといけないのなら、その役割は俺がやる。コレットはそのままステラ様と逃げるんだ。いいね?」

 その言葉に顔を跳ね上げる。

「え、それは……」

「これは決定事項だ。異論や反論は認めないよ。ただ一人残るなら俺だ」

「いや、だって、こういう場合は……」

 さすがのコレットもヴィクトルに言い募ろうとする。平民であるコレットと第二王子であるヴィクトルならば、どちらが優先されるべきかはわかりきっている。

「俺は、君が死ぬのは耐えられない」

 その言葉で性懲りもなく胸が温かくなる。

 じんわりと赤くなった頬をヴィクトルの冷たい手がゆっくりと撫でた。

「俺は君が好きだよ。コレット」

 その言葉で胸が詰まる。

 目の前の彼はいつも以上に真剣な顔つきで、コレットを見つめていた。

 頬が熱くなる。心臓が今にも暴れ回りそうだったが、慌てて頭を振った。

 彼の『好き』に意味はないのだ。贈られる言葉を真に受けて、二重も三重も傷つく趣味はない。

 もしかしたら彼はコレットに力が戻った時のためにこうやって優しい言葉をかけてくれているのかもしれない。

 それにここでヴィクトルがいくら『残るのは自分だ』と言っていても、コレットはヴィクトルを置いて逃げることは出来ないだろう。その選択をするぐらいなら、きっと自分が残ってしまう。コレットはそういう人間で、ヴィクトルもそんな彼女の性格をわかって発言しているのかもしれなかった。

 そう思うと、ただただ自分の存在が切なくなってくる。

 コレットはヴィクトルの手をやんわりとどかす。

「そういうのは、いいから……」

「そういうのって……」

「そんなリップサービスされなくても、ヴィクトルが困ってたらまた力貸してあげるわよ! 安心して!」

 なんてことない表情でにこりと微笑んだ。

 コレットのその表情にヴィクトルは訝しげに眉を寄せる。

「コレット、何か勘違いしていない?」

「勘違いなんかしてないわよ! ちゃんと、わかってる!」

「わかってるって、何を?」

 真剣な表情で見つめてくるヴィクトルからコレットは顔を逸らしてしまう。

(あ、ヤバい……)

 目頭が熱くなる。

 彼のためなんかに泣きたくないと思うのに、胸に、口に、鼻に、目頭にせり上がってくるものがどうやっても止められない。

 瞬き一つで、その滴は瞳から転がり落ちた。

 コレットは慌てて拭うも、涙は後から後から溢れてくる。

 そんな涙を隠そうとしたのか、コレットは立てた両膝に顔をうずめてしまう。

「コレット?」

「ごめん。でも、わかってるから! 嘘つかなくてもいいし! ヴィクトルはいつも優しくしてくれるけど、気持ちのない優しさほど辛いっていうか! 苦しいっていうか! もういっそのこと『《神の加護》のないコレットには興味がない』ぐらいズガーンと言ってくれたほうが楽になる……と、いうか……」

