第4話「信長は望遠鏡をのぞかなかった?」

「ねえ、双眼鏡持ってない?」


 初がノックもなく、ドアを勢いよく開けて部屋に入ってくる。

 長らく一人暮らしをいていたので、誰かが部屋に入ってくるのは懐かしい感覚だった。

 食事を終えて、荷ほどきをしていた。物を置くスペースがないので、ベッドの上には出した荷物がとりあえず並べられている。


「双眼鏡? 何に使うの?」

「バードウォッチング。つまんない学校行事で、地域の自然に触れあおうってやつ。せっかく遠足するなら、お城巡りとかにすればいいのになー」


 初は高校二年生で、近くの高校に通っているらしい。


「オペラグラスならあったと思ったけど……」

「オペラグラス?」

「オペラとか見るときの小さい双眼鏡だよ」


 小物を押し込めてある段ボールを漁る。実家にあったのを持ってきただけで、実際に使ったことはなかった。

 初は、どれどれとベッドに乗っかり、段ボールの中をのぞいてくる。

 初からシャンプーのいい香りがする。風呂から上がったばかりのようで、顔もほんのり赤く染まっている。


「あったあった。これだ」


 小さく折りたたまれたオペラグラスを渡す。

 初はさっそくオペラグラスをのぞき込み、キョロキョロと部屋を見渡して倍率を確かめている。


「んー、微妙かな……?」

「安物だしね。使わなくても、持って行くだけ持って行けば?」

「いらないかな。スマホあるし」


 遠くのものを見るのに、スマホのカメラを使う時代らしい。拡大もできて、そのまま写真も撮れるのだから、ちゃちなオペラグラスより遥かに便利である。


「ここで戦国クイズ~! 戦国時代に望遠鏡はあったでしょ~かっ!?」


 突如始まるクイズコーナー。初は指をくるくる回してポーズを取りながら、お得意の戦国時代に関する問題を出してくる。


「戦国時代って、スペインとかポルトガルが日本に来てた時代だよね?」

「うん。“増える鉄砲伝来”、1543年。だいたいそんな時期だね」

「ってことは大航海時代か。答えは…………ある!」


 大航海時代と言えば船。船と言えば海賊。海賊が望遠鏡をのぞいて航海しているイメージがある。


「ぶっぶー! 不正解!」

「えー!? あったんじゃないのか?」

「実は戦国時代にはなかったんだー。よく信長が城の上から望遠鏡で城下を眺めてるってイメージあるけど、あれは間違い。望遠鏡は1608年にオランダで発明されて、翌年にガリレオ・ガリレイが天体観測に使ったんだ」

「1608年って日本でどんな時期?」

「秀吉の孫、豊臣国松とよとみくにまつが生まれた年。秀吉がとっくに亡くなって、家康が天下を取ってる頃。もう江戸時代入ってるね」

「そうなんだ……」

「現存してないけど、イギリスの王様が家康にプレゼントしてるから、亡くなる1616年には日本に伝来してたかもね」


 さすがに歴史家の娘とあって、世界の歴史に詳しいようだ。


「ちなみに、イギリスのシェイクスピア(※1)が亡くなったのも1616年ね」

「え、そんな時代なの? 家康とシェイクスピアが同世代か。イメージできないな」


 江戸時代が始まった頃には、イギリスでは演劇が盛んだったようだ。望遠鏡が発明され、オペラで使用されるのも、それから遠くないのかもしれないと、初に返されたオペラグラスを見ながら思いにふける。


「じゃあこれで~。あっ、叔父さん。お風呂入ったら?」

「えっ? 臭かった……?」


 初がベッドから飛び上がり部屋を出ようとしたので、反射的に体の臭いを嗅いでしまう。


「そうじゃなくて、お湯沸いてるから、次入ったらってこと」

「ああ、そいうこと。じゃあ、お言葉に甘えて、お風呂を借りようかな」


 借りると言ってしまったが、これからは家族の一員になるのだから借りるという表現はおかしいかもしれない。他人行儀ではいけないが、馴染みのないものは緊張してしまう。

 バッグからタオルと着替えを出して部屋を出ると、居間で江が教科書とノートを広げて勉強していた。

 彼女たちの部屋は三人のベッドでいっぱいなので、基本的にいつも居間で過ごしているらしい。兄はもともとあまり家に帰ってなかったから、居間も彼女の部屋と変わらないのだ。

