7.定まる

 玖叉から挑戦状の様なものを叩きつけられてから、数分、あるいは数秒。

 金城は未だ動けずにいた。


 前屈みの背中に、俯いた顔。少し長めの前髪からは、虚ろな瞳が覗いている。

 ――金城は、迷っていた。

 どうすれば良いのか分からなかった。行かなくてはならないのは分かっている。それでも、足を踏み出すことが出来ないのだ。

 胸の中で恐怖が渦巻き、足は微かに震えだしている。動けない。そうだ、足が竦んでいるのだ。

 こつり。考えるように、額に拳を当てた。


「どうすれば、いいんだよ」


 ――行きたい。草地を助けたい。

 ――でも怖い。あの化け物とやりあえる自信がない。


 二つの思いが、反発しあっていた。

 今ここで草地を助けに行かなければ、奴が確実に死んでしまうことは分かっていた。けれども助けられる自信がなかった。どんなに足掻いても、自分は所詮凡人だ。

 草地を助けられる確率なんて0.1%にも満たない。「それでも、助けに行く」なんて勇敢な思いを、金城は抱くことができないのだ。

 草地を助けたい思いよりも、自分が傷つきたくないと言う思いの方が勝っていることに気づいた金城は、歯を食い縛った。情けない、そう思った。

 まさか、こんな所で躓くなんて、なんて情けないのだ。あんまりだ。


 今度は悔しさが込み上げてきて目を瞑る。視界を遮って、金城は現実から目を背けようとした。その時――、

 カツン。ヒールだろうか。硬質な靴音が間近で響いた。

 金城はそれに答えるかのように、そっと目を開ける。まず目に入ったのは黒いパンプス。そこから伸びる、細く綺麗な形をした足首。そのまま視線を上げると白くしなやかな足が見え、太すぎず細すぎず、柔らかそうな曲線を描いた太ももが目に入った。キュッと引き締まった括れは美しさを強調しており、タイトな黒いスーツがよく映えた。

 だが、そんな物を視界に映しても、金城の中にある心の蟠りが消えることはない。

 いつになく、金城は無感動に顔を上げた。すると、そこには――、


「なえセン……」


 『なえセン』こと、土宮香苗が静かに彼を見下ろしていた。

 金城は無意識に彼女のことを渾名で呼んでしまったが、本人がそれに気づく気配はない。土宮香苗もまた、気にした様子を見せなかった。代わりに、琥珀色の瞳がゆらゆらと揺れながら金城を見つめていた。

 真っ赤なルージュをふんだんに塗った彼女の唇が何かを言いたそうに、パクパクと開く。視線は少し右左に泳ぎ、最後にまた金城へと戻る。強く描かれた眉が意を決したように釣りあがった。


「――忘れてしまいなさい」

「……は?」


 なんの脈絡もなく、紡がれた言葉に金城は眉を顰めた。彼女は一体、何を言っているのだろうか。

 スッと、白いハンカチを差し出されて金城は更に困惑した。


「辛いのなら、空っぽになるまで泣いて、そうして忘れてしまえばいい」

「忘れるって……」

「今日が草地くんの死刑執行日だということは、私も知っているわ。そのせいで、あなたの気が狂いそうになってることも、見れば分かる」


 なるほど。どうやら土宮香苗は金城の先ほどの行動を、友達を失うあまりの悲しみでとち狂って起こした衝動だと、推測したらしい。

 違う、と金城は否定したくなったが、話がややこしくなるのでやめた。

 それよりも、だ。今、彼女はなんと言ったのだろうか。金城はなにやら既視感デジャヴを覚えた。


「何を忘れるって言うんですか」

「……草地くんのことよ」


 思わず鼻で笑ってしまいそうになった。なんというか、『なえセン』は予想を裏切らない言葉をいつもくれる。そのお蔭で、収まっていたはずの怒りが、腹の底から湧き始めた。


 ――忘れられるわけがない。


 そう、忘れることなんて出来るわけがないのだ。金城の口から、乾いた笑いが零れた。

 金城理人は自分本位な男だ。誰かが傷つくことよりも、自分が傷つけられることを最も恐れる臆病者であり、――そして、自分の傍から誰かが居なくなることを、何よりも恐れている《馬鹿》である。