「『《神の加護》のないコレットには興味がない』……?」

 その言葉にコレットは顔を上げる。唇を真一文字に結んでいるのは、感情を我慢しているからだ。瞳には涙が溜まっているものの、こぼれ落ちてはいない。

「……最初からそういう話だし、ショックを受けるのが間違いだってわかってるんだけどね」

 苦笑いを浮かべながらコレットはそう言った。

 その時、彼女は彼に腕を引かれた。気がつけばヴィクトルの腕の中にコレットは収まっている。

 心臓が煩いぐらいに鳴り響いて、顔が熱くなってくる。

 引きはがそうにもヴィクトルの力は強く、コレットは少しも抵抗させてもらえない。

「ヴィクトル! 心臓が……!」

 暴れ回る胸元を握りながら混乱したようにそう言えば、彼はコレットの頭に顎を乗せながら話しだす。

「それがコレットの言う『アレルギー』なら、俺も『アレルギー』になるのかな?」

「い、意味がわからないんだけど……」

「俺の心臓も、煩いよ」

 ヴィクトルの胸元に頭を寄せられる。

 涼しそうな彼とは対照的に、心臓はドクドクと激しく脈打っている。

「コレットが何を勘違いしているのかは知らないけれど、俺は君が好きだよ。もちろん、女の子として。《神の加護》なんて関係ない」

「う、嘘よ!」

「嘘じゃないよ」

「だって、聞いたもの! ヴィクトルが興味があるのは私の力だけなんでしょう?」


『別になんとも思っていませんよ。俺が興味があるのは彼女の持つ力だけですから。俺が彼女を構うのは彼女が《神の加護》を扱えるからです。それ以上でもそれ以下でもありません』


 脳裏に焼き付いた言葉がコレットの心を蝕む。彼の言葉は嬉しいはずなのに、素直に耳に入っていかない。

「誰に聞いたの?」

「ヴィクトル。中庭で誰かとそうやって話してたじゃない……。それをたまたま聞いて……」

「あー……」

 何かに思い至ったのか、ヴィクトルがそう声を漏らした。そして、コレットの後頭部を優しく撫でた。

「アレは相手が兄上だったから……」

「お兄さんだったら何がいけないのよ?」

「コレットが俺のお気に入りだってバレたら、コレットがいじめらるだろう? だから、わざと興味がないって……」

 その言葉に彼女は首を傾げる。

 コレット的には彼の言う『いじめられる』もよくわからないし、そもそもヴィクトルとアルベールがそんなに仲が悪いようには見えないのだ。

「アンタ、私が婚約者だって散々騒いでたじゃない」

「ああいうのを含めて、俺がコレットを騙してるんだと、兄上に思わせておく方がいいだろう? ま、結局は全て徒労だったって感じだけどね……」

「なんか、意味がわからないんだけど……」

 コレットを騙す姿をわざと見せていた。ということなのだろうけれど、ヴィクトルの言い方はどうもまどろっこしくてコレットにはよくわからない。

 しかも『徒労だった』というのはどういうことだろうか。まるでコレットがアルベールにいじめられた後のような言い方だ。

「俺が今日君抜きで作戦を始めたのは、君が大切だったからだよ。君が毒で倒れた時、自分でもびっくりするぐらい目の前が真っ暗になったんだ。あんな経験は一回で十分だ……」

 まるで子供のように背中をゆっくりと撫でられる。コレットはどう反応していいのかわからず、彼の胸元にすがりついた。状況が飲み込めなくて、心臓の音などもうどうでもよくなってしまっている。

「……どうやったら、信用してくれる?」

「信用って……」

 顔をのぞき込まれて、呼吸が止まりそうになる。純度の高い深いサファイヤに映っている自分と目が合って、コレットは恥ずかしげに視線を逸らした。

「わかった、わよ。一応、信じてあげる……」

 たどたどしくそう言うと、ヴィクトルは本当に嬉しそうに微笑んだ。その嘘偽りのない顔に胸が温かくなる。

 ヴィクトルはコレットの背中に回していた両手を離し、そのままその手を彼女の頬に這わせた。両手で顔を包まれるような形になったコレットは狼狽える。

 それはまるでキスをするかのような格好である。

(え、ちょっと、まって! これって……っ!!)

 予想通りにヴィクトルの顔は近づいてくる。コレットはぎゅっと目をつぶった。

 その時――

「くちゅん!」

 可愛らしいくしゃみで二人の動きは止まる。見れば、ステラがまるで小さな子猫のように丸くなっていた。

「あ、ごめん。寒かったよね!」

 ヴィクトルを押しのけ、コレットは自分の上着を彼女に掛ける。その後ろでヴィクトルは不服そうだ。

「コレット、続きは?」

「こんな時にするわけがないでしょうが、この馬鹿!!」

 強請るような彼の言葉にコレットは赤ら顔でそう声を上げた。

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