2.罪状

 草地が警察に捕まった。


 周りの話によると昨日、ある宝石店で盗みを働いたらしい。それで警察に捕まり、いま収容施設に閉じ込められているとのことだ。何を盗んだのかは分からないが、相当の額をいっているようだと誰かが騒いでいるのが聞こえた。


 ――絶対に何かの間違いだ。


 草地は決してそんなことをする男ではない。何を盗んだと言われているのかは知らないが、宝石に対する興味など一欠けらも持っていなかった。プレゼントする彼女あいてなんて自分の知る限りでは居なかったし、婆ちゃんにそんな物を買うぐらないなら草地は家事の手伝いをする。


 ――そうだ、ばあちゃんだ。


 ふと、気づいた。草地は婆ちゃんの看病をしていたはずだ。だから、なおさら疑問に思う。

 奴は何故、宝石店に居たのか。以前、草地の家にお邪魔したときに駅の近くでそんな店を見かけたのを覚えている。一見新しいが、警備が他の店と比べて少し薄く見えた。草地はそこで盗みを働いたというのだろうか。


「わっかんねぇ……」


 普段使わない頭を一生懸命まわしていたら頭痛がしてきた。米神を抑えるように頭を抱えて、机の上で蹲る。

 しばらくすると、チャイムが鳴って先生が教室にやってきた。とりあえず混乱する頭と焦る思いを抑えながら、席に着く。授業中、教科書に集中しようとするがやはり出来ず、草地に会いに行くことばかり考えてしまった。

 そして、最後の授業が終わると猛ダッシュで教室を出る。なえセンが何やら煩かったが、それどころではない。

 心臓が早鐘を打っている。とても嫌な予感がした。



◆  ◆


 警察署に着くと、案外すんなりと草地に会わせてもらうことが出来、真っ白な部屋へと案内された。外と繋がる窓がない其処は、学校の廊下よりも無機質で、人の不安を煽るような空気で満たされていた。部屋の真ん中にはテーブルと空間を隔てるガラス張りの壁があって、その向こう側にパイプ椅子に座る草地がいた。自分も奴の前に腰掛けて顔を合わせる。ガラス越しに映る顔は、やつれて見えた。


「草地、何があったんだ?」

「……」

「草地?」


 草地の様子がおかしい。いつも気だるそうに合わす目は伏せられ、口を開く気配も無い。それが余計に俺の不安を煽った。


「……盗んだってのは嘘なんだろ?」

「……」

「なんで黙ってんだよ?」

「……」

「草地!」


 だんまりだ。ガラスを殴っても怒鳴っても、奴はなに一つ言葉を返さなかった。ガラスを叩く手を職員に止められる。俺は焦った。さっき警察と、国の費用で草地に付けられたという、「国選弁護人」に言われたことを思いだしたからだ。


 事件当日、宝石が盗まれたのは店員が客に見せるためにショーケースから取り出した直後らしい。ほんの数分、目を放した隙に無くなったそうだ。

 そして、草地が捕まったのは商品が無くなったと店員が気づいた数時間後、店のすぐ近くで、手に宝石を握っていたところを見つかったのだ。


 ただし、不可解な点が一つある。草地はその商品が置かれていた場所に近づくどころか店に一度も入っていないらしい。事件当日、カメラは故障していたらしいが、ボヤけていながらも、ちゃんと店員や客の影を映していた。その映像の中に草地らしき影は見当たらなかったようだ。けどボヤけていただけで、もしかしたら映っていた影のどれかが奴なんじゃないかと疑いは出ている。結局のところ、草地は不利な状況 に立っているのだ。


 草地に付いた弁護人は俺同様、草地は盗みをしていないんじゃないかと考えている。

 しかし、草地本人は警察どころか己の弁護人にさえ、なに一つ、事件に関して話さない。このままいけば草地は、無罪を主張するための証拠が足りず、有罪判決を下されかねない。これが、そこらの商品だったら百歩譲って良しとしよう。けど、今回は駄目だ。盗みが働かれた店は腐っても高級宝石店、そして盗られた宝石は1200万のダイヤモンド。


