城鐘愛という男

 俺の初恋は顔のない白いドレスをきた人だった。

そのマネキンには、まだ両親が離婚する前、機嫌のいい父に連れていかれたホテルのバイキングに向かう途中で、出会った。

ショーケースの奥に飾られた白いドレスは、白だけで作られているのに今まで見たどんなものよりも、例えばクレヨンでたくさん彩ったものたちよりも、美しく彩られていた気がした。

喜びとか、いとしさとか、そういう美しくて綺麗な感情だけで作られた存在というものがこの世にあることを俺は初めて知って、それから、名前もない、人でもない。けれど、確かに満たしてくれた存在に恋をした。

こんな風に目で確かに見える幸福を身につけることのできる女性を本当に羨ましいと思った。

そしてその感情はストンと心の中に落ちてきた。となりに並びたいとか、このドレスをきたいとか。そういうのじゃなくて、もっと別の思いだった。

こんな風に幸福を形にできるようになりたいと思ったのは、見惚れてからどのくらい時がたったときだろう。

その思いは自然に溢れてきて、その思いを抱く前の自分を思い出すことができなかった。

そのくらいに俺は、その幸福に見惚れていた。


小学生に上がる前に喧嘩の絶えなかった夫婦は静かになり、そして自分たちを繋いでいた紙切れとは違う紙切れに、名前を書いた。母は、しばらくネジが切れた人形のように動かなかったり、たまにぎこちなく動いたりを繰り返していたが、いつのまにか笑顔が増えるようになっていった。

母がほころぶように笑いだしたのは、一体何故だろうと幼い心の中で疑問に思いはじめたときと、母が今の父にあたる人を俺に自慢するように紹介してきたのは同じ頃だっただろう。

そして、その母自慢の男性の後ろに隠れている小さな少女は、俺のことを不思議そうに見つめていた。その周りいる子供達とは違う、傷ひとつない肌に俺は感心したのを覚えている。




いつか父になるその人とも、笑顔の増えた優しい母も大好きだった俺は、家族が増えていく不思議な感じにも割とうまく、適応することができていた。しかし、百合子はいつも怯えたように、俺たち三人のまだいびつな関係を遠くから見つめていた。無理もない、百合子にとって母は大好きな父が連れてきた敵のような人だった。彼女にとっては、もしかしたら母は、魔女にでも見えていたのかもしれない。百合子は童話が好きで、母のことを自分の平和を壊しに来た女だと認識していたのだろう。


「お前、そんな風にびくびくしてるとかわいくなくて棄てられちゃうぞ」


 母と父が二人で寄り添いあうように昼食をつくっている時に、邪魔者だった俺たち子供は与えられたおもちゃで遊ぶように促されて、たのしくあそんでいたようにみえただろう。でも、実際は俺だけが楽しく遊んでいて、百合子は亡き母親の買ってくれたらしいぬいぐるみを抱きしめているだけだった。子供というのは、いつだってぬいぐるみを持ち歩く。薄汚れたぬいぐるみは、百合子のさびしさを表しているような気がした。


「すてられちゃうの?」


「だって、かわいくないだろ。いつまでも、ぐずぐずしてたら嫌われる。何だっけ、その。本の」


「ヘンゼルとグレーテルのこと?でも、棄てられちゃうときは二人一緒だよ。百合子とらぶくん」


「ふーん。じゃあ運命共同体ってやつなの?だったら、ますますいい子にしてよ」


「うん。うん、そうだよね。パパも楽しいから百合子も楽しくないと、楽しくないと」



 言い聞かせるようにそう呟く百合子の姿を見て、幼心に彼女の心には今、楽しいなんて感情は一つもないのだと思った。彼女の中には、不安と、おいていかれるかなしさしかない。

 ヘンゼルとグレーテルは、どんな話だっただろう。二人が兄妹で、あることは知っていたけど、どちらが兄かもわからない俺にはどう声をかけていいのかもわからない。でも、俺の頭の中には、幼い子供が手を繋いで歩いていく姿が浮かんでいた。そして、俺と百合子もそうしないといけない気がした。二人で、手を繋いで、この先の道を歩いて行かないといけない気がした。


「いいものみせてやるよ」


 いつもそばに置いてあったスケッチブック。とも、いかない自由帳。それを、百合子に手渡す。百合子は恐れたようにそれをうけとって、静かに開く。そして、目を輝かせる。大きい瞳を、鮮やかに輝かせる。


「これ!これってなに?何のアニメ?かわいい!すごくかわいい!!」


「アニメじゃねえよ。これは、俺の考えたドレス!かわいいだろ」



 百合子が首が取れそうなほどに俺と描かれたドレスを交互に見つめる。見つめて、嬉しそうに笑う。はじめて、はじめて好きなものを見つけた時のように。彼女は、初めて笑う。


「すごい!すごい!ねえ、もっと書いて!いま!今書いて!」


 キラキラとした瞳には、あの日俺に宿っていたのと同じ、幸せが宿っていた。その目を見た時に、俺はあのドレスが与えた幸福を、この少女に与えることができたのだとそう思った。それが本当にうれしかった。



