9.玖叉充という男(前)

 金城たちが立ち去った後――広場には、異様な光景が広がっていた。


 ズブリ。グリュ。そんな悍ましい音が、響いた。

 広場に残された男――玖叉は、体に埋まった鉄を次々と引き抜いていた。その動作に感慨はなく、確実に異物を取り除くさまは機械的に見えた。一つ一つ、鉄の欠片が体から抜けるたび、真っ赤な穴が、黒いライダースーツ越しに覗く。

 それは見れば見るほど酸鼻さんびの極みだった。男の体は小さな穴だらけで、まるで蜂の巣のようだ。だが男はそれを気にした様子を見せることなく、慣れたように衣服の下――胸元を飾る白い十字架のペンダントに触れた。カチリ。中心を飾るボタンを押すと、その裏から小さな針が飛び出て男を突き刺す。瞬間、傷口が見る見るうちに


 ――再生の能力ワイズ


 どうやら草地の勘は当たっていたらしい。

 数秒後には玖叉の傷は全て消え、残ったのは穴だらけのライダースーツだけだった。ペンダントは、男の《機械マシン》だ。

 篠田の無骨なチョーカーと反して、その首飾りは繊細な作りをしていた。銀細工だろうか――白みのあるそれは、見事に天井の明かりをキラキラと反射して輝いていた。その煌めきは、雄々しい玖叉にはとても不似合に思えるものだった。


「……まさか、使うことになるとはな」


 ふっと、玖叉は嘲り混じりの笑いを漏らす。


 玖叉くざみつるという男の特徴は、その強靭的な身体にあった。

 どんな頑丈な壁を殴っても砕けることのない拳。鉄パイプで殴られようが折れることのない腕。そして、機械マシンが無くとも、大体の怪我は自力で治してしまう活発な細胞。

 男は根っからの『化け物』だった。超人的な特性をもった、普通の人間の枠から、逸脱していたのだ。

 だが、勘違いしてはいけない。


 玖叉充もまた、昔は、普通の子供だった――。



◆  ◆


 二〇八六年、春。少年――みつるは六歳だった。


 両親が離婚し、寂れた研究者の父親に引き取られて彼は英国に住んでいた。

 彼が居たのは《ピータバラ》。英国の東部地方にある主教座聖堂都市、その周辺に位置する村落だ。その都市には名だたる大聖堂があり、村落に美しい緑が多いことで有名だった。充の家もまた、緑で囲まれており、近くには大きな森があって、彼はよく其処で遊んでいた。


 だが、充は寂しい子供だった。

 父親によって外界から遠ざけられていたこともあって、友達を作ることはおろか、父以外の人間を知る機会がなかったのだ。知っている人間がいるとすれば、偶に心配して様子を見に来てくれる近所の老母だけ。


 そんな充は、父とあまり似ていなかった。銀色に染める以前の髪は、当時涅色で、彼は淡い琥珀色の瞳をしていた。対して父親は錆色の髪に新緑の瞳――父親は英国人だった。そんな父と、純粋な日本人である母の間に生まれた充は、日本人寄りのどこか浮世離れた容姿をしていた。だが、反して中身は中々芯の強い性格で、活発な子供でもあった。そんな息子を父は愛し慈しみ、『箱庭』という名の森と邸の中で、彼を育てたのだ。

 そうして、六歳の誕生日。父親は祝いと称し、充を森へと連れ出した。

 父親は寂れた研究者だったけれども、その昔はそれなりに名の知れた学者だった。その証拠に自宅には研究設備が綺麗に整っており、家を囲む大きな森も所有していた。


 父親――いや、ここは《男》と呼ぼう――男は、狩りが好きだった。


 近年、英国では火器免許を十六から会得することが許されていた。散弾銃などの狩猟文化を保護するための武器であれば、自由に使用することが出来たのだ。

 男が持っていたのは『モスバーグMN500』――低威力の空気銃に近いものだった。だが、それでもそれなりの威力はあり、小さな鳥類の命なら簡単に奪えるほどの殺傷力を有していた。

 男は充に狩りの仕方を教えた。百メートル先の枝に止まる鳥に照準を合わせ、構え撃つ。轟音と共に幾多ものの羽が宙に飛び散った。

 男は充に問いかけた。


 ――わかったか?


