37

 翡翠湖は森の中にある、その名の通りに緑色に輝く湖だ。湖の水は澄んでいて底まで透けて見えるようだし、木々の影が湖面に映って、まるで絵画を見ているような雰囲気を漂わせている。

 水が澄みすぎているのか魚はあまり見当たらないが、森の奥に面している方の岸では、鹿などの野生動物が湖面に波を立たせながら水を飲んでいた。

 ステラとヴィクトルを乗せた馬車は、湖面が見える位置に馬車を停止させていた。辺りには三人の兵士。動かせる兵が少ないので護衛も最小限である。

「今日はコレット様ではないのですね」

「すみません。体調が芳しくないようで……」

 がっかりと肩を落とすステラにヴィクトルは苦笑いでそう答えた。

 ステラも何かが起こっていると感づいているのか、目の前の綺麗な湖に声を上げることもせず、じっと時間が過ぎるのを待っているようだった。

 ヴィクトルは手元の懐中時計を見下ろす。

 そろそろ本来の作戦時間だ。今頃、城に置いてきたラビの指示により札が使われ、体調が芳しくない者が現れる頃合いである。そして、二時間もすれば作戦終了を伝える兵士がこちらにやってきてくれるはずである。

 ヴィクトルの役目はその時まで彼女の安全を守ることだ。

 その時、森の木々が不自然に揺れた。ヴィクトルは神経を研ぎ澄ませると、ステラをそっと馬車に戻した。そして、辺りを確かめる。

 木々の揺らめきは左右から流れるように一点に集まり、そしてヴィクトル達の前に姿を現した。

 出てきたのは数人の男達だった。皆一様に白いフードを深く被っており、表情は見えない。

 男達の持っている剣がカタカタと震える。切っ先をヴィクトルに向けているが、それは今まで剣など持ったことがない者の構えだった。

 兵士達が剣を抜く。相手の人数は六人、兵は三人。

 しかしながら、実力的には圧倒的にヴィクトル達の方が上だった。

「殺すな、捕らえろ」

 その指示に兵士達は一斉に動き出す。

 ヴィクトルは馬車の近くで、その捕縛劇を見守っていた。

 このタイミングで現れたのだ。ステラを殺そうとする者達と彼らは無関係ではないだろう。大蛇の一件で城の外にいる賊達は全て捕まえたと思っていたのだが、どうやら違ったいたらしい。

 剣など初めて持った素人丸出しの者達が、修練を積んだ兵士達に敵うはずもなく、あっという間にその六人の賊達は捕まってしまった。

 腕を縛り上げて転がされているその賊のフードを、ヴィクトルは乱暴にはぎ取る。すると、そこには見知った顔があった。

「君たちは確か……」

 そこにいたのはあのリッチモンド公の後ろにいつもくっついていた文官達だった。地面に転がされた彼らは怯えきった表情で歯を鳴らしている。

「娘が、娘が人質に取られて……」

 一人の彼がそう言った。

 その瞬間、彼の背中が一瞬光ったかと思うと、真っ黒い虎が現れる。そして、そう言った彼の喉を鋭い爪で掻っ切った。切られた喉からは血が噴き出して、辺りの地面を赤く染め上げる。

「外套を裂け!! 背中に札が仕込まれてるぞ!」

 ヴィクトルが叫ぶも、もう時はすでに遅し。気がついた時には六人の文官から六匹の虎が生まれ出ていた。

 そうして、最初から指示されていたかのように、虎たちはそれぞれ文官の喉を潰す。

 六匹の虎は唸り声を上げながらヴィクトル達のことを威嚇していた。逃げようにもこの距離だと馬に乗るより飛びかかられる方が早いだろう。

 じりじりと迫ってくる距離に、ヴィクトル達も距離を取る。

「ヴィクトル!」

 その時、風のように早い一閃が一番後ろで唸り声を上げていた虎を真っ二つに切り裂いた。

 そうして、もう一匹。

 二匹の虎を真っ二つにした彼女はヴィクトルの側に降りてくると、剣を構え直した。

「……コレット!?」

「なんでこんなことになってるのよ! 大体、なんで私が作戦から外されてるの!? その辺、後からちゃんと説明してもらいますからね!」

 いつものようにそう怒鳴れば、ヴィクトルは驚いたような顔をした後に、眉を顰めた。

「……どうして来たんだ」

「どうしてって、二人が心配だからに決まってるでしょう! なんか、来て欲しくなかったみたいな言い方ね」

 その言葉にヴィクトルはなにも答えない。

「とりあえず、ここは私が防ぐから、その間に貴方達は馬に乗って! ヴィクトルも馬車に!」

 そう言った瞬間、飛びかかってきた虎をコレットは横に薙いだ。その衝撃で地面に転がった虎は身体を横たえたまま動かなくなる。

 ヴィクトルはその光景に目を見張った。

 いつもならその一閃で虎は真っ二つになっているはずである。実際に、先ほど彼女が現れた時もそうだった。

 なのに、先ほどの攻撃で虎は動かなくなったものの形を保って未だそこにいる。

 それがヴィクトルの目にはとても不自然に映った。

「今回はちょっと倒しきる自信がないわよ……」

 コレットは冷や汗を滲ませながら「ちょっとヤバいかも……」と声を漏らす。

 彼女の手元をよく見てみれば、その剣は白銀に輝いてはいなかった。そこら辺の兵士に与えられている普通の剣である。

「もしかして《神の加護》が……?」

 ヴィクトルがそう呟いた時、馬車の窓からステラが顔を出した。

「コレット様!」

「ステラ様、ちゃんと隠れててくださいね!」

「違います! コレット様、あそこを見てください!!」

 コレットが来た喜びで彼女は顔を覗かせたのかと思ったが、そうではないようだった。

 ステラが指す方向を見てみれば、小さな人影が木にもたれ掛かっている。

 その人物は、ポーラだった。

「もしかして、私のことを追って……?」

 いなくなったステラのことを相当心配していた彼女のことだ。もしかしたら飛び出していったコレットのことを追って、この場所の辿り着いたのかもしれない。

 コレットはそう考えた。

 走ってきたためか、彼女は肩で息をしているようだった。

「ポーラッ!」

 ポーラの辛そうな様子にステラは叫ぶ。コレットはそんな彼女の声を受けて一つ頷いた。

「ヴィクトル、馬車を走らせて! 私は彼女を助けてから後追いかけるから!!」

「ダメだ! 彼女はっ!!」

 ヴィクトルが止めるのとコレットが跳び上がったのは同時だった。虎達を一跳ねで超え、ポーラの元に辿り着くまで僅か数秒。

 コレットはポーラの元に辿り着くと彼女の肩を軽く揺すった。

「大丈夫?」

 その瞬間、ポーラの手元からパラパラと紙が落ちる。

 そうして、暗い目をコレットに向けた。

「コレットさん、『すみません』とステラ様に謝っていただけますか?」

 その瞬間、彼女が落とした紙からまばゆい光が立ちこめる。コレットは反射的に距離を取った。

 そうして光が収まった時、ポーラの周りにいたのは兵士の格好をした者達だった。目は赤く、肌は黒い。それも一人や二人ではない。何十人という兵士が彼女を囲っていた。

 力を使いすぎたのか、その場にポーラは膝を付く。そして、血を吐くような声を出して、ポーラは彼らに命を告げた。

「帝国の第七皇女、ステラ・ローレ・グラヴィエを殺しなさい……」

 その瞬間、兵士の赤い瞳が光った。

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