図書室の目撃者
act.風香
私の人間は底が浅くて、覗き飲むこともなく、見た目から全てを読み取ることが出来るような単純な人間です。それが悲しいというわけではなく、むしろ清々しくもあるのです。
私という人間が特に深まることもなく、また高校生になって迎える春がきました。
高校生というきっと価値のある時代に、何の価値もつけることのできないような外見と性格の私は、静かに息を殺すようにして日常を消費するしかないのです。
「あ、ごめんね」
机と机の間は狭くて、どう体を縮ませても私の体では幅を取ってしまって、横を軽やかに通り過ぎたかったであろう姫川さんと肩が触れます。
姫川さんの華奢な肩が私の無駄に頑丈な体とぶつかって、怪我をしていないのか声をかけたかったけど、うまく言葉にできずにお辞儀をするとしか出来ませんでした。
姫川さんは特に気分を害されたというわけでもなさそうに、城鐘くんの席に駆け寄っていきます。
城鐘くんは姫川さんとぶつかった私を少しみて、それから姫川さんに視線を戻します。
汚いものを見た後の浄化というような視線の動きに、少しホッとしながら私はいつも通り教室の真ん中の席につきます。
「鳥居さん〜」
緩やかな表情と軽やかな足取りで私の席まで近づいてきて、笑顔で私の名前を呼んでくれるのは、昨日から登校してきた神崎さんです。
「これお土産〜ヨーロピアンな風をどうぞ〜」
渡されたのはお洒落なチョコレートでした。箱から出されたチョコレートは一粒だけでしたが、きっと美味しいのでしょう。美しいコーティングのチョコレートを私の掌の真ん中において、神崎さんは忙しそうに教室を走り回っています。
「あ、ありがとうございます」
その私の声が神崎さんに届いたかはわかりません。私の声はいつだって、誰に届くのかわかりません。手の中にあるチョコレートは美しく、一口で食べようと決めました。美しきものの中身なんて、知りたくはないからです。口の中に入れて、溶けたチョコレートは少し苦い味でした。
「それ何味だった?」
城鐘くんの席は私の席と離れていて、その距離で話すことはあり得ないと思っていました。しかし、城鐘くんはこの教室では珍しい低い声で私に話しかけてきました。
「えっ…」
「俺がもらったのいちご味だったから」
「ええっと…苦い味です」
「そっかあ…苦かったか」
城鐘くんはそれだけいうと、また前を向きます。私は喉の奥に張り付いたチョコレートの苦さはどうしていいかわからないまま、静かに息を整えるのでした。
四月の放課後の図書室は静かです。まだ、学校生活に余裕のない一年生が足を踏み入れることもなければ、二年生はとうに足は遠のいるからです。
図書委員の私はいつも通り、誰も来訪者のいないカウンターの前に座って、読みかけの本の文字を追い始めます。
目の前の圧倒的な情報を噛み砕いていかなければならないのに、先ほどの出来事が頭から離れません。なんとなく、あんな風に話しかけられることはないのだろうと思っていたからです。
城鐘くんは唐突に登校してきたクラスメイトで、まだ私の名前も知らないと思います。
しっていたとしても、それは文字として、記号として、認識しているだけなのだと思います。
「あのさ」
「え」
文字の列から視線を移すと、そこには城鐘くんがたっていました。手持ち無沙汰にたっている城鐘くんの肩には、薄っぺらいスクールバッグがかかっていて、私のことを見下していました。
「図書当番って今日だよね」
城鐘くんはくしゃくしゃになったプリントをポッケからだして、不思議そうに広げます。それは私も担任の先生からもらった図書当番の表でした。私たちはちょうど今週から、五月の初めの週まででした。
委員会決めというのは、とても能力を使います。三人までの定数の委員会で、仲良し二人のおまけのように混ぜてもらうことができますが、二人までとかそういう定数で、じゃんけんなんかになった時には、とても申し訳なくなってしまいます。
でも、図書委員だけは定数が2でしたがどうしてもなりたくて、まだ埋まっていないうちに、こっそりと名前を書いてしまいました。そして、その下に名前を書いたのは城鐘くんだったということでしょうか。
「図書委員なんだ。よろしく」
「は、はい。鳥居と申します」
「城鐘です。遅れてごめん」
城鐘くんは申し訳なそうに謝って、それからそこ肩にかけてあったカバンの置き場を探すようにあたりを見渡していました。
「鞄は外の廊下です。借りられていない本とか鞄にいれられちゃうと、困りますから」
「なるほど。ちゃんとしてる」
城鐘くんは廊下に鞄を投げるように置こうとして、それから、迷ったようにそっと鞄を置きました。大切なものをその中にしまったことを急に思い出したかのようなそぶりでした。
