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自国の第二王子からプロポーズを受けるという、前代未聞の事件があったその日の夕方。コレットは働いている食堂から貰ったパンを胸に抱え、足取り軽く孤児院に向かって歩いていた。
先ほどまで見事なお盆捌きを繰り広げ、座ることなく何時間も給仕をしていたというのに、その顔には疲れなんて感じさせないほどの笑顔がある。
「ふふふ、皆喜ぶだろうなぁ。久々に柔らかいパンが食べられるんだもの! 二斤もくれるなんて、ほんとヤンさん太っ腹!」
ヤンさんというのは、コレットが働いている食堂の店主である。気の良い彼は、給料とは別にこうやってコレットに度々お土産をくれるのだ。
孤児院で食べるパンは基本的に保存の利く固いものばかりだ。そのままでは歯が通らないので、いつもはそれをスープに浸して食べている。そして、実はその固いパンでさえも孤児院ではごちそうの部類だったりするのだ。
コレットが小さい頃、孤児院は今よりもっと貧しかった。その頃はほとんど毎日、見るのも嫌になるぐらい芋ばかりを食べていた。それと、乾燥した小魚。パンや干し肉なんていうのは月に一度、ケーキなんて贅沢なものは騎士団に入るまで、見たことも、食べたこともなかった。
孤児院では今も芋を食べる習慣は続いているが、一週間に何度かはパンも食べられたりするし、干し肉だって一週間に一度程度は食べられたりする。
お菓子の部類だって、買うことは出来ないが、お給料が出た日はコレットが作って子供達に食べさせたりしている。
コレットからしてみれば、凄まじい進歩だ。
しかし、その進歩した中でもなかなか食べられないのが、腕の中にある柔らかいパンだった。
バターが沢山入っていて甘く、口当たりの良いそのパンは、本当に滅多に手に入るものではない。普通の家庭だってそんなに沢山食べられるものではないだろう。
買えないのならば、と、コレットは何度か作ろうと試みたが、上手く膨らまなかったりして未だ成功には至っていない。
なので、今回のお土産は本当に嬉しいものだった。
コレットが今にも走り出しそうな気分で歩いていると、足下にいるティフォンがそんな彼女の陽気を降下させるようなことを口にした。
「そんなに柔らかいパンが好きなら、あの王子様と結婚すれば良いのに! そしたらきっと、毎日柔らかいパンが食べられるよ!」
「あのねぇ。私は、孤児院の皆が食べて美味しそうにしてくれるのが嬉しいの! そりゃ私だって食べたくないってわけじゃないし、柔らかいパンは大好きだけどね。……というか、あの話は断ったんだから、蒸し返さないでよ」
心なしか緩んだ歩調に、ティフォンはひょこひょこと付いて歩きながら、弾んだ声を出す。
「あれ? 断ったんだっけ? 逃げてきただけじゃなかった?」
「どっちにしたって一緒じゃない。そもそも、本物かどうかもかなり怪しいわよ。もしかしたら結婚詐欺かもしれないし!」
「詐欺って。コレットのなにを取ろうって言うのさ」
「……まぁ、それは確かに」
取られるものがほとんど浮かばないコレットである。
いざというときの貯金もしていることはしているが、それも詐欺をしてまで取ろうというほどの金額はない。
「もったいなぁい!」
「もったいなくないわよ! それに、ああいうお金持ちの貴族様って感じの人、あんまり好きじゃないの。知ってるでしょう?」
「今朝は王子様と結婚したいって言ってたのにぃ!」
「あれは、物語の王子様!! 本物なんて、絶対無理!!」
柳眉を逆立てながらコレットはそう言う。
コレットが貴族を苦手とするのにはわけがある。
昔、貴族の子供達に面白半分で孤児院が焼かれそうになったのだ。彼ら的には単なる火遊びのつもりだったのかもしれないが、コレット達には一大事だった。
幸いにも駆けつけてくれた人たちが消火に尽力してくれてぼや程度にすんだが、その貴族の親からは『孤児院なのだから』という理解できない理由で、なんの謝罪も賠償もなかった。
それ以来、コレットは貴族や上流階級と呼ばれる人たちにあまり良い印象を持っていない。
彼らにとっては、自分たちなどどうでも良い存在なのだと、その想いに一番腹が立っていた。
それから貴族嫌いになり、金持ち嫌いになり、最後には金持ちアレルギーになっていた。
騎士団に入ってからは貴族でもいい人がいるのだと知り、だんだん偏見はなくなっていったが、それでも苦手なものは苦手である。
ちなみに、偏見はなくなったが、金持ちアレルギーだけはどうしても治らない。
「あのラビって人も『孤児のくせに』とか言っちゃってさ! こちとら好きで孤児なわけじゃないってーの! そもそも、ちゃんとした内政やってたら生まれなかった孤児もいるんだし! あのヴィクトルって人も表面上は謝ってたけど、もしかしたら同じように思っているかもしれないでしょう?」
「そーかなぁ」
「もし、そうじゃなくても、私は恋愛結婚がしたいの! 愛人なんてまっぴらごめん! そもそも、触れない人と結婚なんて出来ないでしょ?」
この話は終わりとばかりにそう言い切って、コレットは軽く息をついた。
気がつけば、孤児院にまで戻ってきていて、日もだいぶ落ちてしまっている。
コレットは胸に抱えたパンを抱きしめながら、孤児院の扉を開けた。
「ただいまー!」
「おかえりなさーい! コレットおねぇちゃん!」
「コレット姉! 今日のお土産はなぁに?」
「その前に『お帰りなさい』でしょう?」
「お帰りなさい!」
「はい、ただいま!」
弾けるような声に迎えられ、コレットは相好を崩す。やはり働いた後の、この瞬間はたまらない。いつだって無邪気に、元気よく、彼らはコレットを迎えてくれるのだ。
「ティフォンもお帰り!」
「おかえりなさい!」
「うん! ただいま!」
ティフォンもそんな子供達にニコニコとした笑顔を見せている。
しかし――……
あれ、とコレットは首を捻る。今日はなんだかお迎えの人数が足りない。いつもなら五人は足下にまとわりついてくるのに今日は二人だけだ。
「へディ、今日はソフィーはどうしたの? 体調でも崩した?」
いつも迎えに来てくれる妹分のことを聞けば、へディは歯を見せてにかりと笑った。
「ソフィーはヴィクの膝の上! アイツの頭の中、今お花畑だぜ!」
「ヴィク?」
コレットがそう聞き返すと、急に聞き慣れない声が耳朶を打った。
「あぁ、コレットお帰り。遅いんだね。邪魔をしているよ」
その声にコレットは恐る恐る顔を上げる。
そこには、ソフィーを抱き上げながら、こちらに向かってにこりと微笑む美形がいた。
今朝見たばかりの美形だ。
――……ヴィクトルである。
「なんで、アンタがここにいるのよ……」
あまりにも驚きすぎて、敬語を忘れてしまう。ついでに王子を『アンタ』呼ばわりだ。
そんなコレットにもヴィクトルはにっこり笑って、綺麗な低音を響かせた。
「いや、まだプロポーズの返事を聞いていないと思ってね。待っていたんだよ」
その予想外の言葉に、コレットは口を開けたまま、動けなくなってしまった。
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