◆  


 金城は、今まで誰かに話したことはなかったが、一度だけ心に大きな傷を負ったことがあった。

 その傷はとても深いもので、長い間苦しめられたが、《立ち直れた》今、そのことについて口にするようなことは一切なかった。

 それは彼自身が「大したことではない」と思っているからであり、「自分の苦しみはそんな大したものではない」と思い込んでいるからである。


 ――小学校三年の夏。草地に出会う前、金城は父親を亡くしていた。



 よく、晴れた日のことだった。

 金城は仕事で忙しく、なかなか会えなかった父と共にどこかへと遊びに出かけていた。

 父は優しい人だった。金城とよく似た平凡な面差しにはいつもゆったりとした笑顔が飾られていて、彼特有の、穏やかな雰囲気を醸し出していた。

 歩道を歩く父親が、小さな金城の手を引いて、「歩道側はこっちね」と母より柔らかな声で注意を促す。

 「もう小学校三年生になるのに、親と手を繋ぐなんて」と、金城は恥ずかしく思わなくもなかったが、父が捨てられた子犬のように見つめるもので、諦めた。

 焼けたアスファルトの熱を靴越しに感じながら、トテトテと歩くスピードを合わせてくれる父の隣を、金城はどことなく楽しそうに並んで歩いていた。

 太陽が燦々と大地を照らすせいで、髪が汗でべったりと肌に張りついているのに、なぜか父と結んだ手は熱い、というよりは、暖かく感じられた。

 これが父親の手か、と金城は子供ながらに感慨深く思ったのを覚えている。ただ歩道を歩いていただけなのに、金城は不思議とこの時間が楽しく思えた。

 思わずふんふんと、下手くそな鼻歌を歌いながら軽やかにステップを踏む。

 父と一緒に歩く外はどこか新鮮で、キョロキョロと周りを見渡した。そして、ふと道路の向こう側、スーパーの前で風船を配るロボットが、目についた。

 いまどき見ないソレに、金城の気持ちが高揚した。

 わあ、なんて言いながら握っていた父の手を放して、そちらへと駆け寄る。汗で湿っていた手はスルリと簡単に抜けて、金城はそのまま横断歩道へと飛び出した。

 それが、いけなかった。


 ――理人りひと


 一瞬だった。黒い何かが迫ってきたかと思いきや、背中をドンと強く押された。その拍子に転んでしまった小さな体が、ゴロゴロとアスファルトの上ででんぐり返る。

 痛い、膝と肘を擦りむいて、金城は泣きそうになりながらも起き上がった。もう九歳になるのだ、そう簡単に涙を零せるかと、鼻水を垂らしながら顔を上げた。すると――《赤い何か》が、見えた。


 ――見るな!


 突然あげられた野太い声と共に、金城は視界を塞がれた。

 誰かの手が自分の目を覆い隠している。何が起きたのか分からず、幼い金城は狼狽えた。


 ――誰か救急車を呼べ! 早く!

 ――おいおい、事故か?

 ――うわぁ、グッロ。

 ――セーフティシステムは起動しなかったの?

 ――ありゃ、中古だな。壊れてたんだろうよ。相手も気の毒に、


 声が次から次へと聞こえてくる。

 なんだ、どういうことだ、何が起きているんだ、父はどうしたんだ。胸の中で不安が渦巻き、頭が疑問で埋め尽くされた。

 その後のことはよく覚えていない。ただ、沢山の人が集まってきて、大騒ぎになったのは覚えている。でもそれだけだ。

 事件のショックが大きすぎて、幼い金城にはその時の状況を理解することができなかった。けれど、これだけは理解していた。

 自分の、せいだ。

 あの時、手を離さなければ、道路を渡らなければ、父の隣で大人しくしていれば――そんなたらればが何十日も続いた。葬式でたくさん泣いて、悲しんで、押しつぶされそうな心ごと母に抱きしめられても、金城は自分を責めることをやめなかった。

 父の葬式が終わり、日常が戻っても、心は空っぽのままで、なんの感情も湧かない毎日がしばらく続いた。

 笑うことも、驚くことも、何かに感動することもない――そんな日々が、半年も続こうとした時だった。


 曇り空の下、さあぁと雨滴が降り続ける中、あの事故現場の前で金城は、一人の女性と出会った。


 いつものように父の事故現場で懺悔を繰り返していた金城は、虚ろな目でアスファルトに飾られた花をただ見つめていた。

 そんな時、濡れた頭上に、そっと傘が差された。

 俯いていた視界に突然影が現れ、驚いた金城は不意に顔を上げた。その視線の先には胸元まで伸びた黒髪に、白く整った顔立ちをした女性――否、少女が居た。

 綺麗な人だった。黒のセーラー服に陶器のような白い肌は一層際立ち、彼女の存在感をより強くしていた。けれど、それは決して派手でも華やかなものでもなく、控え目な美しさだった。

 だが、真っ直ぐにこちらを見つめる少女の瞳は少し吊り上がっており、金城は思わず身を竦ませた。

 少女の固く結ばれた赤い唇が、開く。


 ――いつまで、そこで立ち止まっているつもり?


