14.それは結末か、序章か――

 ――激流の中、金城は目を開けずにいた。

 繋がれた《道具》が水の強い流れに押されて前へ進み続ける。それに伴って右手の手錠が引っ張られるのが分かった。手首が引きちぎれるのではないかと思えるほどの勢いだ。


 川へ飛び込んでからもう数分は経つ。


(……酸素ボンベが)


 口に含んだ白いおしゃぶりのようなそれを逃がさぬよう、ぎちりと歯を立てる金城。それは川へ飛びこむ際、草地にも咥えさせたものだ。市販で買えるボンベは安物で、そう長くは続かない。持ってせいぜい十分だろう。

 重い瞼をぎこちなく開ける。眼球に水が触れるも、金城は感じる違和感に耐えて視線を左右へと動かした。隣を見ると草地もまた《道具》へしっかりと左手をしがみつかせていた。強い流れの中、見えるその顔は険しく苦しげだ。


 ――このままでは、いけない。


 酸素が回らなくなりはじめた頭で金城は《道具》を操作しようとする。すると『それ』はゆっくりと金城の指示に従うように、少しずつ上へと浮上していった。が、


(……だめ、だ)


 とうの前に、金城は既に限界を超えていた。瞼は徐々に下りてゆき、ゴポリと口から息が零れでる。

 身体から段々と力が抜け、そのまま水の勢いに流された。


 ――視界が暗転した。





◆  ◆


 どのくらいの時間が経ったのだろうか。

 ……微睡みの中、金城の意識がゆっくりと浮上してゆく。


 頭が痛い。目の前が真っ暗だ。背中から柔らかい感触が伝わってくる、布団だろうか。


(俺は、どうしたんだっけ……)


 スウ、と金城は息を吸い込んだ。

 日向の匂いがする。だが、自分が川に飛び込んだ時、辺りはまだ暗かったはずだ。


(今、何時なんじだ? いや……そもそも此処はどこだ、天国か)


 上手く回らない頭でぼんやりと思考する。

 まず、目を開けようとした。重い瞼が震えながら開く。少し揺れる視界を左、そして右へと向けた。

 すると、其処には壮齢の男が居た。驚いたように目を見開くその男は――顎髭が汚らしく散らかってはいるが――不思議と威厳を感じる佇まいをしていた。


「よかった……目が覚めたか」


 金城を見つめるその表情は柔らかい。男は安堵したように息を漏らした。


(誰だ、この人……?)


 見たことのない男だ。多少の皺が刻まれた目元に、白髪交じりの太い眉毛。浅黒い顔は優しげな雰囲気を作っていた。


(この人は、誰だ?)


「……あの」

「気分はどうだい?」

「……少し、頭痛はしますけど。それ以外は」

「そうか。水は飲めるかな?」

「……お願いします」


 男は了解したとばかりに息を吐くと、傍に置いてあった急須からコップに水を注いだ。


「起きれるか?」

「はい、大丈夫です」


 手渡されたコップを受け取って、水を喉に流し込む。一瞬、躊躇するような素振りを見せたが、相当喉が渇いていたのだろう――ゴクゴクと丸ごと一杯、一気に飲んでしまった。

 ぷはあ、と一息を吐く。喉は潤い、体の中が洗い流されたような気がして気持ちがいい。生き返ったような心地がした。


 「ありがとうございます 」とお礼を言いながら男にコップを返すと、「もう一杯いるか?」と問われてもう十分だと頭を振る。


 ぐるりと金城は自分が居る室内を見渡した。簡素な部屋だった。金城が寝ているベッドの隣の窓と、目の前の男が座っている椅子以外はなにもない。狭い空間の中、小さな窓から太陽の光が差す。