 ――となる犯罪だった。


「お前、分かってんのかよ!? このまま行けば処刑なんだぞ!」

「……」

「ばあちゃんどうすんだよ!? あの人にはお前しかいねーんだろ!?  このまま犯罪者のレッテル貼られて死ぬつもりかよ!?」

「……ぇ……」

「たった一人でココまで育ててもらった恩仇にする気かよ!?」

「うっせえんだよ!」

「!」


草地が突然、怒鳴り声を上げながら立ち上がった。この時、俺は初めて奴が怒る姿を見た気がした。


「テメーに何が分かるんだよ!? いつもヘラヘラして、碌に周りを見たことがねー奴に!」

「……なっ!? てめ、」

「そーだろーがよ! いつも何となくで済まして、一度も何かに必死になったことねー坊ちゃんがよ!」


 その言葉に、俺の中の何かが切れた。


「ふざけんなっっテメーだって、俺の何が!」

「伊奈瀬に関してもそうだ! あいつのこと好きだ好きだ言ってるくせに何一つ分かってねーじゃねーかよ!!」

「ふっざけんな! 分かってるに決まってんだろ! その証拠に彼女の家のことだって!」

「どうせソレも先週の金曜に聞いたんだろ!?」

「それが何だってんだっ」

「あいつは5月からずっと悩んでたんだぞ!」

「……え、」

「ずっと苦しんでたんだよ!」

「っけど、何も……」

「苦しそうに笑ってただろーが! 毎日遅くまでバイトして、成績落とさないように必死に勉強して、クマだらけの目で無理して笑って……気づけよ! いつも見てるっつーなら些細な変化も見逃すなよ!!」

「けど、ウチのバイト紹介したから……!」

「馬鹿かテメーは!? 本屋のバイト一つでどうこうなるわけねーだろ! 家族三人分の生活費が懸かってるんだぞ!?」

「……っ」

「だから、テメーは甘ったれた坊ちゃんっだっつってんだよ!」

「黙れ!」


 ―――黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!


 感情に任せてガラスを殴った。腸は煮えくり返り、胸の奥から嫌悪感が込み上げてきた。思考が奴に対する罵倒で埋め尽くされる。唯の逆ギレだ。

 だが、何も言い返せなかった。確かにその通りだからだ。普通に考えれば気づくはずなのに、俺はそれに気をかけることさえもしなかった。悔しさで拳が震える。

 それだけじゃない、伊奈瀬が無理していたことに俺は気づけなかった。草地は気づいたというのに。


「草地……お前もしかして伊奈瀬のこと」


 その瞬間、草地は固まった。こんなに分かりやすい草地は初めてだ。今日は本当に、草地の色んな面を初めて見た気がした。


 ――ああ、そういうことか。


 ストン、と胸の中で何かが「合点がいった」というように落ちた。そして伊奈瀬と草地、二人の想いに気付いた俺は、身勝手にも嫉妬の感情を覚えた。


 眉間に力が篭る。恐らく俺の顔は般若のようになっていることだろう。いけない、頭の中でそんな声が響いた。衝動のままに滑り出してしまいそうな言葉を、歯を食いしばって留めようとした。だが、脳裏に浮かんだ伊奈瀬の姿に、理性は掻き消される。

 自分の欲しいものを全て持っている草地に、「甘ったれている」などと、そういうことだけは言われたくなかった。今まで、自分の何処に押し隠していた嫉妬の感情が爆発する。


「――お前なんか、一生そこで過ごせばいい!」


 ――違うのに。


 こんなことが言いたくて、ここに来たわけじゃないのに。それでも競りあがる激動を止められなかった。頭の中は、脳みそが掻き回されたようにグチャグチャで、胸は心臓が突き刺されたように痛くて、腹は苛立ちの感情で渦巻いている。