 金城は一瞬呆けた。

 予想外の言葉だったからか、少女がどこか非現実めいた雰囲気を漂わせていたからか、その声はどこか幻聴のように聞こえた。


 ――もう何時間もここにいるようだけど。そんなことをしても、貴方のお父さんは戻ってこないわよ。


 そんなことは知っている。金城は心の中で、冷たく返した。

 自分自身、そんなことぐらい痛いほどに理解している。それでも此処に来ること以外、他にやることが何も思い浮かばないのだ。しょうがないだろう。


 ――苦しい?


 短い問いかけに、金城は息を飲んだ。図星だ。


 ――悲しい? 後悔してる?


 その通りだ。自分は悔やんでいる。過去の言動を。過ちを。

 口に出さずとも、金城の表情かおはありありと、その問いに答えていたらしい。少女が、続けて説教めいた言葉を、紡いだ。


 ――なら、進みなさい。後悔をしているのなら、同じこと繰り返さないように頑張りなさい。

 ――辛いのなら好きなだけば泣けばいい。泣いて、叫んで、吐き出せばいい。けど、立ち止まるのはもうやめなさい。あなたは其れを十分、したはずよ。


 なぜ、そんなことを今日会ったばかりの、赤の他人である彼女に言われなければならないのだろうか。失礼ながら金城は彼女を睨み上げた。


『――イライラするから』


 幼い金城は自分の耳を疑った。強い言葉をぶつけられたからか――その瞬間、今までふわふわと幻聴のように認識していた声が、初めて肉声として、金城の耳に届いた。

 今の言葉が空耳でなければ、今、この目の前の少女は、金城に対して暴言を吐いたことになる。

 恐る恐る、金城は確かめるように彼女の顔をもう一度見上げた。


『――ごめんなさい。悪いけどちょっとイラッとするのよ、今の貴方』


 はあ、と溜息にも似た吐息が、少女の唇から零れ落ちる。

 

『――あなたの気持ちを思うと、そうなるのは当然でしょう。後悔をするのは仕方がないわ。でも、長すぎ。それじゃあ……が、可哀そうだわ』


 まるで、父のことを知っているような口ぶりだった。父と知り合いなのか、気になった金城は問いかけようとしたが、その前に彼女が口を開く。


 確かに、金城の後悔は最もであり、あんな馬鹿なことさえしなければこんなことにはならなかった――と、少女は辛辣にもはっきりと、金城に告げた。

 それに対して金城は僅かながら、ぐさりと胸を刺されるような痛みを覚えたが、不思議と彼女の言葉から、耳を塞いで逃げようとは思わなかった。

 彼女は言った。

 それでも事件はもう起きてしまったし、父も自分を庇って死んだ。代わりに自分が生きている今こそが現実であり、それを変えることなんて出来やしない。自分を救ってくれた父を誇れとは言わない、けれど、ウジウジと己の事で悩んでいる暇があるのなら、ちゃんと礼を言え。


 そんな言葉で、そんな感じに、金城のことを叱咤した少女は、やはり金城の父とは知り合いだったようで、言葉の端端に、父を思う気持ちが滲み出ていた。だからか、金城は大人しく、その言葉に耳を傾けた。


『――でも、その後悔は捨ててはいけない、抱き続けなさい。もう二度と、同じことを繰り返さないように』


 続いたのは、無茶苦茶な言葉だった。後悔し続けろ、なんて子供によく言えたものだと、金城は子供ながらに思った。けれどその言葉は不思議と、当時の金城をもう一度立ち上がらせる《力》を持っていた。