 なにが、とは疑問に思ったが充はとりあえず素直にこくり、と頷いた。そんな彼を、男は朗らかに笑って頭を撫でてやった。


 ――じゃあ、悪いけど。あそこまで行ってきてくれるかい?


 その言葉に充はもう一度こくりと頷いて、鳥の元へと茂みを搔き分けながら走っていった。そうして、地面に横たわる血だらけの体を見つけてそれを掬い上げようとした。

 その瞬間、足を撃たれた。


 突然受けた衝撃に充の膝はがくりと崩れ落ちた。一瞬の間を置いて、ズキズキと痛みだす脹脛に、尻餅をついた充は目を向けた。

 黄金色に光る鉄が肉に埋まっているのが分かった。その光景を視界に収めた瞬間、痛みが急激に増し、充は泣き叫んだ。疼痛を吐き出すかのように喉が枯れるまで声を上げる。

 そんな彼を絆すように父親は近寄って涙をぬぐってやった。


 ――ああ、痛かったね。だめだよ、次は避けないと……ちゃんと逃げなさい。


 優しく笑うその顔はどこか異質だった。

 その表情に、充は得体のしれない恐怖を覚えたが、家に帰って甲斐甲斐しく治療してくれる父を見て、気にしないことにした。

 

 ――大丈夫だ、父さんは相変わらず優しい。


 けど、その思いは直ぐに撃ち砕かれた。


 父親は本当に狩りが好きだった。逃げ惑う『獲物』と言う名の息子に嗜虐心をそそられたのか、翌日、再び楽しげに火器を構えた。

 皺の目立ち始めた顔にはいつだって笑みが貼り付いていた。三日月に歪む頬と目は充の恐怖心を煽り、震える足を叱咤する。


 ――走れ、走って走って、逃げ惑え。


 は毎日のように、定期的に続いた。午後の三時から五時まで、充はずっと森の中を走らされていた。

 涙を耐えて、荒い呼吸を零しながら必死に駆けずり回る。なぜ、と思いながら毎日毎日、日が落ちるのを待った。

 充は何度も誰かに助けを求めることを考えた。学校、或いはいつも様子を見に来てくれる老母に、服の下に隠れる己の傷を曝して、真実を語ろうとも思った。けど、出来なかった。

 老母のしわくちゃな、暖かな笑みを見て、踏みとどまったのだ。この人を巻き込みたくないと、そう思った。きっと巻き込んでしまったら――この人は父に殺される。

 根拠はない、だが直感的に、子供ながらに彼は確信していた。

 そしてそれは、正解だった。

 なぜなら、男はずっと息子を監視していたのだから。


 充は毎日走った。命からがらに弾丸を避け、茂みの中へと隠れた。来る日も来る日も、毎晩毎晩、彼はベッドの中で涙を零しながら願った。

 どうか、父が元の優しい父に戻りますように。

 だけど、そんな願いが通じることはなく、男は更に強い殺傷力を持った――『MN510』の銃を狩りにもちい始めた。


 そんな日々が続き、充はとうとう捕まってしまった。背中から脇腹を撃たれてついに倒れこむ。瀕死の状態だった。父親はそんな充を抱き上げて家へと連れ帰り、治療を施す。


 流石に限界だった。極限まで削れられた精神と肉体。充の容態は悪化していくばかりで、男は焦った。せっかく得た嗜好の獲物がこのままでは死んでしまう。ただでさえ、ずっと狩りが出来ず、《禁断症状》が出始めているというのに、『これ』が死んでしまえば、自分も狂って死んでしまう。