 もう、何が何だか分からなくなってしまっていた。


 ――助けたい、心配だ。

 ――でも妬ましい、悔しい、憎い。


 反発しあう二つの感情が俺の理性を崩してゆく。激情に押されるかのように俺はそのままテーブルの上へと乗り出した。


「俺のことなんて、何も知らないくせに……ずっと信じてたのに、最低だよお前!」


 ――何が、「何も知らない」だ。そんなことを言えるほどの経験を、大してしたことがないくせに。

 草地に対する怒りと共に自分に対する苛立ちが顔を出す。それでも、感情は止まることを知らない。

 目頭に熱が籠り始め、鼻の奥が濡れ始める。溢れ出しそうな何かを押さえ込みたくて、歯を食いしばった。

 その瞬間、草地が固まるのが分かった。

 監視として付いていた職員はそろそろ止めた方が良いと思ったのか、そっと俺の肩を抑える。


「――おい、何を騒いでいる!?」


 中の騒ぎを聞きつけたらしい、外で待機していた警察官が入ってきた。感情を飲み込むかのように、喉を鳴らして、俺は肩の力をゆっくりと抜いた。


「すいません、少し喧嘩になってしまって……」


力無げなその言葉に、警官は怪しげな顔をするが、直ぐに帰るように促してきた。


「……もうそろそろ時間だ。帰りなさい」

「はい……すみませんでした」


 鞄を肩にかけて草地に背を向ける。重い足を一歩一歩引きずって、出口へと向かった。振り返ることは一度もしなかった。そんな事をすれば、きっとまた奴に怒りの感情をぶつけてしまうだろうから。


 面会室を出て、重い足取りで施設の玄関口まで向かう。

 今日は本当に疲れた。分からないことだらけだ。頭がこんがらがってちゃんと機能してくれない。それどころか体中が不穏な感情で埋め尽くされている。草地に酷いことを言ってしまった。その事を謝りたいのに、奴への妬みが俺を蝕んで、どうすることも出来ない。

 ただ、これだけは分かる。


 ――ざまあ見ろ、と奴のことを思ってしまった俺は、最低だ。


 自分に対する嫌悪感が喉まで競りあがってきて、気持ちが悪くなった。


 体が重い。何も考えたくない。でも、この感情を吐き出したい。苦虫を噛み潰したような顔をした俺に、例の弁護人が話しかけてきた。


「大丈夫かい?」

「……あ、はい」

「いや、しょうがないよ。でも、私が言うのもなんだが、出来れば草地くんのことを責めないでやってほしい」

「はい、」

「……これから病院に行こうと思っているんだけど、君も来ないかい? お婆さんと知り合いなんだよね?」

「え……」


 どうやら草地の婆ちゃんは風邪が悪化して、入院してしまったらしい。その話を初めて知った俺は、ついていくことを了承した。草地とは喧嘩をしてしまったが、婆ちゃんのこととなると話は別だ。元々、見舞いには行くつもりだったので俺は何やら「手続きを済ませてから行く」と言った弁護士に病院の名前を聞いて、先に向かった。

 草地も婆ちゃんがあんなことになっているのなら、弁護士やら警察やらに洗いざらい真実を吐き出せば良いものを、一体何を意地になっているのか。俺は眉を顰めて頭(かぶり)を振った。

 あれだけ草地を罵倒しておいて、自分も人のことは言えない。



◆  ◆


 宙に電子信号が青へと切り替わった横断歩道。

 病院に向かう途中、伊奈瀬と鉢合わせた。

 さっきのこともあって、少し気まずく感じながらも、俺の名を呼ぶ彼女に答える。今の感情を隠すかのように、笑顔の仮面を被った。


「――金城くん」

「あー、おっす」

「ふふ、おっす」

「……バイト、いや、買い物?」

「うん」

「そっちの子は弟さん?」

「うん、爽太って言うんだ。ほら、爽ちゃん挨拶」

「……」


 伊奈瀬の弟はなるほど。女子から言わせれば可愛いタイプだった。見た目はどちらかと言うと女の子よりで、少し伊奈瀬に似ている。この前、彼女から聞いた話では確かもう7歳になるはずだ。

 恥ずかしいのか――伊奈瀬の後ろに隠れる弟君に、とりあえず挨拶をしようと声をかけてみた。


「こんにちは。伊奈瀬の友達の金城理人かなぎりひとです」

「……こんにちは。あの、くさぢのお兄ちゃんは?」

「へ?」


 どうやらこの弟君は草地のことを知っているらしい。先を越されたような気がして、抑え込んでいた嫉妬の感情がまた顔を出しはじめる。同時に「つくづくどこまで最低なんだ、自分は」と、呆れの感情も覚えた。