 ――静かだ。


「あの、あなたは……」

「ああ、そうか。すまない、まずは自己紹介をするべきだったな。私の名は敦賀。敦賀つるが宗次そうじ。こういう者だよ」


 差し出された名刺は今どき珍しい紙媒体の物だった。金城は恐縮したようにぺこりと会釈しながらそれを両手で受け取る。恐る恐る、その名刺を読み上げた。


「フェイフ……の人? っ、もしかして、ツルガさん!?」


 カードの右上に飾られた三つの花のエンブレム。五枚の白い花弁を象るその花の名前は『藪柑子やぶこうじ』。花言葉を『明日の幸福』。


「ああ、そうだよ……初めまして、君は金城くんだね?」

「……はい、」


 ――Faithフェイフ


 それは日本ではあまり知られていない、死刑廃止団体の名前だ。

 知ってのとおり、日本には絶対処刑法があり、その法は国に強く根付いている。

 法こそが正義、正義こそが絶対。それが、《日本》という国そのものが掲げている信念であり、常識だ。例えどんな理由があろうと、どんなに幼かろうと、法を犯した者は必ず処刑されなければならない。何故なら――それが『正しい』からだ。


 だが、全ての人間がこの理念を受け入れているわけではなかった。本当に極僅かだが、その常識が『異常』だということに気付いている人間は確かに存在するのだ。人の『死』を簡単に受け入れる民衆を恐れ、嫌悪を抱き、不満を持つそんな人間が――。


 そんな人間はこの国では軽蔑の対象とされ。日本、いや、日本人は自然と彼らを『Bloody-minded』(通称ブラッド)――法を受け入れず、犯罪者を受け入れる『非常識』或いは『偏屈な屑』と呼んだ。


 そんな『常識を受け入れない』という理由から、大多数の日本人は『ブラッド』を『低俗な人種』と見なし、軽蔑し、冷たい眼を向け続けてきた。それは肉体的な苦痛はなくとも、精神的な痛みをブラッドたちに伴わせるものだった。ブラッドには物理的な居場所があったとしても、精神的に安らげる場所はないのだ。そのせいか、多くのブラッドたちは他国へと逃げ出していた。


 『Faith』とはそんな日本人が作り上げた、謂わば集団だ。

 表向きは死刑に対する小さな抗議行動ばかりだが、実際には草地のような重刑に値しないと思った人間を国から逃がすため、密やかな手続きを取っている団体だった。それがFaith――草地のような『死刑囚を信じる者』たちだ。


 どうやら、金城が居るこの寝室のような部屋は、彼らが用意したプレジャー船の中らしい。東京湾奧の第三空港へと向かっているようだった。


「……まさか、本当にを連れ出してくるとは思わなかったよ。こんなボロボロになって……すまない、私は」

「いえ、俺が自分で頼んだことですし。無理強いをしたのは俺です。本当はそちらだって危険な橋を渡っているのに……」


 その言葉に敦賀という男は苦笑した。


 ――今から数日前。金城は彼らと連絡を取るためにネットカフェへと出かけていた。


 たとえ絶対処刑法という名の法律があったとしても、日本は建言の自由が許された国だ。数は少ないが死刑廃止団体も、彼らと連絡を取るためのサイトも、禁止されているわけではない。金城はそれを利用して彼らと連絡を取っていたのだ。ネットカフェを使ったのは念のため、IPアドレスを辿って警察に嗅ぎつかれないためだ。もちろん、カフェでも顔は隠していた。


 死刑廃止団体のサイトはFaith以外にも幾つかあった。金城はそれを片っ端から調べて連絡を取り、草地のことを相談したのだ。だが、惨敗だった。


 理由は明確だ。死刑囚に関することは反政府行為にあたる。それを犯せば、彼らは反逆者と見なされ、それに関わったものは全て不穏分子として処罰されるのだ。幾ら数少ない囚人の釈放や拷問、死刑の廃止を失くすために活動をしているとはいえ、法に触れる――ような恐れ多いことは出来ない。だから草地の話題が出る度、金城の願いはことごとく断られた。可笑しなことに、『死刑廃止団体』を名乗る数多くの団体は『死刑囚』の話を禁句としていたのだ。