 そうして、謎の少女と邂逅した後――。

 胸に渦巻く不穏な気持ちをすぐに消すことは出来なかったが、金城はそれでも毎日を生きた。

 流れる時と家族の支え、そして新しく出会った友と過ごす毎日によって傷は段々と癒えていき、金城はいつのまにか――また笑えるようになっていた。

 そうやって、金城は日常を謳歌しながら、今日ここまで来れたのだ。


 ――だが、その日常の中で、どうやら彼は、大切な《後悔もの》を何処かに置き忘れてきてしまったらしい。



◆  ◆


「――は、ははっ……」


 いつのまにか時と共に忘れてしまった《後悔》が、記憶と一緒に蘇った。 

 忘れていた事実に気づいた今、金城は乾いた笑いを漏らすと、頭を後ろに大きく仰け反らせる。

 そして――、


「――金城くん!?」


 前方の座席へと振り下ろした頭から、ゴン、と鈍い打撃音が響いた。

 頭の中で、ぐわんぐわんとたらいが落ちたような音が木霊し、眩暈に襲われる。額がヒリヒリと痛んだ。

 だが、それをあえて無視しながら、金城は息を溢して、目の前の座席の背へと凭れかかる。


「あー……」


 忘れていた。忘れてはいけないものを、一つだけ忘れていた。

 金城は自分の愚かさにホトホト呆れた。そうだ、犯行を決意した当初も、こんな思いがあったからこそ、自分はココまで来たんじゃないか。


(……俺はもう後悔したくない。それこそ毎日、爽太くんや草地の顔を思いだして、見捨てたことへの罪悪感と、悲しみで押し潰されるなんて嫌だ。そんなことになったら絶対ぜってぇ死にたくなる。

 だから、それだけは駄目なんだ……俺は晴れ晴れとした毎日を生きてーし、伊奈瀬たちの可愛い笑顔だって見たい。こんな胸糞悪い気持ちなんて一掃したいんだよ。だから)


 ――草地を、助けに行かなければ。


 今、ここで草地を見捨てたら、金城は後で死にたくなる。

 結局、あの化け物と直接対峙する恐怖と、草地を見捨てる恐怖に、大した差はないのだ。なら、もう、草地を救出して元の日常へと帰る道を、選ぶしかないだろう。それが例えどんなリスクを携えているとしても、だ。


 金城は未だに手の中に収まっているスクリーンを、強く握った。そうして、自分の中に渦巻く全ての感情――恐怖と、向き合う。

 自然と瞼が下がり、眉間に皺が寄る。この先の事を想像すると、体はやはり震えた。


 そんな、どこか様子の可笑しい金城に、『なえセン』が声をかける。


「……ちょっと、金城くん? 大丈夫? だから、」

「んな簡単に忘れられるわけねーだろ」

「……え、」

「四年はあいつと一緒にいたんだぞ? 消せるわけねーだろ」

「……それは、」

「消えねーんだよ。思い出も、想いも、この感情も、全部」

「金城くん、」

「もし、が本当に全部消えてしまうのなら、残るのは――後悔だけだ」


 開いた金城の目には、まだ怯えが見えた。だが、迷いはない。黒い瞳は真っ直ぐに焦点を保ち、確かな輝きを放っている。その合わされた視線に、『なえセン』――土宮香苗は「何か」を感じ、思わずたじろいだ。《それ》が何かは分からない。けれど少年には間違いなく、一歩後ずさってしまうほどの「何か」があった。

 ゴクリ。知らずと、土宮香苗は生唾を飲んでいた。


「なえセン……」

「……なに、かしら」

「俺、ここで降りるんで失礼します」

「――へ……? っあ、あ、そう」


 いつの間に次の駅に着いたのか、バスは止まっていた。

 金城はスクリーンとリモコンをリュックサックにしまって、背中に担いだ。スタスタと土宮香苗の横を通りすぎて、自動ドアを潜り、バスから降りる。

 その姿を、土宮香苗は呆然と見送った。

 ――今のは、一体、なんだったのだろうか。



◆  ◆


「……感謝した方がいいのかな」


 バス停から街中を歩いて数分。

 金城は複雑な表情を浮かべていた。土宮香苗の発言は、金城の神経を逆なでるものではあったが、そのおかげで自身の内に潜んでいた、大事な気持ちに気付けたのだ。

 しばらく彼女のことを思考するが、すぐに面倒そうにガシガシと頭を掻いた。


「まあ、いいや……とりあえず先にあっちに向かって下準備を始めよう」


 ここから処刑場までの距離は、自動車で行けば約三十分。金城に残された時間は、一時間半。


「急ごう……」


 ――腹は括った。もう迷わない。




◆  ◆


 午後五時四十五分。

 江田処刑場。


 其処は東京の中で最も古く、小さな処刑場だった。

 灰色のコンクリートと非鉄金属材で組み立てられた建物は、とてもシンプルな外装をしており、どこもかしこも直角的な作りをしているせいで、屋根という形が無い。大きな長方形の函を三つ、繋ぎ合わせたような建物だった。