「この前ね、爽太とお出かけしてた時、偶然草地くんと会ったんだ。その時いっしょに遊んでもらって、それで、なんか懐いちゃって……」

「そうなんだ……」

「うん、あの……草地くん、警察に捕まったって」


 どうやら伊奈瀬も噂を聞いたらしい。それもそうかと俺は頷く。同じ学校の生徒が警察に捕まったら誰だって騒ぐだろう。今のこの時代、《精神主義》を掲げているから尚更だ。ちょっとした噂だって、すぐに他校まで広がってしまう。


「……大丈夫だよ。あいつならすぐ釈放されるって」

「ほんと!?」


 弟君、もとい爽太くんがその言葉に飛びついてきた。相当、草地に懐いているようだ。こんな時だというのに、草地へ妬みの感情が膨らんでゆく。伊奈瀬もどこかホッとしたような顔をして、改めて、彼女の草地に対する想いをまざまざと見せつけられた気がした。

 それに気分を悪くする俺は、ほんとうに、どこまで最低なんだろう――。

 それでも仮面を外すことはせず、思ってもいない言葉がスルスルと口から滑り出る。


「じゃあ、宝石を盗んだって言うのは」

「何かの誤解だよ。あいつ、そういうもんに興味ねーし。盗むんならうちの漫画本盗むだろ」

「ふふっ……それもそうだね」

「ま、んなたいした物が盗まれたわけじゃねーし、事情聴取が終わったらすぐに開放されるよ」


 安心したのか、伊奈瀬の顔の強張りが解けたような気がした。それとは逆に、爽太くんは俺の言葉が信用できないのか何度も問いかけてくる。


「盗んだ宝石、高いものじゃないの?」

「全然」

「ホントのホントのホントに?」

「ああ、ホントのホントのホントのホントのホントのホントのホントのホントだ」

「……よく噛まないね」

「ふははは、早口は得意だからな」


 爽太くんもやっと信じる気になったのか、少しだけ笑った。


 ――ごめんな、ホントは嘘なんだ。

 盗まれたものは本当はとんでもない高級品なのに、俺は嘘を吐く。草地は何を意固地になってるのか、一向に自分の疑いを晴らそうとしない。そのせいで処刑の道へと奴を乗せた列車は、走り始めている。

 嘘を吐くことに罪悪感は感じる。詭弁に聞こえるかもしれないが、それでも俺は伊奈瀬たちの悲しい表情を見たくなかった。

 それに、まだ処刑されると決まったわけじゃない。あんな事を言ってしまったけど、俺だって草地の心配をしているんだ。

 あの馬鹿がちゃんと事情を話せば、何とかなるはずだ。確かに草地が盗んでいないという証拠は今のところ無いが、奴が盗んだという証拠だってあまりにも不十分だ。弁護士だってついている。なんとかなるだろう。


「それじゃあ、私たちはそろそろ行くね」

「おう、またな」

「バイバイ」


 駅へと向かう二人の後姿に手を振る。

 ――黒い感情は未だに消えてくれない。



◆  ◆


 病院に着くと、弁護士の男が既に受付レセプションに居た。受け付けロボではなく、生身のお姉さんにわざわざ話しかけているところを見ると、「あのおっさんムッツリだな」なんてどうでも良いことを思う。


「やあ、金城君。さっきぶりだね」

「はい、先ほどはお世話になりました。えと、ばあちゃ……草地のおばあさんの部屋は」

「205号室だそうだ」


 その言葉に頷いて、弁護士の男と共に病室へと向かう。

 病院は入口付近だけに限らず、何処も真っ白だ。廊下も同様で、白くはあるがどこか安心する雰囲気を醸し出していた。はあ、と少しだけ気が楽になったような心地で、息を吐く。

