8.高田匡臣

 高田たかだ匡臣まさおみにとって高田たかだ和人かずひとは、誰よりも優しく、聡明で、思慮深い《兄》だった。


 五つ歳が離れていた和人は、いつだって背中を追いかけまわす匡臣を邪険にすることなく、相手にしてくれた。


 成績が良く、品行方正で、運動もそつなく熟せた彼は、匡臣にとって自慢の兄で、両親にとっても自慢の息子だった。


 そう。匡臣の記憶に存在する兄はいつだって笑顔で、明るくて、真っ直ぐで、誠実な人だった。それこそ、不当な行為を絶対に許さない程に。

 

 兄は時折、ニュースに流れる事件に対して不満げな顔をしていた。特に処刑判決が下った罪人に向ける眼差しは厳しげで、匡臣は“犯罪者”に対して強い嫌悪感を抱いているのだとよくをしていた。


 その見解が間違っていると知ったのは小学生の頃、一度だけ興味半分で兄に疑問を投げかけた時だった。


 ――兄さんは、なんでそんなに怒っているの?


 言うほど兄は険しい顔をしていたわけではない。それでも、その涼しげな顔の下に、黒い感情を燻らせていたことを匡臣は見抜いていた。


 不思議そうに、どこか、怯えた様子で問いかける匡臣に、兄――和人は困ったように笑った。

 眉尻を下げるその顔は悲しげで、匡臣は途端に不安な感情を覚えた。

 そんな弟を宥めるように、和人は匡臣の頭を撫でてやった。


『――怒っている、のかな……ごめん、怖かったか?』


 フルフルとかぶりを振る匡臣。けれど、その表情はやはり怖がっているようで、和人は苦笑した。


『ごめんな。唯、なんて言うのかな……納得できなくてさ、』

『――なっとく?』


 匡臣は首を傾げた。その時の兄の微笑は、不思議と彼の記憶へと鮮明にこびりついた。

 和人かずひとは決して怒っているわけではなかった。ただ、この国の常識というものに疑問を感じていたのだ。


 いき過ぎた罰は毒となり、人の精神を蝕む。和人は幼いながらも、その意味を理解していた。

 子供にしてはどこか成熟したような一面を持っていたのだ。世界の常識に違和感を感じ、面と向き合うことで、その正体を突き止めようとしていたのだと、匡臣は後に悟った。


 その愚直とも言える彼の精神を、匡臣は一つの美点として好ましく思っていた。

 和人はいつだって彼の目標であり、憧れだったのだ。


 匡臣が生まれた家は、どちらかと言えば裕福な方で、幸せな暮らしをしていた。

 毎日学校へ行って、勉強して、友達と遊んで、兄と並んで帰宅する。そんな日常がずっと続くのだと、匡臣はそう信じて疑わなかった。

 

 だが、それは早くも小学五年生に上がる頃――崩れ去る。


『――高田和人くん、君に殺人の容疑がかかっている。同行を願いたい』


 春休みのある日、自宅の玄関へと踏み込んだ刑事に、高田一家は唖然とした。

 何かの間違いだと、匡臣の母が嘆いた。

 理由を教えてくれ、と和人は拒んだ。

 何が起きているんだ、と幼い匡臣は呆然とした。


 あっというまだった。

 戸惑う和人を連行して、警察は去った。混乱する匡臣と母を置きざりにして。


 まだ仕事中だった父は、母からの電話を通して和人の事を聞き、すぐさま警察と連絡を取るがどうすることも出来ず――結局、和人が戻ってくるのを黙って待つしかなかった。


 幸い、取り調べは早く終わり、和人はしばらくして、無事に戻ってくることが出来た。

 だが、やはり事の一端を見逃す人間はおらず、事件は既に近所の話題の餌として、住宅街のみならず、マスコミまで広まっていた。


 和人の疑いは晴れることなく、時は進み、高田家は冷たい目を向けられるようになる。腫れ物のように触る者、殺人鬼を前にしたような怯え方をする者、甘い汁を啜ろうと傷を突く者。偽善と悪意に包まれ、いつしか家は暗い空気を纏うようになった。


 母は病み、父は荒れ、兄は悲しげに笑うようになった。


 匡臣はそんな家族を憂いた。


 だから再び皆が笑いあえるよう、健気に模索し、太陽のように明るく振る舞い、努力を続けた。そのお蔭か、一家は笑顔を忘れるようなことはしなかった。


 ――大丈夫。きっと、またすぐに元の日常に戻れる。


 匡臣はそう信じて疑わなかった。

 兄は実際に何もしていないのだ。きっと彼の疑いは直ぐに晴れる。そう思い続けた。けど、兄は相変わらず苦しそうに微笑するばかりで、


 ――にい、さん……?