 それでも金城は諦めなかった。諦められなかった。粘り強く毎日色んなサイトにアクセスしては色んな団体と話をした。そして、その中で唯一彼に答えてくれたのが『Faith』だった。


 しかし、Faithとて幾ら反政府組織と名乗っていても所詮は一般人の集まり。例え、裏工作が出来たとしても、直接事件に関わるようなリスクを背負うことはできない。だから、彼らは言った。


『自分たちは政府に逆らうつもりはない。日本での活動を終えたらすぐに『船』に乗って帰る。だが、もしも我々に参道する『同志』が居るのならば、共に連れて行こう』


 それは草地を連れて国を出ても良いという了承の言葉だった。

 彼らは金城に落ち合う場所を指定し、草地をそこまで連れてくるよう指示した――そう。彼らの『船』が待つ鶴見川へと――。


「……本当にすまない。もう少し江田の近くへ行けば良かった。まさか、あんなことになっていたなんて」

「……えと、俺らは」

「指定の時間より随分遅かったからね。やめたのかな、とも思ったけど君の必死さを思いだして……一応、もう少し近くの早渕川まで行ったんだ」


「いや、驚いた」と敦賀は大きな溜息を吐いた。その意味が全く理解できず、金城は眉を顰める。


「きみたち……息、してなかったんだよ?」

「……え?」

「暗闇の中、仲間が『何かが居る』って言うものでね……目を凝らしてみたらそりゃ、ビックリ。人間が二人も浮かんでいたんだ。しかもベルトで『こんなもの』に繋がれて」


 そうして敦賀が床から拾い上げたのは《羽》と《ジェット機》が付いた円盤――『シーダイバー』だった。それは本来、海の娯楽でダイビングなどのために使う娯楽品だ。イルカのように動くその特殊な性能から、水着でも安全に潜れると評判の一品。手錠のようなセーフティベルトも付いていて今のところ子供が振り落されるなどの事故も起きていない、信頼度の高い商品だ。


 早渕川は鶴見川水系の支流であり、金城たちが飛び込んだ川は其処と繋がっていた。それを知っていた金城はあの場で飛び込み、ダイバーを使うことで敦賀たちの元へと辿り着こうとしたのだ。だが、息が続かず途中で意識を失ってしまい、水に体温を奪われ衰弱してしまった。あのまま発見が遅ければ応急処置では間に合わず、死んでいたかもしれない。最早運が良かったとしか言いようがない。


「……まさか、これを使ってくるとはね。川を下ってくるとは思わなかったよ」

「……すみません。それ以外に方法がなかったもので」

「いや……それほど君は勇敢だったということだ。よく頑張ってくれた」


 たおやかな笑みに異論の気配はない。心から金城を称賛している証拠だ。

 それに対して金城はどこかむず痒そうに身動ぎをし、敦賀に尋ねた。


「あの、それで……草地は」

「ああ、無事だよ……」


 その言葉に金城は安堵の息を漏らす。


「ただ、腕の方はちょっとね……ここでは医者に診せられないし、どうなるのか正直わからない。今、別室で君と同じように休んでいるよ」

「……そうですか」

「金城くん、君はこれからどうするつもりだい?」


 それは処刑場に居た頃から金城自身が憂惧していたことであった。徐々に顔を俯かせ、布団を握る手を震わせる。そんな奴を敦賀は静かに見つめた。


「……敦賀さんは、この『国』をどう思いますか?」


 それは金城が長らく胸に抱いていた疑問だった。以外の人種は、この国をどう見て、どう思っているのだろうか。


「異常だね……」

「……」


 それは金城も薄々と予想していた答えだった。


「この国は確かに安全な国だ。人が法を守り、法が秩序を守る。そのお蔭で犯罪者はこの国にはもはや殆ど居ない。絶対的な罰を与えられるからね」

「……それでも、」

「ああ、それでも過ちを犯す人間は居る。ニュースとして報道される小さな万引きでも牢獄へと幽閉され、『人生』を奪われ、世間から差別を受ける。

 それは一見、正しくは見えるのかもしれない。けどね、私から、から見たらそれはなんだよ」


 日本という国で犯罪を犯す人間は年に一度や二度しか現れない。その度、彼らは『珍しい』餌として全国へと報道され、見せしめに必要以上の罰を与えられた。だが、それを異常と認識する人間は殆ど、この国には居ない。それが、敦賀にとっては恐ろしかった。