 そして、それを大きく四角形に囲む、天を突くような、背の高い鉄格子。その檻は、正に昔の《刑務所》を連想させた。

 殺伐とした空気を放つ鉄檻は、明るい街灯で照らされた東京都市には、とても不似合に見える。その証拠に、近辺に建つビルから人が寄り付く気配は全くと言っていいほど、無かった。

 処刑場は内装もとてもシンプルで、殺風景だ。無機質に見えることから此処で働く警備員たちも、そこを不気味に思っていた。


 入口付近の受付前、紺色の制服を着た一人の男が、隣のパイプ椅子に座る同僚に話しかけた。


「――そういえば、今日はどこも出てねーのか? 場内も殆ど見かけねーし」


 男は首を傾げた。いつもなら監視ロボットが建物の周囲を巡回するのだが、今日はその影さえも見当たらない。

 今日は処刑の執行日だというのに、警備がこんなに手薄で良いのだろうか。確かにマスコミを含めて、野次馬根性で処刑現場を観に来ようとする馬鹿な輩はいないが――。


「ああ、玖叉執行官が言ったんだよ。必要ないから、下がらせとけって」

「はあ? ……ああ、いや、でもまあ、そうか。こんな寂れた所にわざわざ来る奴はいねーし、あの少年が逃げ出せるはずもねーもんな」


 男は「まあ、確かに問題はないよな」と、納得したように頷いた。

 此処は、日本でもっとも小規模な処刑場だ。襲っても意味がないような場所なので、テロリストなどの類が狙う可能性は限りなくゼロに近い。それに見たところ、行動を起こしそうなテロリストはいないようだと、警察庁の上部が言っていたのを思い出す。

 暇だな、と廊下を歩く警備ロボットをなにげなく眺めながら、男は受付のカウンターに腰掛けた。

 「それにしても」と隣の同僚が口を開く。


「――なんで此処なんだ? 他の場所でも良いだろ? 関西とか、あっちの方が広くて設備もしっかりしてるしさ。あの《悲劇の美少年》にはピッタリの場所だと思うぜ? マスコミだってもっと食いつくだろうよ」


 その言葉に、男は呆れたように息を吐いた。


「ばっか、そんな簡単に出来るわけねーだろ。死刑囚を処刑する場所は、ランクによって変わるってのはお前だって知ってんだろ? 関西はBランク以上の奴らのためだ。あの《美少年》はE。死刑囚の中では最低ランクだよ。どんなに若かろうが、世間に騒がれていようが、関係ねー」

「……けどよぉ」


 パイプ椅子に座る男が、口を尖らせた。

 それでも、あんな幼い少年を処刑するのだ、せめての手向けにもっと大きく立派な場所でしてやったらどうだと、男は意見をする。


「俺だって、そう思うよ。けど……――おい、あれ。なんだ?」


 しょうがない奴だな、と息を漏らしながら、同僚を絆そうとした瞬間。開きっぱなしだったエントランスの向こう側に――こちらへ向かって突進してくる一つの影が、男の目に、映った。



◆  ◆


 一方、その頃。

 江古田処刑場内――中央広場、死刑執行室。


 広すぎず狭すぎず、円形に広がる空間の、その中心に、死行隊と草地の四人は立っていた。

 コンクリートで出来た床は、染み一つ残さず綺麗に掃除されており、建物の外装や外の廊下と反して、真っ白に塗られた空間は神聖な空気で満ちていた。

 空間を囲うように建つ柱も、その神聖さに拍車をかけているのだろう。柱の頭に作られた窪みには小さな祭壇があり、そこには穏やかな顔をした仏像が、罪人を見下ろすように座している。

 処刑道具もなければ椅子も、ロボットさえもない。あるのは、無機質な壁と空間を囲むように建つ柱、そして外と繋がる窓だけ。窓は八つあり、かろうじて人が通れるような大きさをしていた。

 広場の入口から向かって正面に位置する窓は、外界――処刑場の裏と繋がっており、僅かな光が差し込んでいた。外が夕刻であることも相まって、多少暗くなりはじめていることが伺える。残りの窓は、一様に廊下に繋がっているだけなのだろう。硝子には、特に何も映っていなかった。