 男は本当に「狂っていた」。常識的な感覚は麻痺し、見当違いなことを心配する頭は精神病質の気を見せていた。

 そして、男は思いついた。


 ――そうだ、壊れても簡単に治る体を作れば良い。


 名案だとばかりに、息子が横たわるベッドの傍で笑う男は『研究者の目』をしていた。


 男は以前、他の仲間と共にある研究を進めていた。《アホロートル酸素》に関する研究だった。

 《アホロートル》――日本での一般名を『ウーパールーパー』。

 三億年ほど進化がなく、食用で乱獲されたり、開発で生息域が狭まるなどして、絶滅が危惧されていた両生類だ。

 通常は灰色の体をしているそれは、トカゲのように手足を切断されても再生でき、心臓さえも再生する。その再生速度は速く、手足を切断されても十週で元の状態に戻る程のものだった。


 ある日のことだった。この動物界で最も稀有な再生能力は、『amblox』というアホロートル固有の酵素によるものだと、男を含む研究者たちは突き止めたのだ。そして試しに、この酵素を人間の皮膚細胞に投与したところ、細胞が活性化され、傷が異常な速さで回復する事が判明した。


 では、この酵素を人工的に作り出すことによって、人間の手足等も回復できるのではないか?


 男たちは目を輝かせた。

 生物には多かれ少なかれ再生能力が備わっているが、《アホロートル》は、四肢が切断されても血管がすぐに再生され、出血が止まる。皮膚の細胞が傷を速やかに塞ぎ、芽体を形成するのだ。それは、正に多能性細胞(ES細胞)――全ての細胞に分化する能力のある細胞だった。


 男たちは《実験》を繰り返した。

 酸素を一人の人間に投与し、体を切り刻んでは再生させた。そうして、指や足などを切断して、体が再生するのを待った。

 だが、何も起きなかった。

 否、血は止まった。傷も見る見るうちに塞がっていった。だが、それだけだ。そう、「傷が塞がっただけ」なのだ。実験体だった妙齢の男の傷口は、膝から先が無くなったまま元に戻ることはなく、再生する肌によって塞がれた。

 男も、研究者たちもその事実に悲観した。どうやら、細胞は足の先まで再生できなかったらしい。彼らはその実験体に多大の被験体費と慰謝料を払って


 次の実験体に取り掛かる。子供だった。十四、五歳ぐらいのその少年はまだ若く、とても健康的な肉体をもっていた。少年は貧しいことから積まれた大金に目が眩み、研究に協力することを了承したのだ。


 男たちは手始めに少年の指を切った。うっすらと出来た血線はすぐに消えた。次は麻酔の打たれた足にのこぎりの刃を当てる。再生はすぐに始まった。細胞はボコボコトと泡のように動きながら新たな足を構築していった。


 実験は成功した。男たちは歓極まったように息を漏らした。

 やった、これで自分たちは人類に新たなる進化の道を指し示すことができる。皆がそう思った。あとはこれを立証して、国家医療機関に申請すれば自分たちは大きな名声を得られるのだ。

 男たちの胸は高鳴っていた。


 だが、数日後。少年が例の実験室で悲鳴をあげた。再生したはずの足が突然ボロリと崩れ落ちたのだ。落ちた肉は見るも無残に朽ち果て、異臭を放っているのが分かった。

 なぜだ、男たちは狼狽えた。

 実験は成功したはずだ、理論だって間違っていなかったはずだ。それなのに何故うまくいかない?


 答えは、簡単だった。「合わなかったから」だ。


 理論上、確かに酸素は人間に再生する力を与えることは出来る。その証拠に小さな怪我はすぐに回復させることが出来た。だがそれだけだ。大きな傷を癒すには大量の酸素が必要となる。だが、アホロートル酸素というものは本来、人には「合わない」ものだった。つまり、細胞が上手く適合しないのだ。


 酸素を与えても、あの妙齢の男性には相性の悪さゆえに細胞はあまり再生できず、足を構築させることができなかった。また、少年とは相性が良くとも、形を継続する力が無いために足は崩れ落ちた。