 は突然だった。否、匡臣が気付けなかっただけで、前触れはもしかしたら、どこかにあったのかもしれない。


『――にい、さ……』


 ある日のこと、日常の中で唐突に起きたそれは、まだ11歳の少年が見るには、あまりにも残酷な光景だった。


 夕方。空が橙色に染まる中、ベランダの窓越しに差し込む光は部屋を淡く照らし、天井からぶら下がる“物”に濃い影を与えていた。


 幼い少年から見たは影のせいで真黒に見え、硝子一面から寝室を蜜柑色に染める光は何故か、教科書で見た、“イエス・キリストの磔刑”を連想させた。


 ――小さな手が必死に繋げ止めようとした日常は、こうして簡単に、呆気なく途切れた。


 それからは、酷かった。和人が死んだことで周囲の見解は悪化し、高田家は針の筵に立たされた。

 近所の住民が毎日のように同じを言葉を繰り返した――「やはり、彼が犯人だったのではないかと」、と。


 匡臣は失望すると同時に、どうしようもない苛立ちを覚えた。民衆の理不尽な扱いに、調査の進行と結果を一切明かさない警察に、兄を犯人と決め付けようとする野次馬に、匡臣は憤怒した。


 だが、それ以上に母の苦悩は比べようのないもので、彼女は悲観と後悔で覆われ、壊れそうになっていた。


 そんな彼女を懸念し、父は移住を決意した。周囲の悪意から逃げるために。


 幸い、和人の名前は当時未成年だったこともあり、世間には『少年A』としか知られていなかったので、彼らが住んでいた街から離れれば済む話だった。

 色々と手続きや警察からの事情聴取などで多忙な日々は続いたが、なんとか全ての問題を片付けることができた。


 逃げるように移り住んだ先の新宿には、和人の事を知る者は居らず、高田家は無事、静かな生活を送れるようになった。

 理由は分からないが、警察は和人の死についてはまるで隠すように、外には触れまろうとせず、そのせいもあってか、例の事件は段々と形を顰め、いつしか世間の話題から遠ざかっていた。


 母も僅かにだが、匡臣が高校に入ってやっと笑うようになり、父も時々悩ましげな顔を見せながらも、仕事を日々頑張ってくれていた。


 匡臣たちはまた元の日常へと戻ったのだ。兄、和人を置いて――。


 それでも人はその口を閉じることを知らず、匡臣は時折、兄に対する勝手な推測に鬱憤を感じた。


 行政高校に入学した今でもそれは変わらない。

 その証拠に三年の明石の、不躾で、冒瀆とも表せる発言に、匡臣はとうとう堪忍袋の緒を切らした。

 許せなかった、奴の悪意を。見過ごせなかった、その不合理な言葉を。

 

 けど、例え己が許そうとも許さなくとも、そんなことに意味はないのだ。

 己のちっぽけなその存在など、結局他人からすればどうでも良いことなのだから。

 この世界の『正義』は決まっている。自分が悪だという主観は既に確定している。

 自分の主張が、人の心に届くことはない。


 ――事実、今でも人は皆、匡臣たちを蔑み、見下し、嘲笑う。






 ◆  ◆


 行政高校、第1訓練場、12番室。


 縁を切ったはずの元友人の模擬戦が行われているその会場で、匡臣――『高田』は静観していた。

 人混みから外れたその位置で、誰にも気づかれることなく、黙々と時を刻んでいる。目の前の人の群れからはヒソヒソと雑音が聞こえてくるが、高田にとっては耳障りなものでしかなかった。

 話題の中心である自分に気付かず、囁き続ける観衆に、皮肉を覚えた。


(……なんで)


 それは高田が最初に思考した言葉だった。

 何故、縁を切ったはずのはこんな試合をしているのだろうか。何故、こうも人は自分を放っておいくれないのだろうか。何故、人はここまで悪質になれるのだろうか。何故、自分たちはここまで非難されなければならないのだろうか?

 

 俺は何か悪いことをしたか?


(……なんで、)


「――例え、犯罪者本人でなくとも、共に長い年月を過ごし、同じ血を持つ弟なら十分に疑わしく、危険だ」


 高田が今苛まれている悪意の発単である、明石の声が嫌味なほどに空間に浸透する。それはいつも以上にハッキリと、鮮明に高田の耳元まで届いた。


「同じ環境で育って、同じ教育を受けたんだ。人畜無害な顔をして、腹の中で何を考えているか分かったもんじゃない。これってさ、凄くやばくない?」


 ギリ。重なり合った上下の奥歯から、不穏な音が奏でられた。強く強く噛みしめられたそれを伝って、歯茎に鈍痛が届く。

 唇が真一文字に引き結ばれ、頬の筋肉がひきつった。


「だってさ、何を考えてるのか分かんないんだよ? 先生たちを疑っているわけじゃないけどさ、本当に高田くんは、健全な精神を持っているの? 本当は演技とかで誤魔化してるんじゃない?」


(なんでっ…)


 無情に、無邪気に紡がれる言葉の数々。それは高田の胸の奥へと厳重に仕舞われたはずの、感情の函を突き、こじ開けようと鍵を叩く。


「ブラッドだからね。幾らでも嘘なんて吐けるし、人を騙すことだって出来る。彼らは下等な人種だ。そう難しいことじゃないさ」


(っなんでだよ!?)