 そんな、空虚感を煽る室内の白い壁が、草地の不安を助長させていた。


 草地は懸念を抱いていた。この事件の犯人に対してだ。

 疑わしい気持ちは大いにあるが、薄々とその正体には気付いていた。否定したい、否定したいが、鹿を企てたのは、恐らく――。


「来ないねー、相手。尻尾巻いて逃げちゃったのかなー?」

「さあ、どうでしょうね……あと、十五分はありますし」

「来る」

「ほえ?」

「――あれは、来る。確実にな」


 煌々と目を光らせながら釘崎と篠田の会話に口を挟んだのは、玖叉だった。どこか遠くを見つめるその双眸の下で、口元は大きな弧を描き、鋭い八重歯を覗かせていた。

 その猛攻な笑みに、草地はぞくりと悪寒を感じ、眉を顰める。


(頼むから、来てくれるなよ……)


 浮かんだのは、切実な願いだった。

 誰であろうが、構わない。このまま来ないで、放っておいてほしい。

 草地は固く目を閉じた。もう、これ以上感情を振り回されるのはごめんだった。余計な期待をして突き落とされるのも、また誰かを失う気持ちを味わうのも、もうたくさんだ。心の内に吐き出される思いは、どれも本心であり、草地の最後の望みでもあった。

 助けてほしいと言う気持ちが、無いわけではない。けど、このまま死んで楽になりたいという気持ちもあった。そして何よりも、大切な友達を巻き込みたくないという切実な思いが、あったのだ。


 金城かなぎ理人りひとは、本当にしょうもない人間である。

 碌に勉強をしない馬鹿で、体育では草地によく負かされて吼える阿保で、己の欲望を気付かぬうちにダダ漏れさせる間抜けだ。本当にどうしようもない男だ。最後に会った時だって、そうだった。


(いや、あれは俺も悪いのか……)


 面会室での光景が脳裏を過って、草地は苦笑をする。

 「自分で言っておきながら、あんな傷ついた顔すんじゃねーよ」と、金城の顔を思い浮かべながら、吐き捨てたくなった。最後に目にした金城の顔は、なんとも言えない表情で目を潤ませ、鼻水を垂らし、唇を固く結んでいたが、感情の起伏に耐えられず、フルフルと震えていた。


 ――なんとも、ブサイクな顔だった。


 それを思い出した草地は、ついつい噴き出してしまいそうになった。

 まったく、本当にしょうもない男だと、息を吐く。


 草地は知っている。「お前なんか、一生そこで過ごせばいい!」なんて、あの時の言葉が、金城の本心ではないことを。

 草地は知っている。本当は、金城は苦しみ、草地のことを心配してくれていたことを。

 草地は知っている。金城理人が、誰よりも優しいことを。


 だからこそ草地は、奴に来てほしくないのだ。そんな奴だからこそ、傷ついてほしくないのだ。間抜けな金城の姿と共に、草地は一人の少女と幼い少年を思った。


(……悪いな金城。伊奈瀬のこと、)


 ――ピルルルルル。

 誰かの携帯端末、否、通信機が鳴った。釘崎のだ。

 無骨な指が、ブレザーの内ポケットから端末を取り出してモニターをタッチする。するとスクリーンが其処から浮かび上がって、ロボットの姿を映し出した。気のせいか、後ろが騒がしい。


「はい」

『釘崎執行官。こちらA3の巡回型警備ロボットインスペクターです』

「どうかしましたか?」

『侵入者が現れました』

「――!!」


 警備ロボット――インスペクター――からの通信に、処刑室に居た一同全員が己の耳を疑った。


「……それで、今どちらに?」

『車が走っております』

「……は?」


 インスペクターの不可解な言葉に、釘崎は呆けた。


『超小型の車が走っております。サイズ、形態、及び、そこから発せられる電波反応からして《ラジコン》かと推測されます』

「ラジコン……」

「犯人らしいね。玩具が好きなのかな」


 気が合いそうだと篠田はにこやかに話す。釘崎は難しい顔をして、通信を続けた。


「それで、どのような状況で」

『何か液体を撒かれています』

「液体……?」


 突然外から堂々と侵入してきた《ラジコン》は、その小さな体を利用して、処刑場の門を潜り抜けてきた。

 だが、《ラジコン》の背中に巻き付けられた八十リットル程の細長いボトルが、その小さな身体を覆い隠しており、実際に辺りを走り回っているが何なのか、ロボットたちは正確に判別できずにいた。

 そして、ボトルの蓋には何故かストローが刺さっており、そこからなにやら液体が零れている様子。

 《ラジコン》が走った線路には液体が見事に敷かれており、門の外から内部まで続いてしまっているようだ。なにやら液体で湿った糸も一緒に散らばっているらしい。そのお蔭で、《ラジコン》の痕跡あとを容易く追えるが、液体のせいで、滑らかな表面をしているロボットたちは、転んでしまって追いつけないでいた。

 生身の人間である他の人員も後を追おうとしたが、《ラジコン》の逃走スピードが速すぎて苦戦しているようだった。


『はい、他の者の手を借りて捕獲しようとしてはいるのですが、その撒かれた液体が邪魔で——床に敷かれた糸は今、《008号》と《010号》が回収しています』

「……何の液体かはわかりますか」

『今、鑑識結果が出ました。Jangalianブランド――『ファイアー油』です』

「あぶら、」


 ――まずい!

