なまけもの

よもぎもちもち

第1話

 「あなたには見えていた筈よ。どうして見えないってことになるのかしら?あなたはずっとずっと鮮明に覚えていたのに。決して忘れちゃいけないって、そう強く心に刻んでいたのに」


 彼女の声はとても澄んでいた。淡々と淀みなく---まるで石垣のビーチに差す眩い光がどこまでも続くと僕たちに錯覚させるように。でもその瞳には一欠けらの優しさや、まして母性なんてものは微塵も感じられなかった。


 「大事なことはね、繰り返し言わなくちゃいけないの。あなたは理解してくれないから、ハンマーで後頭部をしっかりと叩かなくちゃね。ちゃんと心に刻んでくれるまで、しっかりと。何度も。手を抜いちゃダメなのよ。こういうことって。穴のあいた靴下みたいに、出てきちゃうでしょ?指やら何やらが。治せないないなら、壊さないといけないじゃない。それが世界の摂理なんだから」。そう、彼女は世界の摂理に従っているだけ。正しいか、正しくないかじゃない。少なくとも彼女の信念によれば、それは決して揺らぐことはないのだから。両手両足を堅い縄で縛られたままの僕は身動きできず、瞬きの回数で嘆願しようとも思わなかった。多くの動植物がそうであるように、この世界のヒエラルキーに沿って考えたなら、今の僕は間違いなく彼女に捕食される側にあるのだから。


 閃光に似た衝撃が走り、世界が揺れ、生ぬるい感触が頭皮を伝う。血。僕は殴られた。平成が終わる年にハンマーで殴られ殺される。現実感がない。幾千幾万の人々が輪廻のように体験した痛み。僕が見ているこの記憶も同じくDNAに刻まれるのだろうか?毎朝卵たっぷりのサンドウィッチをつまみコーヒーをブラックで味わうように。毎日シャワーを浴び、その日限りのニュースを記憶するように。繰り返す。僕も繰り返しの原子のひとつとなって宇宙に放出されるのだろうか。


 もう考えるのにも疲れ果ててしまって億劫になってきた。神様。生まれて37年間考え続けてきました。正直、疲れました。もううんざりなのです。なので神様、もうじき、あなたをぶん殴りに逝きます。力いっぱい、あなたを殺すつもりで。遠慮なんかしませんよ。神様はろくでなしのウンコ垂れなんだから。罰を与えなくちゃいけない。僕がやらないと---人は眠ると同時に死に至り、目覚めと共に息を吹き返す---僕は意識を失った


 白い長髭に禿げあがった前頭葉「こらこら、過去があるから今があるんじゃない、未来からそっち側に時間は進むんじゃ。今流行りの逆走じゃな~。意味わかる?」ふぁふぁふ、と老人はか細い声でうつむき笑う。仙人のような浮世離れした姿。朦朧とする意識の中、もう一度顔をあげると、その仙人は祖父であることがわかった。僕が12の時に看取った祖父。何かで僕の腕をゆっくり掴む。映画のワンシーンで発射された弾丸がスローモーションになる演出のように、ゆっくりと、でも確実にそれは僕をつまみあげる。やわらかい?甘い匂い?これは・・・綿アメのマジックハンド。「・・・ないわー」僕はがっくりうなだれながら祖父に聞こえるようにハッキリ伝えた。夢にしてはずいぶんコメディなことで。両足が地面から浮き、どこかへ連れて行かれる僕。どこへ?どこへだっていい。---


 概ね人は、手を引くことのできる範囲にしか興味を示さない。いや、正確には、行動しない。行動にはエネルギーが必要であり、人を助ける行為一つとっても、繰り返しの日常からはみ出してしまうために、行動しない。多くの一般的な人たちの、ノーマルな脳とは、そういう一見無駄に見えるロスを嫌がるものだ。


 僕が頭から血を流し倒れているのを眺め立ち去る人もいれば、必死になって抱き起こしてくれる人もいる。大概の人々は無関心であるし、無関心であることは責められることでもない。誰もが自分の精いっぱいの何かを守らなくてはならない。その日、食べていくだけでやっとの人もいれば、溢れるばかりの財を手にしながら、何も手にしていないと声高々に叫ぶ人もいる。本当に貧しい人とは、既にもっているのに「もっとよこせ」と欲しがる人のことを指す。それが世界の摂理なのだから。

 神様は特等席からポップコーン片手にそんな僕らをモニタリングする。プログラミングされた未来からやってくる世界が予定調和にない枝に別れ、ある人は泣き、笑い、失望し、歓びにむせぶ姿を、まるでシュミレーションゲームを観察するように、楽しむ。彼女は神様のことを糞野郎となじっていた。「忘れるもんか」何度も約束した筈なのにその契りを破ってしまったのは僕自身だった。「もう流す涙も枯れてしまった」と彼女は塞ぎ込み、僕らは暫くの間、逢うことをやめてしまった。僕は付着していた堅いタイルがウロコのようにペリペリと剥がれ落ちていくのを感じた。それは記憶を閉じ込めていた囲いのようなものだった。でも、剥がれ落ちたうろこの中から真新しいタイルが誇らしげに顔を見せた。やれやれと僕は深い溜息をついた。

 

 外泊時に感じる寝心地の悪い枕、たくさんの病魔を観てきた白カーテン。色弱の僕にだって分かる、消毒臭の溜まり場。ここは病院なのだろう。僕は暗闇の中で何度も頭やら身体をいじくられた感触があった。意識が浮かんでは沈み、束の間に醒めた意識が僕をかろうじて吊るし上げている。初心者が不安定な操り人形に苦心するように、僕は自分を完全にはコントロールできていない。指は・・・動く。足の感覚は・・・ある。頭は・・・おそらく包帯が巻かれてるのだろう。起き上がることはできない。「あのまま死なせてくれたら神様をやっつけられたんだけど、どうやら生きてるらしい。いや、門前払いということかな。なるほど、話を整理しておかないといけない。僕はまた、忘れてしまうから。大切なことはすぐに忘れてしまう。記憶は水に溶けたミルクのようなもので、どんなに丁寧にしまっておいても、形を変えてしまう。どんな科学者にだって元通りに復元はできないのだから。だから刻まなくちゃいけない。歯磨きすることを決して忘れないように、繰り返すことが大切だ。彼女の言う通り」


~彼女~

 

 

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なまけもの よもぎもちもち @yomogi25259

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