「……吐き気がしたね。一度だけ、私と同い年ぐらいかな……十年前にストーカー行為を犯した人間がいたんだ」

「……それは、」

「ああ……許されることではない。けど、それでも……どうしても私には彼が死に値するとは思えなかったんだ。彼は確かに反省していた。己の行為を悔いていた。なのに、」


 その男は、被害者のたった一言で処刑された。


「……根拠も何もない。ただ、被害者の女性が『死に値する』。そう言っただけで彼は処刑されたんだ」


 実際にどういう状況だったのかは敦賀には分からない。もしかしたら本当にその男は女性にトラウマを植えつけるほどの、何かをしたのかもしれない。


「……けど、あの顔を見たとき、私にはどうしても彼が『死んでも良い』ようには見えなかった」

「……」


 今でも敦賀は鮮明に思いだせた。憔悴しきったあの顔、潤んだ瞳。被害者へと深く垂れた頭。可笑しなことに、其処には彼の『誠実さ』が見えた気がした。


「たとえ、それが俺の目の錯覚だったのだとしても……俺には、受け入れられなかった」


 だから敦賀は逃げ出した。日本を出、外国を転々とし、母国を見つめなおした。


「たくさんのものを見た。たくさんの人と出会った。そして知った。日本という国の『異常さ』を」

「……」


 近年、『クリミナルスワイプ』というシステムが生まれたことから世界は日本と同様の『精神主義』を掲げるようになった。アメリカ、フランス、ギリシャ、多くの諸国が日本の在り方に意を唱えるようなことはない。公に認め、そういうものなのだろうと受け入れる国もあれば、その犯罪率の少なさから称賛を贈る者もいる。


 最も安全で正当な国――それが《日本》。


 だが、そんな国に対して、その異質さを認められない人間もいた。そう、例えば敦賀たちが在住しているベトナムやタイ、それからアメリカの一部の州も日本の絶対処刑法に対しては不合理性を感じていた。「幼子にまで法を適用させるなど」と。


 数々の国には確かに死刑廃止団体が腐るほど存在するのだ。

 だが、その矛先が日本に向くことはなかった。何故なら日本は今や『絶対的な力』を有しているからだ。刃向う者は全て真っ向から叩き潰し、屈服させる。それは政治的な力として働くこともあれば、物理的な『正義』として動くこともある。


「……残念ながら今の日本を変えるのは不可能だ。幾ら活動を行っても、日本人は耳を貸さないし、むしろ我々を『ブラッド』として蔑む。

 金城くんは『アムネスティ・インターナショナル』という組織を知っているかい?」

「……ネットで廃止団体について検索した時、最初に出てきました」

「……そう。あれはね、昔は大きな組織だったんだよ。国際的な影響力を持った、死刑廃止の呼びかけもする大きな人権救済機構だった。でも、この国の前ではそれさえも通用しなかった……」


 国際連合との協議資格をもつ、国際的影響力の大きい非政府組織(NGO)である国際人権救援機構アムネスティ・インターナショナルもまた、日本の前では無力だった。日本の絶対処刑法が『絶対的な常識』として受け入られているため、幾ら支援活動をしても国民は誰一人振り向かなかったのだ。


「……匙を投げたと言えばいいのか……日本のその価値観の前では、彼らでさえもどうすることもできなかった」

「……」

「日本にも支部はあるけど、それも名ばかりだ。あそこに人など殆ど居ない……」


 公益社団法人、アムネスティ・インターナショナル日本支部は、世界中のさまざまな場所で起こっている人権侵害の存在を国内に広く伝えるとともに、日本における人権の状況について普及啓発を行っている公益法人だった。そう、はずなのだ。