 瞬時に犯人の狙いに気付いた釘崎は、急いで指令を出した。


「《008号》と《010号》は直ちに外から続く糸を断ち切り、他のものは液体の撤去を行いなさい! なるべく入口に近いところをです、捕獲は後にしてください!」

『畏まりました。ただちに――』


 続くはずだったインスペクターの声が途切れた。否、突如彼らを襲ったによって、遮られたと言うべきか。


「どうした!?」


 焦った釘崎が問いかける。後ろでは玖叉がニヤニヤと、あの楽しそうな笑みを浮かべていた。


『申し訳ありません。どうやら、火を点かれてしまったようで』

「導火線になっていた油のお蔭で火の海ならぬ『塀』が出来ているわけですか……」


 ジリリリリリリと屋内に鳴り響くサイレンの音に、釘崎が顔を顰めた。

 篠田も迷惑そうな顔で耳を塞いでいるが、玖叉は素知らぬ様子でどっかりと構えていた。

 釘崎は再びインスペクターに問いかける。


「《008号》たちはどうしましたか?」

『申し訳ございません。間に合わず、火に巻き込まれてしまいました。直ちに消火活動を行います』

「わかりました。私もそちらに向かいます——」


 《ラジコン》が敷いた導火線はそれほど長くないはずだ。きっと浅辺のどこかで途切れているだろう。大惨事になる前になんとかしようと、釘崎は通信を切って玖叉たちへと振り返った。


「私は火の始末をしにいきます。篠田、貴女は私と一緒に。玖叉は此処に残ってください」

「えー!?」


 釘崎の言葉に篠田が不満の声を上げた。やだやだ、と子供のように腕を振りながら駄々をこねる。

 その様子に釘崎は嘆息を漏らした。


「なんでなんでなんでー!? 私も残りたいー!」

「君は、私一人でこの火の始末をしろというのですか」


 釘崎が再び開いた端末のフィルムスクリーンには、内部の惨状が見えた。

 なるほど、火の規模自体はそこまで大きくはないが、随分と長く続いている様子。おまけに油なだけあって、なかなか消えそうにない。

 釘崎の記憶が正しければ、インスペクターが口にした名前は、過去にその異常な引火性と可燃性から大事故を起こした《油》だった。どのように生産されたのか、どうやって販売前のテスティングを通ったのか、食用油であるはずのそれの引火点は異様に低く、とある家庭での調理中に、小さな火からあっという間に燃え上がったのだ。危険性故にすぐに販売中止となり、回収された商品だったはず。だが、やはり全てを回収するには無理があったようだ。一般的に出回っていた食用品は、今では凶器と化して釘崎たちの傍で猛威を振るっている。

 表で広がる火はまだ消火可能な範囲ではあるが、下手したら建物全体に火が回りそうだった。


「貴女もこれの厄介さは知っているでしょう。私一人では無理です。少なくとも人員はあと一人必要だ。そして篠田、君はまだペーペーの新人だ。この意味、わかりますよね? 」


 重い視線を合わせる釘崎に、篠田はグッと言葉を飲み込んだ。

 正論だ。篠田とて、これが最前の判断だと分かっている。それでも、このまま犯人に会える機会を失くすかもしれないと思うと、どうしても納得ができなかった。


「……玖叉、私が戻ってくるまで殺さないでね」

「さあ、相手が死ななければな」


 つまり、殺さない気はないということだ。

 篠田は頬をぷくり、とフグのように膨らませた。玖叉のことだ、恐らく犯人で遊ぶことしか考えていないのだろう。殴りだこの目立つその手が、獲物を狩るための爪を研いでいるように見えた。だが、そう見えただけで、唯の錯覚だ。玖叉の『武器』はその拳ではない。