 江が学校に行ってないと聞いて心配していたが、ちゃんと勉強しているので少し安心する。分からないことがあれば教えてやろうと思う。今は勉強の邪魔をしちゃいけないので、音を立てずに風呂場へ向かった。

 風呂場のドアを開けてすぐ、異変に気づく。

 誰かがお風呂に入っている。初はすでに入っていて、江は勉強しているから、茶々のはずだ。

 引っ越し早々のハプニング。ラッキーと言えるのかもしれないが、相手が姪っ子では絶対にそんなこと言えない。

 速やかに退避しようと思ったところで、


「ハツ? シャンプー切れてるじゃない。補充しといてって言ったでしょ!」


 と、中から声をかけられてしまう。


「あ、あの……僕です」

「あっ、すみません!? 間違えちゃいました!」


 バシャッと水音。茶々は浴槽で動揺しているようである。


「すぐ出るから……」

「待ってください。あの、すみません……そこから、詰め替えのシャンプー取ってもらえませんか……?」

「え、あ、はい」


 中を見ないように後ろ向きながら、磨りガラスのドアを少し開けて、詰め替えボトルをそっと入れるとすぐにドアを閉めた。


「ありがとうございます、助かりました」


 お湯から上がる音がする。詰め替えボトルを手に取ったようだ。


「いえ、お安いご用で」

「なんとかやっていけそうですか?」

「え?」

「私たちの面倒を見に来てもらっているのに、ろくなおもてなしもできなくて」

「気にしないで。一人暮らしのときのが荒れてたから」

「ふふっ、そうなんですか。妹たちはどうですか? ご迷惑おかけしていませんか?」

「そんなことないよ。二人ともいい子だ。あ、君もね」

「そんなことありませんって」


 茶々は照れくさそうに笑う。


「ところで、戦国時代のお風呂ってどんなのか知ってますか?」

「んー、五右衛門風呂ごえもんぶろ?」


 古いお風呂を言われても、それしか思い浮かばなかった。


「ハズレです。それは江戸時代からですね。『東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ』で、五右衛門風呂の入り方が分からなくて困ったエピソード、聞いたことありませんか?」

「火で炙られてる底が熱くて、トイレの下駄で入っちゃうやつか」

「それです。最後は風呂の底を踏み抜いて大変なことになっちゃいますね。戦国時代にはお風呂に浸かる習慣はなくて、蒸し風呂が中心でした。今のサウナが近いんでしょうね。個室に蒸気を送って蒸される感じです」

「へえ、お湯に入らなかったんだ」

「ここで豆知識です! 浴衣はお風呂から上がったとき、体を拭くために着たそうですよ」


 妹の初のように得意げに話し始めるので苦笑してしまう。やはり姉妹なのだ。


「タオル代わりですね。将軍などの偉い人は体が乾くまで、何度も着替えたそうです。もともと湯帷子ゆかたびらと言われてて、庶民がラフな着物として使うようになると、浴衣ゆかたと略されたみたいです」

「浴衣ってお風呂のときに着るものだったんだ。漢字が変だなとは思ってたけど」

「今ではお祭りのときぐらいしか着ませんからね。そういえば、江戸時代は混浴だったみたいですね」

「えっ、銭湯が混浴なの? どうして?」


 思わず声がうわずってしまう。


「ふふ、コスト的な話みたいです。無理をすればできたんでしょうけど、古代ローマが社交場として大浴場があったように、江戸時代もそのようなこだわりがあったのかもしれません」

「裸の付き合いってやつか。ビックリだなあ……」

「そうですね、ペリーは叔父さんみたいに、当時の文化にビックリしたみたいですよ」


 幕末に黒船に乗ってやってきたペリー帝国も、黄金の国ジパングの文化にはついていけなかったようだ。


「おっと、話し込んじゃったか。それじゃお姉さん、ごゆっくり」


 ここは女の園という外国。ビックリしながらも、粗相をしないように気をつけなければならないだろう。

 信長が望遠鏡をのぞくことがなかったように、僕も風呂をのぞくことはないのだ。




※1 シェイクスピアが生まれたのは1564年。ガリレオ・ガリレイ、日本にやってきたウィリアム・アダムス(三浦按針みうらあんじん)もこの年に生まれている。

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