「しょうがねえな。なにがいい?」


「ドレスがいい!百合子に似合うドレスがいい!」


 嬉しそうに掌を合わせて、祈るように笑う。楽しそうに微笑む百合子の笑顔。それを俺はきっと、一生忘れることができない。そういう風に生きていくしかない。



「じゃあ、リリィ姫ってことで。白いドレスでいいだろ」


「リリィ?」


「知らないの?百合のことだよ」


「百合…百合。リリィ!私が?」


 その時に単純だけど、俺はこの少女を幸せにできる気がした。できた気がしたんだ。



「らぶ、どこ行ってたの」


 閉じられた部屋。入ってくるのは、両親と血のつながらない家族の百合子ぐらいだった。百合子はためらいなく、俺の方まで近づいてくる。幼い頃のあのかわいげなど、まったく感じさせないその態度は、いい意味でも悪い意味でも成長していた。


「どこにもいってない。普通に学校行ってた」


「今日、星が丘高校の最後のオープンキャンパスだったのに、何でいかなかったのかをきいたの」


「受けるには受けるんだからいいだろ。青島高校の滑り止めで。」


「青島高校なんて言ったら、ドレスつくれなくなるじゃない!」


 この世の終わりみたいな声をだして、百合子が俺の背中に抱きつくような形で俺の描いている物を覗き込む。背中に預けられた重みと温かさは、あの日の少女の温かい体温を思い出す。


「つくらねえからいいんだよ」


「うそつき。いまでもこそこそ小物作ったりしてるくせに。それに」


 備え付けの棚の一番端にしまわれていたスケッチブック。真新しいノートではなく、その一番古い物を選ぶところに百合子は全て自分のことを知り尽くしていることを表している気がした。



「いつまでもとってある癖に」



 百合子はそのスケッチブックをめくる。めくって、そして、大きく目を見開く。それも当然だ。たぶん、絵のほとんどは水に濡れて見えなくなっている。


「なにこれ」


「ごみだから捨てたんだよ。母さんが拾ってきやがったけど」


「流石お母さんね。素直になれないバカ息子の行動なんて、お見通しか。いいから、学校受けて私と通うのよ。みんな作ることが好きな学校なら、うかないでしょ」



 そんなのは、子供の理屈だった。それでも、そんな理屈でもすがって百合子は俺にドレスをつくることを諦めさせたくはないようだった。俺にとって、そんな夢はもうとうの昔に消え失せていたというのに。彼女だけが、俺は幸福をつくることを諦めてはいなかった。



 俺がそういう夢を捨てたのは、よくあることだった。恥ずかしいとその身の丈に合わない目標に対して、思ったからだ。そして、その目標とか夢を抱射ることが恥ずかしいと思い始めたからだ。

 きっかけは、小学4年生の頃に、偶然机に置かれた俺の描いたドレスの絵を横の席の子が開いて、観たことだと思う。

 その子が告げた「これは愛くんがかいたの」という一言に頷くことも、否定することも何もでいなかったとき、何よりも真っ先に恥ずかしさと自分の保身を考えた自分の浅はかな考えに、俺は失望して、もうその夢を追うことはできないのだろうと思った。そして、その瞬間を百合子も見ていたはずだった。

 その日を境に変わってしまった、塗り替わってしまった俺という人間を、百合子がどう思ったのかは今の俺には分からない。ただ、彼女は最後まで俺が頷くのを待っていた気がした。


「らぶ?」


「ああ、なんだよ」


「作ってね、絶対。私をお姫様にしてくれるんでしょ。」


「女の子をお姫様にするのは、王子様の役目だろ。お前もとっとと彼氏でも作れよ」


 言い捨てて、去ろうとする俺の手にそっと百合子がふれて、決してつかむことはなく、話す。その一連の動作は、俺をここに縛り付けておきたいような感じがした。



「違うわよ。女の子をお姫様にするのは、魔法使いの役目よ。魔法をかけてね、愛」



『魔法をかけてあげる』それはいつも泣いている百合子に手を差し伸べるときに、俺が告げていた馬鹿みたいな台詞だった。




 高校に受かって登校する。当たり前のことは俺にはできなかった。普通のレールからどこか外れてしまった俺は、コンビニと自宅の往復の毎日と、小遣い稼ぎのハンドメイド。

学校から時々送られてくるプリントを消費しながら生きていた。

コンビニには、時々俺の在籍する高校の生徒もきていて、派手な服装とみためは世界で一番、自分たちが輝いていると証明したいみたいだった。そんなやつらから、見た俺はきっと、きっと。


 百合子は最初こそ、俺が登校することを楽しみにしていた。今日がだめでも、明日こそ。とうに見切りをつけている両親とは違い、百合子だけはいつまでもうるさく俺に声をかけていた。でも、ある時から諦めたのだろう。捨てることを決意したのだろう。俺に声をかけることはなくなった。ただ、声を掛けなくなったその日の晩に俺はあのスケッチブックが、なくなっていることに気づいた。それは、百合子が今の俺ではなく、昔の俺と生きることを選んだことを意味している気がした。