簡単に貸し出し用のパソコンの操作の方法を城鐘くんに伝えると彼はそこらへんの本をとって、借りたり返したりの練習をし始めました。
見た目に反して、真面目な姿は少し以外で、思わず見とれてしまいました。
城鐘くんはそんな私のことは気にせず、静かにパソコンの画面を見つめています。そして、ゆっくりと私の方をむいて、またその瞳に私を真っ直ぐに映し出しています。
「あそこの本って借りていいの?」
「え?」
振り返ると私の後ろはちょうど新刊の本のコーナーで、城鐘くんが見ているのは被服の本でしょう。興味深そうに近づいていきます。
「はい。大丈夫ですよ」
自分の勘違いが恥ずかしくて、すこし早口気味になってしまいましたが、城鐘くんは気にすることはなく、私なんかにお礼の言葉を告げて、本を選ぶのに専念し始めます。
私はまだ早い鼓動を無理やり押さえつけながら、自分の読んでいた本に視線をうつします。
「そういえば、奥の方にも服飾の本がありますよ」
「そうなんだ。みてきてもいい?」
城鐘くんは私が頷くのをしっかりと確認してから、被服の棚の方に歩いていきます。
ここには今私と城鐘くんしかいませんし、来客者がきても私一人で対応することができるでしょう。いつも一人でやってきたので慣れています。
むしろ、他の人がいる方が私の不手際がバレてしまう気がして、緊張しています。城鐘くんの姿は、ちょうど私からは見えなくなります。
その時、廊下の外で鞄を置く音が聞こえます。そして、ゆっくりと扉を開けて篠宮くんが入ってきます。
篠宮くんはカウンターに座る私をみて、少しだけ微笑むと手に持った本を手渡してくれます。
「今年も鳥居さんは図書委員なんだね。よろしく」
「はい、よろしくお願いします」
「俺もそうだよ。今日も一人で当番?」
篠宮くんの言葉は別に同じクラスの誰かをバカにしているような言葉ではありませんでした。
しっかりと区別がついていることを知っている人の声でした。私や篠宮くんのような…私と篠宮くんを同じカテゴリーにするのは少し気が引けてしまいますが、心の中なので許してほしいです。
「あれ、凪だ」
ふらりと奥から現れた城鐘くんは篠宮くんを見ると、静かにお辞儀をします。篠宮くんは少し驚いたようにしてから、城鐘くんの方に駆け寄っていきます。
「図書委員だったんだ」
「うん、凪はよく来るの?」
「俺も図書委員なんだ。よろしく」
城鐘くんは篠宮くんのまわりをキョロキョロと見渡しはじめます。
篠宮くんは驚いているようですが、城鐘くんの行動を静かに見守っています。
「今日は晶いないんだ」
「え、うん。晶は居残り」
「横にキラキラしたのがいないと静かに見れるな」
城鐘くんの言動に少しだけ、笑ってしまいました。それはきっと私も昔から思っていたことでした。
周防くんというスポットライトが当たっていない篠宮くんは、風景にいつもより馴染んでいて、それでもたしかに篠宮くんだと認識することができます。
「そう?」
「うん。ところで、えーと…」
そういえば私は城鐘くんに自己紹介していなかったかもしれません。
城鐘くんは思い出したいのか少し苦い顔をしていますが、きっと認識した沢山の記号の中から私の名前を思い出すのは大変なことでしょう。名前を口にしようとした時でした。
「風香。何冊まで借りていいの?」
鳥居 風香と私に与えられた名前はそう、いう響きです。
こんな爽やかな名前を私がもらってしまったことに少し罪悪感を感じながら、それでも名前というのは誰かに返せるものでもありませんから、甘んじて受け入れていたのです。
「は、い。えーと…三冊までです…けど、図書委員は五冊まで借りることができます」
城鐘くんが借りたいとカウンターに置いた本は四冊で、その言葉で城鐘くんは嬉しそうに笑います。
「以外に悩まなかったんだね」
「だいたい借りて読んだことあったやつだから」
城鐘くんはそれだけいうと、慣れた手つきでパソコンを操作し始めます。私が一年間かけて積み上げてきたものを城鐘くんはもう習得したのでしょう。彼に私は必要ないのだと、実感しました。
5時のチャイムがなります。私は図書委員の当番の時間が終わっても残っていることが多いですが、なんとなく城鐘くんを一人帰すのは申し訳ない気がして、私の支度をまつ城鐘くんの後を追います。
廊下は三人分の体温があった図書室よりも少し冷たい空気でした。少し前に帰って行った篠宮くんの鞄は当然そこにはなく、城鐘くんはゆっくりと自分の鞄をなにかを確かめるように持ち上げます。
「こんなに堂々と置いてたらさ、普通忘れないよな」
「え?」
城鐘くんは薄くほんとうになにかを誤魔化すように笑って、私の二歩くらい前を歩き出します。彼がなにを言いたかったのかはわかりません。