 長く静かな廊下を弁護士の男と並んで歩いた。こうして、妙齢の男の隣を歩くのは変な気分だ。ピチピチの若い女性なら分かるが、男となるとどうも駄目だ。妙に虚しくなる。


「それにしても本当に大変だね……君も」

「え、いや。俺は別に……まだ何もしてないし」

「でも、君は見たところ草地君と親しいようだし、これからが大変だろう。草地くんもお婆さんがあんなことになって……」

「え、」


婆ちゃんの容態はそんなに悪いのだろうか? 年なのに風邪をこじらせてしまったから、やはり相当まずいことになってしまっているのかと俺は眉を顰めた。早く良くなってくれるといいんだけどな、と心の中で願う。そんな俺に対して、弁護士の男は怪しむような顔をこちらに向けた。


「もしかして、聞いてないのかい?」

「あの、聞いてないって……」

「あ、ついたよ」


 なんのことかと追求しようとしたが、先に病室に辿り着いたので、部屋にまず入ることにした。ゆっくりと白く、無機質な引き戸が開かれる。


 そしてその《光景》を見た瞬間、俺は凍りついた。


 大きなショックを受けた頭は瞬時に現状を理解し、そして皮肉にも、草地の可笑しなに対する疑問が全て解けた。


 草地は――。



◆  ◆



 医者によると婆ちゃんはもう駄目らしい。実際にそう言ったわけじゃないが、小難しい用語で遠まわしにされた説明は要訳すればそんなとこだ。衰えた体は対抗力を無くし、意識は殆ど戻ることなく、心臓も機械に繋げなければ正常に動くことは出来ない。もう治る見込みは無い。このまま機械に繋がった人形のような生活を続けさせるか、いっそ楽に死なせるか、その決断は全て草地に委ねられた。

 草地は一体どれほど苦しみ、嘆き、悲しみ、涙を流しただろう。きっと、俺に奴の苦しみを理解することは一生できないし、共感することは出来ないのかもしれない。

 今日、奴は婆ちゃんを楽にさせる選択をしたそうだ。それを伝え、奴の変わりに手続きをするために弁護士のおっさんは此処に来た。


 久しぶりに見た婆ちゃんは真っ白だった。それが逆に綺麗に見えると同時にぞっとした。人の命が途絶える瞬間は、こんなに静かで冷たいのかと。生きていた頃は、あんなにも暖かかったのに。頬は赤く色づいて、いつも目を細めて笑い声をあげて、「ともちゃん、りとくん」と、コロコロ表情を変えながら俺たちの名を呼んでいたのに。こんなにも、あっけないのか。


「ばあちゃん、最後まであの馬鹿のこと考えてたんだな…」


 数日前、意識を失っていたはずの婆ちゃんは、一言だけ言葉をかすかに発したらしい。


 ――しあわせに、


 最後まで聞かなくとも分かる。きっと彼女は草地のことを思って言ったのだろう。いつもそうだった。俺が草地の家に邪魔するとき、彼女は嬉しそうによく言っていた。


『ともくんは幸せなんだねぇ』


 その時の笑顔はなんというか、デレっとしていて、彼女のほうがもっと幸せに見えた。草地は何やら彼女の言葉を否定していたが。


 医者が言うには治療する方法はあったが、あまりにも難しく、リスクの高い手術で金も相当かかるらしい。金持ちでもない草地には正直難しい話だ。これも奴が宝石を盗んだと疑われている原因となっているようだった。


 馬鹿馬鹿しい、と毒づく。

 そんなことしても婆ちゃんが喜ぶはずがないのに。それを知っている草地がそんな馬鹿なことをするわけがない。

 馬鹿だ。学校の奴らも、店員も、警察も、俺も、奴も、皆――馬鹿だ。


 拳がギリギリと鳴って、掌に鈍い痛みが走る。爪を強く立てすぎて、皮膚を突き破ってしまったらしい。じわり、と血が掌から滲み出すのが分かった。

 ちょっと考えれば解る事に俺は気づけなかった。自分の気持ち、草地の想い、そんな大事なことに俺は気づけなかった。そのせいで俺は草地をたくさん傷つけた。醜い感情をぶつけた。


 ――結局なにも解っていなかったのは自分じゃないか。


 余りの情けなさに眉間に皺が寄った。本当に甘ったれていたのだ、自分は。


 草地は誰よりも無理していたのに。誰よりも優しいことを俺は知っていたのに。くだらない感情に振り回されて、大事なことを見失ってしまっていた。


 ――確かめなければならない。何が嘘で、何が本当なのか。

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