「……うちの父が言ってたよ、あの人もブラッドでね。どうして、そうなったのかも。いつ、そうなってしまったのかも分からない。いつの間にか世界、否、日本の常識は変わっちまったって……」

「……」

「……日本の異常さには他国も薄々気づいている。でも所詮は他人事だからね。放っておいているんだよ。そんな国なんだって……」


 嘲りのような笑いが敦賀の唇から漏れた。その表情はどこか悲しげだ。


「……どこの国にも死刑は法として認められているからね……日本は『ちょっと厳しいだけ』。心ではそう思ってないくせに、皆そう言う……それが外から見た『日本』だ。どこか『異常』だと分かっているからこそ、手を出せない国」

「……」

「安全な国であることには間違いないんだけどね。普通に観光地としても外国では大人気だし」

「……そ、ですね」

「……金城くん。私から見たら君は間違いなく――『ブラッド』と認識されるタイプだ。此処はいずれ君にとって生きにくい場所となるかもしれない。それに、今回の事件で……君は間違いなく指名手配されるだろう」


 ギリ。金城の拳が鳴った。それに気づかぬふりをして敦賀は続ける。


「……悪いことは言わない。私たちと一緒に来なさい。此処から連れ出すのに一人も二人も変わらない。大丈夫。一応、空港の内部には数少ない協力者が居るからね。捕まるリスクは少ないと言ってもいい」 

「……俺は」


 金城はゆっくりと目を瞑った。

 脳裏で母や伊奈瀬、そして爽太たちの顔が過る。トクントクン。鼓動を鳴らす心臓へと服越しに触れた。


 ――答えは既に決まっている。


「此処に残ります」

「……」


 まさかの返答に、敦賀は瞠目した。


「……大丈夫です。ずっと仮面で顔は隠してたので俺だとバレてはいないし、色々と足がつかないように頑張りましたから」

「金城くん……」

「ここは確かに、俺にとって住みにくい場所になるかもしれません。それでも、此処には家族や守りたい人がいる。だから、俺は此処に残ります」


 はあ。大きな溜息が室内に響いた。


「……なぜだろうな。君ならそう言う気がしていた」

「……」


 今度は金城が苦笑した。敦賀は確認するように再度、問う。


「本当に、良いんだね?」

「はい。どうか、草地のこと……よろしくお願いします」

「……わかった」


 頭を下げる金城。その願いを敦賀は静かに受け取った。

 すると、敦賀を誰かの呼ぶ声が室内へと届く。


「敦賀さーん! 見えてきましたよー!」

「おう! もうそんな時間か……よし分かった!」


 胡坐をかいていた足を解き、立ち上がる敦賀。そんな彼を視線で追っていると不意に目が合って、金城は驚く。


「では、降りる時間だ金城くん。君を東京湾まで連れていくことは出来ないからね。矢向近くの船着場に下ろす」


 矢向駅は渋谷からそう遠くない。四十分程で金城も自宅に辿りつけるだろう。


「あと、これ。君の服だ。悪いが、勝手に着替えさせたよ。あのままじゃ、風邪をひいていたからね」

「……あ、ありがとうございます」


 言われてみれば金城は黒のパーカーを着ておらず、白いシャツにジーンズという格好をしていた。手渡された紙袋の中を見ると、丁寧に畳まれた服があった。


「すみません、何から何まで……」

「いや、構わないさ。さあ……行こう」


 金城は背を押されて、ゆっくりと室内から出た。船はさほど大きくはないが、清潔感があってキレイな内装をしていた。

 部屋から出て廊下を右に曲がる。出口がすぐそこに見えて、カーペット張りの床を一直線に歩いた。ガチャリ。扉の隙間から外の日差しが漏れ、開けると太陽が燦々と金城を照らしつけた。いきなりの眩しさに目が眩み、手を額へと翳す。