「ちょいちょーっと、……ああ、もう! ちゃっちゃと行ってさっさと片付けますよ釘崎さん!」

「言われなくともそのつもりです。玖叉、恐らく我々が火の始末に気を取られている間に犯人は忍び込んでくるつもりでしょう。十分に気を付けてくださいね。

 あと、今回のは、警備ロボたちを遊び半分で勝手に下がらせた貴方の責任です。後で覚悟しておきなさい」

「わぁーってるよ」


 警備ロボットたちへの指令は、釘崎が目を離してる隙に出したはずのなのだが、バレていたかと、玖叉は小さく舌打ちをした。だが、まあ……これで、誰の邪魔も入らずに 「遊べる」。

 薄っすらと、玖叉はほくそ笑んだ。

 良からぬ思考を走らせながら、釘崎たちへとヒラヒラと手を振る玖叉。これは恐らく「邪魔だからさっさと行け」という意味なのだろう。

 何度めになるか分からない溜息を漏らしながら、釘崎は篠田と共に、白く無機質な自動ドアを潜って現場へと向かった。


「さあーて、あとどれぐらいで来やがるんだろうな、あのIdiot(馬鹿)は」

「……」


 ぎちり。傍観していた草地の拳が、鈍い音を立てる。


(……なに来てんだよ。馬鹿野郎)


 もうココまで来ると、本物の馬鹿としか言いようがない。法務省に喧嘩を売るなぞ、どこの阿呆だ。

 険しい顔のまま、草地は静かに祈った。どうか、違う人であってくれ、と。


 ――そうして、数分。

 ちくたくと壁に掛けられた針時計の音が響く中、玖叉は拳を閉じたり開いたりしながら、パキポキと片手で関節を鳴らした。ちら、と時計が指し示す時間を見る。

 時刻は、午後六時――時間だ。


「おい、ガキ」

「……」


 返事はない。草地は男を唯、睨み上げた。

 良い眼だ、と玖叉は笑みを浮かべる。


「首と心臓、それか頭。潰されるならどっちが良い?」

「……より、痛くない方を」


 その返答にくはっと、思わず笑いが零れた。


「どっちも変わんねーよ」

「……じゃあ、首か頭で」


 心臓だと胸をまず突く必要があり、一瞬で終わらなさそうだからと、冷静に草地は返した。だが、それは唯の強がりだ。実際には、心臓はバクバクと早鐘を打っていたし、背中にも汗がじんわりと滲んでいた。

 玖叉もそれに気づいている。だが、構いはしない。どうせ殺る時はいつだって一瞬だ。

 最後にグッパーと手を握って開いて、玖叉は手を伸ばした。


「じゃあ、頭だな」


 ゆっくりと無骨な指が、草地に触れる。

 草地は覚悟を決めたように、目を閉じた。だが、まだ思い残すことがあったのか、瞼が震え、耐えるように握った拳が、ぎちぎちと悲鳴を上げた。

 様々な人間の顔が、浮かんでは消えた。これが走馬灯という奴だろうか。

 脳裏に映るのは笑顔の祖母、喧しい教師に、どこか悲しそうな顔した少年、少女、そして――。

 

「――あ゛?」

「――え、」


 草地は、耳を疑った。

 

 爆発音と共に、激しく割れて、雨のように降り注ぐ硝子の音。一瞬で、全ての注意を奪う、そんな、けたたましい音だ。

 唖然とする草地。

 突然の衝撃音に反応が遅れた玖叉の手を、が掠める。


「っ……!」


 走った熱に、玖叉は反射的に手を引いて、一歩後ずさった。明らかに瞠目した様子のその顔を、ゆっくりと、今しがた割れた窓へと向ける。

 一拍反応が遅れた草地も追って、へと視線を向けた。


「……あ、」


 無意識に、声が零れた。

 割れた窓ガラス。其処をよじ登って室内へと侵入してくる男。背中には大きなリュックサックを担いでおり、硝子で手を切らないためか、その手には軍手が嵌められていた。色は黒。上も下も、髪の色も全て黒。被ったフードの下に隠れたその眼は、少し眠たげに見えた。鼻は高く、仄かに赤く染まっている。真黒な髪は可笑しなことに二つに分かれていて、フードの上からでも、それらが角のように天へと聳えているのが分かった。不敵に笑みを携える口元の下には、長い顎。


 ――そんな馬鹿な。


 草地は己の目を疑った。


(なんで、来たんだよ馬鹿野郎……しかも)


 喜びか、悲しみか、或いは呆れからか、草地は息を漏らす。

 なぜなら、そこにあったのは――。


「――っヤ、ビン」


 二〇〇〇年代、超絶な人気を誇った某海賊漫画。その登場人物の一人である、狐海賊団の船長――《ノロノロ野郎》の顔が、其処にあった。


 ――なんとも言えない空気が、室内を満たした。

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