でも確かに彼の行動一つ一つはきっと、なにかを確かめるためにあるのだと思いました。私のように毎日を怠惰に過ごしている人とは、違う。彼はこの高校生という期間を、必死に走り抜けようとする分類の人間なのだと思います。
私のような人間は、そんな人たちの障害物にならないように、道の端っこで転がっていることが正解なのです。
家に帰っていつも通り人間としての最低限のすべての義務をこなしていきます。
親と会話して、ご飯に入って、それからお風呂に入る。
そういう一連の動作をして、明日の予習をしようとして意味のないことだと思って教科書を閉じます。そして、読みかけの本を開きます。並んだ文字の列を見て、内容を理解しようと頭の中で並び替えてみますが、とても難しくてなかなかページをめくる指が進みません。
本の裏に糊で貼り付けてあるのは、昔使われていた図書カードです。だいぶ前に廃止されましたが、古い本にはまだ残っていて、たまに勘違いした人が名前を書くことがあります。
『篠宮 凪』そう、控えな筆圧で書かれた名前を指でなぞります。
名前はただの記号です。私たちという個体を区別せるために付けられた記号だと私は思っています。
ただ、この記号だけは私の中で大きな意味を持っていて、とても大切なものです。
死ぬ前に読みたいものはあるかと言われたら、私は彼の名前を眺めるだけで良いと答えることでしょう。
今までたくさん読んできた本の中でも味わえなかった世界が彼の奥には、広がっているから。そこに私は少しでも、足を踏み入れて、彼を私が理解しているという、うぬぼれに足をとられていたいのです。
もう一つ、ノートを鞄から出して開きます。それは新聞の記事を何枚も切り取って、貼り付けたもので、開くとふんわりと糊の香りが広がります。雑誌の記事の一文、『被害者の女子高生の遺体は教室で発見され、持ち物の鞄は図書室の前に放置されたままだった』この状況を説明するだけの淡々とした文の意味を理解することは簡単でした。ただ、その簡単な式に、突然現れた城鐘という少年を足すだけで、それは随分と難解な式になります。その答えを導き出すのには、まだ私の思考は足りていないのでしょう。
城鐘くんが鞄を置いた廊下に、たしかに彼女の荷物はあの日もずっと残されたままでした。私はあの日図書当番ではなくて、でも、誰よりもはやく図書室にきて、奥の方にある本を読んでいました。そこに、図書委員とそれから彼女が入ってきたのを覚えています。
いつも彼女は、被服の本を適当に何冊か借りていたのを覚えてます。
その軽そうな体に本という重さを携えて、彼女が誰の元に足を運んでいたのかはわかりません。
ただ、彼女はいつも自分の読むわけではない本を、誰かに届けていました。
あの日も彼女はそのつもりなのだときっと私は思っていました。ただ、あの三人の空気がいつもと違ったから。なにも言葉を発することはできず、いつものように気配を消して石ころになることしかできませんでした。
彼は私の置かれたスクールバックに気づいていたのでしょうか。気づいていて、二人の口論を見つめていたのでしょうか。
篠宮くんが私には理解できない本を読んでいることも、城鐘くんがほとんど読んだ被服の本を悲しそうに見つめることも。
きっと、私が知ってはいけなかったことなのだと思います。
それでも、私という底の浅い人間は、自分の底を見下ろすのにも疲れてしまって、深いものが広がる人のことを見ていたいと思うのです。
私が見たのはきっと、彼女の最期の姿なのかもしれません。それを知っているのは、同じく最期の姿を見た二人だけです。
城鐘くんという少年はどこまでなにを知っていて、なにを知りたくてここにいるのでしょう。
そんなことを考えながら、ゆっくりと同級生が死んだことを騒ぎ立てるニュースの記事をなぞっていきます。彼女の死が風化されていくのを後は待つだけだったはずでした。
それをきっと城鐘くんは許さないのでしょう。城鐘くんと灰村さん。決して、繋がるはずのない記号が頭の中で繋がって混ざり合っていきます。
それが何を意味するのかをきっと、クラスの誰もが知っているのでしょう。
そして彼は、私という底の浅い人間の知る真実を、いつか求めはじめるのでしょう。それまではあの日のことは、私の中の一番深いところに鍵をかけてしまっておこうと思います。
消しゴムを取り出して、篠宮くんの名前を消します。かすだけを残して綺麗に消えてしまった彼の字を見て、私の奥にある底が少し深まったような気がしました。
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