 目の前にはデッキが広がっている。外を見渡すと其処は見たことのない街中だった。遠くにはビルや住宅街が見える。船は既に船着場に止まっていて、コンクリートの橋へとデッキから降りられるようになっていた。


 早朝なのか、夏なのに肌寒い。気のせいか霧が立っているように見えた。

 船着場の橋には男が一人立っており、こちらに向かって手を振っている。


「今はまだ朝の四時ぐらいだからね。人はいない」

「……」

「あそこで手を振っているのはうちの団員。此処に残るそうだから、駅までの道案内は彼にしてもらうといい……大丈夫かい?」

「あ、はい」「――金城」


 敦賀の心配気な問いに頷こうとすると、突然うしろから声をかけられた。金城は聞き覚えのあるその声に振り向く。


「草地……」


 白い囚人服を脱ぎ、紺色のTシャツと黒の半ズボンを履いた草地の姿が其処にあった。右腕は新しく包帯で巻かれて、きれいにギブスもつけられている。船員の誰かがやってくれたのだろう。

 草地の背後からもう一人女性が扉の奥から出てくる。薄茶の髪に翡翠の瞳は日本人には見えない、西洋の人だろう。彼女もFaithの一員らしい。話を聞くと、どうやら彼女が奥で眠っていた草地を連れてきてくれたようだった。


「ワカれのアイサツはダイジかと思って……今のジカンタイならだれも居ないし、良いでしょう?」


 訛りはあるが、彼女の言おうとしていることはなんとなく理解できた。気を利かせてくれたその態度を通して、彼女の優しさが垣間見える。首を傾げた彼女に敦賀も頷いた。どうやら彼も賛成のようだ。


「……行くのか」


 真っ直ぐにこちらを見つめる草地に金城はそっと目を伏せた。


「……ああ、俺は此処に残るよ。お前とはここでお別れだ」

「……そうか、あの玖叉って男には気をつけろよ」

「大丈夫だって、暗かったし、たぶん顔はハッキリ見られてないと思うから……」


 僅かな沈黙が二人の間に落ちる。緩やかに流れる水の音が空気を震わせた。

 他に何を言えばいいのか分からず、草地は困ったような顔で視線を泳がした。すると。


 ――

 濡れた音が耳元まで響いて、再び視線を金城へと戻した。


「おまえ……ブサイクだな、」

「うるぜえ!」


 醜いとしか形容しようのない顔がそこにあった。唇は堅く閉ざすように咥内へと吸い込まれ、鼻下がゴリラのように伸びている。眼球はこれでもかというぐらいに飛び出ており、血走っていた。錯覚か、瞳が微かに潤んでいる。鼻穴もピクピクと、これまたビー玉が入れるような大きさへと膨らんでおり、それは余計に金城の醜怪さに拍車をかけていた。


 金城は、泣きそうになっていた。


 この気持ちをなんと筆舌すればいいのか。

 そう……それはまるで友達が遠くへ引っ越してしまうようなそんな寂しさだ。だけど、金城たちの場合は違う。ここで草地が日本を出るということは、二度とには戻れないということだ。もしかしたら、二度と会えないかもしれない。その事実が、不覚にも、そして悔しいことに金城の涙腺を緩ませたのだ。