 それが現実だ。人には決して、身体を再生することはできない。


 けれど男たちは、その事実を受け入れることが出来なかった。

 何度も何度も様々な個体で実験を繰り返し、人間の細胞とアホロートル酸素が適合できる可能性を見つけようとした。だが、そんな兆候は一向に見えず、実験は国家によって強制的に終わらされた。


 その時には研究者たちも大分諦めがついていたようで、あっさりと実験を放棄することを承諾した。

 けど、男は違った。彼にはどうしてもそれを諦めることが出来なかったのだ。たとえ、同僚や家族に見放されることになっても彼は自分の夢を叶えたかった。


 『――人類に希望の兆しを、』


 それが彼の口癖だった。そんな彼を充は尊敬し、慕い、いつも傍に寄り添っていた。だが、彼の妻は違った。碌に仕事もせず、研究に明け暮れる男は正直、妻にとっては不気味でしょうがなく、迷惑でしかなかったのだ。

 国家の後ろ盾なしに続ける研究に費用はかなりかかり、研究は一向に終わる気配を見せなかった。家族を振り返らないその姿勢に妻はホトホト呆れかえり、離婚を決意した。

 彼女はまだ幼い充を連れて日本へと帰国しようとしたが、それを充はいやいやと拒み、父の足にしがみついた。一か月も続くと、その強情な姿勢に母は渋々諦めの意を示し、近所の老母に頼んだ。「息子を頼む」、と。


 そうして、彼女が日本へ旅立って数日。充の父親は狩りをはじめるようになった。初めは唯の気晴らしだった。研究室に篭もる毎日は男の神経を削るだけで、先の見えない研究は彼に苛立ちを与えるものでしかなくなっていたのだ。

 そして、そんな男に心配そうな表情を向ける充を見て、男は「これはいけない」と思い、何かストレスを発散できないかと考えた。

 男はふと、昔、友達と火器免許を取っていたことを思いだした。免許を会得してから一度も使ったことはないが、試してみるかと森で一人、狩猟を始めた。


 結果、意外なことにはまった。銃を撃ったときの衝撃には爽快感を感じ、弾丸一つ一つに自分の日々の鬱憤を込めることで、心の曇りが晴れていくような気がした。男は狩りを趣味とするようになっていた。


 だが、それは間違いだった。


 一度、鳥を撃ち落した男は味を占めてしまったのだ。そうして、異常な数の狩猟を行い、いつしか「狩る」という行為に快感を得始めていた。

 それは、まるで麻薬の様だった。獲物が逃げ惑うほど男は興奮し、気分を高揚させた。あの、獲物を狩った瞬間の男の喜悦はどう表したものか――。


 この時には既に、男は狂っていた。

 大切であったはずの息子も、いつしか完全な『獲物』として見るようになり男は着々と充を狩る用意を整えた。

 そして、その『獲物』を狩ってしまうとコレは丁度いいとばかりに、再びアホロートル酸素の実験を試みたのだ。

 これで、実験が成功すれば一石二鳥だと――。


 と言っても、結果には男は最初から期待していなかった。

 彼も薄々と気付き始めていたのだ。この研究はある意味、神の領域に踏み込む愚行であり、決して許されることではないのだと。だからこそ神は己を止めるように、実験を妨げているのだと、彼はそう思った。自分の理想が実現することはない。その事実から彼は唯、眼を背け続けていただけだった。


 ――男は息子に酸素を注射器で体に注入し、細胞を活性化させた。弾は幸い貫通していたので、何事もなく傷口は塞がっていった。

 三日経つと、充は起き上がれるようになり、また狩りに無理やり参加させられた。充は絶望した。また、あの地獄が続くのかと。それでもまたあの痛みを味わうのが嫌で、充は再び走り出した。

 父親は無情にも充を撃ち続けた。そうして怪我をするたびに酸素を投与して傷を癒す。急激に消えていく傷に初め充は驚いたが、世間知らずの彼はこんな物もあるのかと一人納得した……自分が実験体にされていることに気付かずに。


 実験と言ってもそれは、一見ただの治療の繰り返しに見えた。体に風穴を開けられるたびに酸素を注入し、穴を塞ぐ。ただ、それだけの繰り返し。男の実験を成功させるための意欲はいつの間にか消えていた。

 だが、その一定のループの中、充の再生スピードが徐々に速まっていることに男は気付いた。そこに、一つの疑問を抱いた。


 ――まさか、充の体内で《酸素》が生成され始めているのか……?