 百合子にとって、おれはもう魔法使いではない。ただの人間だった。



 その日は雨がふっていて、バイトから帰宅したときには、雨と冬の匂いが混ざった払いのけるのが億劫な空気があたりを包んでいた。俺はいつも通り、鍵をあけて慣れた家に入っていく。そろえられたローファは、百合子が帰ってきていることを示していた。どうせ、お互いの部屋に行って最近は顔も合わせていない関係だ。気にすることもないが、その時の俺はどうしても何かが引っ掛かるような気がしていた。

 リビングに向かう。なぜか、電気もついていないリビングは空気が冷たく、雨の音が次第に強くなっていく。雷のような光に照らされて、部屋の中が一瞬、明るくなる。

 そこには、百合子が立っていた。俺の方をまっすぐに見つめて、いた。そこに存在していた。傷一つない肌は、何もまとっていなかった。その肌は、誰にも汚されていないような、透明感はただただ、俺を見つめていた。


「ゆ、りこ?」


「リリィ」


 そういったと同時に百合子の身体が俺の身体の上に重なって、視界が変わる。背中の床は冷たくて、痛い。俺に覆いかぶさる百合子の顔は見えない。黒い髪の毛が、糸のように降りてきて、俺の肌に落ちる。それは一瞬の出来事だったのに、忘れられなかった。


「これは呪い。わたしはあなたがすき。何があっても、この呪いは解けない。」


 そう耳元で呟いた百合子がゆっくりと動いて、やがて唇と唇同士が重なり合う。唇からは、冷たさしか伝わってこなくて、外から響く雨の音は泣き声のようだった。幼い少女の泣き声のようだった。

 百合子が俺に呪いをかけた。その次の日、百合子は亡くなった。俺に呪いと答えることのできない告白だけを残して、彼女はまるで準備していたかのように俺の目の前からいなくなった。




「あんな風に俺に言った次の日に死ぬなんて出来過ぎている。だから、俺は百合子は自殺だと思っている」


「呪い。リリちゃんらしいね。このドレスも呪いなのかな」


 そういって、小指は触れる。大切そうに白いドレスの生地をなでる。俺の視線に気づいた小指が、ゆっくりとほほ笑む。


「このドレス、リリちゃんが一生懸命に作ってた。ここの部屋はね、油絵を描くところであんまり、使う人がいなくって。そしたら、リリちゃんが使いたいって。こんなくらい部屋でよくチクチク縫ってた」


 裁縫なんてしたこともないくせにこんなドレスをつくることができなのか。近づいて、縫い目をみれば、まだ仮縫いの段階で荒い縫い目で弱々しく繋ぎ合わせられているだけだった。こんな風に乱雑に俺と、この学校を繋ぎ合わせたのは百合子だ。玉留が一つでも、ほどければバラバラになってしまう。それが、俺と今目の前にいる小指との関係でもある気がした。


「こんなことしてごめん。全部話してくれてありがとう。リリちゃんに頼まれたの。もし、愛君が登校してきたら、この方法でここによぼうって。驚かせようって言ってた」


 小指はそう遠い目で、話す。それは、少女同士のただの口約束。それはきっと、かなうことはなかった。百合子が死ななかったら。百合子が死んだ今、ようやく叶ったいたずらだった。



「私が知ってるのは、リリちゃんは愛君がここに来ることを楽しみにしてたってことだけ。後は、これを開けられるのはきっと愛君だけ」


 そういって、小指から手渡されたのは手帳だった。ダイヤル型の鍵がついていて、四ケタの数字を選ぶようだった。


「私には、開けられなかった。もし、もしね、愛君も開けられなかったら、もうリリちゃんのことを調べたりするのはやめよう?普通に学校生活をおくろうね」


「小指…」


「私、わかんない。馬鹿だから、リリちゃんが自殺なのかとか、殺されたのかとか。そんなの…わかんない。でも。もし、自殺なら、死のうと思ってた気持ちがあったなら。それを相談してほしかったってそれだけ思うんだ」



 ダイヤルをゆっくりと回す。もし、開かなかったら。ここでおしまいにしよう。いつも通りのコンビニと自宅の往復の日々に戻ろう。彼女たちにようやく戻ってきた平穏を壊すのはやめよう。そして、ドレスなんて作らずに生きていこう。そう決めた。そう決めたけど、俺にはこの手帳を開けることができてしまう気がした。

 うぬぼれでもなく、必然に。それが彼女の筋書きなのだろう。

 カチカチ、とダイヤルを合わせる。そして、鍵はその役目を失う。ほどかれていくのは、百合子の隠し事だった。


「小指、俺は百合子の呪ったもう一人を探すよ。あいつは死んだ。死に方に関係なく、それは事実だ。だけど、思い残したことくらい拾ってやりたいんだ。ガラスの靴、拾われなかったら悲しいから」


 小指の拾ったガラスの靴は今、俺の手の中でキラキラと輝いていた。

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