 そんな奴を見て、草地は「しょうがない奴」とでも言うかのように長嘆息した。そしてふと、大事なことを思い出す。


「……金城」

「なんだ?」

「伊奈瀬たちのこと、頼んだぞ」

「……」


『――わたし……草地くんのことが好きなんだ』


 にょきり。金城の胸の中で、新たな不穏な感情が芽生えだした。潤んだ瞳が僅かに大きく見開く。金城は鼻水を啜り、目元を擦った。

 そうしてしばらくすると、落ち着きを取りもどした金城は、次いで莞爾として笑う。気のせいかその目は虚ろだ。


「いやだね」

「……は?」

「誰がんなことするかよ」

「……なに?」

「だいたい頼むって意味わかんねーし。何を頼むんだよ」

「いや。お前、伊奈瀬のことす……」「どっかの糞野郎のせいで振られちまったんだよ!!」「っは!?」 


 思わぬ怒号に草地は驚いた。金城は地団駄を踏みながらも喚き続ける。怒った猿のように鼻息を荒くする奴に、草地は確認した。


「……まじで?」

「おお、そうだよ! 振られたよ! ブロークンハートだよ! デザスターだよ畜生!」

「デザスターな……」

「うるせえよ! だからお前は一言余計なんだよォ! 発音なんてどうでもいいだろォ!?」


 呆れた視線を寄越す草地に、金城は更なる苛立ちを覚えた。


(――ちっくしょうぅぅ! 何が「まじで?」、だよ! お前のせいだよ馬鹿野郎!)


「やっぱお前死ね! 死んで暴発ぼうはつしろ! この糞リア充!! 俺の涙返せえぇぇぇ!」

「はあ? いつ俺のリアルが充実したんだよ? ……ってか、お前」

「うるせえ! お前なんかバナナの皮で擦りむいて頭を打てばいいんだぁぁ!」


 うわぁん、と滲み出した涙を拭いながら船から橋へと飛び降りる金城。その惨めな後ろ姿を見て草地は思った。


 ――バナナって、なんだよ……。


 草地の後ろでは敦賀が呆気にとられたような顔で立っていた。どうやら金城の奇行に少なからず驚いたようだ。一体、彼はいきなりどうしたというのだろう。敦賀は突然急変した金城の様子を呆然と見つめた。


「……金城くん」

「カワイイボウヤですね。私、ニホンゴでこれをなんと呼ぶのかシッてます。『負け犬の遠吠え』っていうんですよね?」

「……ナンシー。それはどこで覚えたんだい?」


 ある意味、的確な言葉をくれた女性――ナンシーに敦賀は冷汗を垂らした。一体だれがそんな表現を彼女に教えたのだろうか。


「そんなことよりツルガさん。時間です」

「あ、ああ……」


 その言葉を合図に白船がゆっくりと動き出す。


 船着場で待っている案内人の元まで走り去ろうとした金城は、聞こえたエンジン音に反応して、振り返った。

 見れば船は既に川の流れに沿って東京湾の方面へと動き出している。金城は慌てて、橋の先まで戻った。草地たちが乗っている船との距離は約二メートル程。


「くさっ……ともえ!」


 苗字で呼ぼうとしたが、今の時期はニュースのせいで『草地』という名は目立つ。金城は慌てて草地の名前を言い直した。この呼び方を使ったのは初めてで、どこか照れくさい。船の中へと戻ろうとしていた草地は、その呼び名に多少驚きながらも振り返った。


「受け取れ!」


 ポーン。何かが大きな弧を描いて草地へと投げられる。それは船のデッキまで届きそうになく、草地は慌てて目の前の柵から乗り出し、片手でソレをキャッチした。片腕が使えないため、少し危なげな動作ではあったが、なんとか船から落ちることは避けられた。そのことに草地はホッとしながらも、左手に収まる物を見た。それは手に収まらないぐらい大きく、ツルツルとした表面をしていた。


「これは……」


 眠たげな眼。仄かに赤く染まった高い鼻。真黒な髪は可笑しなことに二つに分かれていて角のように見えた。不敵な笑みを携える口の下で長い顎が伸びている。


「オヤ、ビ……」


 それは金城が被っていたお面だった。

 草地は心の底から思った。


 ――いらねぇ……。


 気のせいか草地の鋭い眼は半目になっており、目元には隈が見える。口が僅かにひきつっていた。


「餞別! 大事にしろよ!」

「いらねぇよ!? なんだよコレ!? 証拠隠滅のつもりか!?」


 草地は柄にもなく叫んだ。

 だがそんな彼の様子など意に介さず、金城は続ける。後ろでは案内人がオロオロと狼狽えていた。叫び声を耳にした敦賀が、船内からデッキへと転がり出る。


「ちょっとっ……二人とも! 声がおおきい……!」


 住民に見つかったらどうするんだと彼は焦った。金城たちはともかく、草地が見つかったらまずい。敦賀は急いで草地の背中を船中へと押しいれようとした。それを見て金城は焦燥し、更に声を荒げる。


「じゃあ、返しに来い!」

「はぁ!?」


 尚も続けられる二人の攻防に敦賀たちは頭を抱えだした。


(――頼むからこれ以上騒ぎを起こさないでくれ!)