 それは、男が目指していたものだった。

 切断された体の一部を再生できずとも、人工的に酸素を生み出すことができれば、それだけで人間は進化できる。過去の研究者たちはそれに関しての研究も進めていた。だが、それについては解明すら出来ず、どうしたら人の身体が《アホロートル酸素》を生み出せるのか彼らには分からなかった。色んな無茶な実験を繰り返して、思いつくだけの方法と可能性を試したが、それが上手くいくことはなかった。だから、これは仕方がないと皆が早々に諦めたのだ。


 しかし、充のこの再生速度。それは一つの可能性を示唆していた。男はその事実を確かめるように行動を起こした。


 翌日。男は『M500』の散弾銃ではなく、元の殺傷力の低い『MN500』を引っ張りだした。そうして、湧き上がる期待感を抑えながら、充を何度か撃つ。結果、傷は放っておいても一日で見る見るうちに消えていった。


 ――まさか、本当に……!


 男は歓喜した。諦めていた一つの希望が彼を照らす。だが、それは決して『研究者』としての喜びではなかった。


 ――これで、俺は。


 自宅の居間。ソファに上に横たわる充の頭を撫でると、彼は壁に立てかけていた散弾銃に目を向けた。その顔には狂喜が見えた。

 どうやってそんな奇跡が起きたのかはわからない。酸素をずっと投与し続けた結果か、それが幹細胞になんらかの影響を及ぼしたのか。研究を進めれば恐らく偉大な発見が出来たろうに、男にそんな思考が走ることはなかった。ただ、この先の狩猟で頭がいっぱいだった。


 男は『永遠に狩れる獲物』を手に入れたことに感動で震えていた。


 それからは酷い毎日が続いた。今までとは比べものにならない程に、充は傷ついた。

 それまで僅かに残っていた《手加減》は男から見事に取り去られ、残ったのは狩りに対する純粋な楽しみ。怪我をするたびに投与された酸素は充の自己修復能力を日々伸ばしていく。

 そうして、どんどんエスカレートしていく狩りに男の理性のタガはついに外れ、


『――Da, d(父、さん)』


 二〇六六年、五月。男は見事な快楽殺人鬼へと変貌を遂げた。


 森の中。自宅から約400メートルほど離れた其処で、充は驚然としていた。

 自分を覆うふくよかな肉の塊。血濡れの胸は充を守るかのように彼の体を押しつぶしていた。しゃらりと、目の前で白い銀細工が揺れる。十字架のペンダントだ。

 視線を上へとあげれば歪んだ笑みを浮かべる父が立っていた。手にはもちろん黒光りする長い散弾銃。

 もう一度自分に覆い被さる体を見る。

 仄かな熱が残っている体はこと切れており、血で濡れているのが分かった。背中には風穴が空いていることだろう。 

 『それ』は老母だった。いつも充の様子を確かめに来てくれる優しいお婆さん。ポッコリと出たお腹で一生懸命歩く可愛い人。しわくちゃの手はいつだって慈しむように充の肌を撫で、涎が垂れそうな甘い甘いラズベリーパイを作ってくれた。


 その人が死んでしまった、否、殺されてしまった。


 充の視界が歪んだ。思考は回ることを放棄し、ただ呆然と目の前の男を見つめる。

 筆舌に尽くしがたい感情がうずきまわった。


 『――充!』


 悲鳴が聞こえた。視線を右へ向けると黒い制服を着た男が何人かこちらに向かってきている。その後ろには日本に居るはずの母が見えた気がした。


 ぐらり。充の視界が暗転した。



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