 ――高田は、悔しかった。


 兄を侮辱した明石に無様に敗したことが。奴の勝手な推察に反論できなかったことが。周囲の冷たく、腹立たしい蔑みの視線にひれ伏すことしか出来なかった自分が、何よりも悔しかった。叫びたかった。


(お前らに、何が分かる? 兄さんの、あの人の何を知っている?)


 兄の和人は、誰よりも誠実で、誰よりも尊敬に値する人だった。

 幼くも聡明で、堅実で、実直で、本当に、優しい人だった。それこそ、誰かを傷つけることを嫌うほどに、


 ――あー、確かにありえるかも。

 ――ブラッドって平気でそういうことやりそうだもんね……。


(違う……! 俺は……俺は、兄さんは……!)


 ギリリ。深く握りしめられた拳は、血の巡りが止まってしまったのか、白く染まった。

 弁明一つ出来ない自分が不甲斐なくて、明石に同意する奴らが憎くて、高田は計りしれない苛立ちを覚えた。


 囁きをやめない周囲を、明石の言葉に納得する彼らを、高田は怒鳴り散らしたい衝動で震えた。立場が悪くなったっていい、更なる悪意を向けられたっていい、この鬱憤を吐き出したい。


 だけど、怖い。再び冷ややかな視線を、この場で受けることを。更なる悪意をこのさき向けられることを、高田は恐れた。

 相反する心、矛盾した感情が胸奥で複雑に渦巻き、呼吸を浅くする。


「あー、でもあの実力じゃ無理か」


 さも今思い出したかのように、一層明るく轟く声。それはどこか高田を小馬鹿にしているように思えた。


「彼、弱いもんね。犯罪犯そうにも、対したことも出来ないわ。ごめん、早とちりだった」


 カアァ。止めを刺すような折り返しに、高田は羞恥を覚えた。顔は耳まで赤く染まり、不意に涙が込み上げそうになった。

 クスクスと零される観客の笑い声はその想いを助長させ、高田を俯むかせる。


 奴の存在を、下の会場に居る明石が知るはずはないのに、まるで高田が其処に居ることを認知しているかのように、奴を煽る暴言を吐き続けた。


「出来るとしたら精々、万引きとかそれぐらいだろうね」


(……だまれっ、)


「いや、あの怪奇事件の犯人の弟だから、もっと凶悪で、知的で、厄介な人物を想像してたんだけど……」


(だまれっ、)


 何処まで人を馬鹿にすれば気が済むのだろう。

 閉じることを知らない口は、次から次へと軽やかに、高田を辱める言葉を吐き、高田はどうしようもない、筆舌に尽くしがたい感情を覚えた。


「拍子抜けって言うか、吃驚したね。まあ、害がありそうなことには……」


(だまれ、)


 ――もう黙れよ!!


 ブツリ。握りしめていた掌に、爪が食い込み、肌を突き破った。

 目の奥に熱が灯り始め、滴が溢れそうになった。

 感情は煮えたぎる血と混ざり、高ぶり、奴の頭の天辺まで登りあがる。腸が煮えくり返り、口の奥から何かが競り上がりはじめた。そんな時だった、


「――もう、あんた。黙れよ」


 しん、

 たった一言で会場が静まり返った。思わぬ言葉に高田も硬直し、言葉を失う。


「……なに? 怒っちゃった?」


 反して、明石は未だに鼻にかかるような声で喋り続けており、その顔にはあの下賤な笑みが貼りつけられているであろうことを、高田は容易に想像できた。

 そんな奴らとは裏腹に、少年の声は冷然と空気を震わせる。


「……やめた」

「なに、やめるの?」


 試合を放り出すような発言に、明石は眉を上げた。

 観客スペースに居る生徒たちも驚いたように騒ぐ。だが、そんな観衆などお構いなく、彼らの戸惑いに気付いていないのか、声の主は淡々と言葉を紡いだ。


「もう、いいや……あんた、黙んなくていいよ」

「は?」


 重ねられる言葉。要領を得ないそれに明石は訝しげに顔を歪めた。

 コンテナの後ろに隠れる姿は見えない。その顔も、表情も、何も。

 だが、何故だろうか……


「そのきたねークチ、二度と開けないぐらいブン殴ってやる」

 

 ――明石は金城という少年に、を感じた。

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