 それは切実な願いだった。だが金城はそんな彼らの内情も露知らず、疾呼する。涙は再び込み上げ、吐息が自然と震えた。


「いつか『此処』にそれを返しに戻って来い!」


 繋がれた言葉に草地の足が止まった。


「……お前、」

「今はまだ帰れないかもしれない! けど、必ずまた『日常』に戻れる!」

「……かなぎ、」


 それは他人からしたら要領を得ない言葉だった。けど、草地には分かった。『帰る』『日常』――それらが意味するのは、


「俺が……!」


 途切れそうな息で、高音を上げる喉を抑えて金城は叫ぶ。だけどついに咳き込んでしまい、ケホケホと口を覆いながら俯いた。一旦目を瞑って、呼吸を整える。ポタリ、滴が金城の足元へと零れ落ちた。


 すう、と息を吸いなおして唾を飲み込む。

 そうして、再び上げられた顔には、純粋に輝く琥珀色の瞳子があった。


 ――次の瞬間、空気が震えた。


「俺が、この国を変える!!」


 何処までも何処までも轟く声。それは一瞬の時を止めた。

 静寂が辺りを支配する。敦賀もナンシーも案内人も、皆が皆、言葉を失った。

 その中で、一人、草地はほくそ笑んだ。


「……ああいう無茶だけは、もう、すんなよ」


 金城の口角が上がる。


「善処する……!」


 ふはっ。草地の口から息が零れた。


「じゃあ、またな」

「またな! 糞地くそぢ!」


 最後に交わしたのは悪態の言葉。だが、それもまた金城らしいものだった。


「最後が糞って……うるせーよバ金城」


 ゆっくりと、確実に船が金城から遠ざかっていく。気が付けば百メートル程の距離が奴との間に出来ていた。

 草地の視界の中心で、金城の影が徐々に小さくなってゆく。


「草地くん……今の騒ぎで人が出始めてきているから、そろそろ」

「はい……今、行きます」


 ポタリ。少年の左手に握られた仮面にもまた、金城のものと同じ滴が零れ落ちた――。




◆  ◆


「金城くん……気持ちはわかるけど、ああいうことはもうしないでね」

「……はい。すいませんでした」


 矢向船着場。灰色のレンガが敷き詰められた広場で、金城は肩を縮こまらせていた。

 やはり先程の声は大きすぎたようで、ちらほらと、いつの間にか疎らに現れ始めた人がこちらを怪訝そうに観察している。とりあえず草地の姿は見られなかったので、大丈夫だろうが……。


「……これで警察に尻尾を掴まれたら大変なんだからね」

「……はい。以後、自重します」


 先程の子猿のような姿とは違い、今の金城はまるで借りてきた猫のようだ。

 はあ。案内人の男が静かに嘆息を落とすと、金城は居心地が悪そうに身動ぎをした。それを見て「もう良いか」と男は思いなおし、金城の肩をポンと叩く。


「そろそろ行こう。始発の電車は動いているはずだから」

「……はい」


 じゃり。レンガの小石を踏みしめて男が歩き出す。それに続いて、金城も踏み出した。

 ちらり。一度だけ川を振り向く。灰色の景色の中、何処までも深い蒼が一直線に続いていた。それは美しく見えると同時に、どこか寂しげに思えた――。



◆  ◆


 二一〇五年、『日本』――世界で最も安全で、最も厳しい国。

 人が法を守り、法こそが秩序を守る。

 正義を絶対とするそれは、世界の中でも逸脱とした、へと化していた――。





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