第1章――崩壊する日常、少年の決意
1. 失恋したのでリア充暴発しろ
「わたし……草地くんのことが好きなんだ」
7月1日、午後4時30分。
この瞬間、こんなことを思ってしまった俺はきっと、悪くない。
――リア充、
◆ ◆
――時間を遡ること、8時間前。午前8時30分。
真っ白な電子ボードが「00:15:08MINUTES 」と授業開始時刻までの残り時間を示す中、俺は一人、机の前に座ってソワソワとしていた。
少し跳ね返っている髪を直して、制服に乱れがないかチェックをし、それが終われば、満足そうに頷く自分の姿が隣の窓に映った。口角がだらしなく緩み、目が見事なへの字になっている。
自分でも浮かれている自覚はあった。周囲のクラスメイトには、俺の黒いつやつやヘアに紛れて、ぴょこんと頭に咲く花でも見えていることだろう。
その証拠に、隣の席に座る男は胡乱そうにこちらを見つめていた。眉間には皺が寄っており、「気色が悪い」と言う奴の思いがデカデカと顔に書いてある。
「……
だが、そんなのは俺の知ったことではない。
構わず制服の襟をちょいちょいと整える。
「……べっつにー、ちょっと身だしなみ整えてただけー」
「身だしなみって……お前」
その返答に男はさも呆れたとばかりに息を吐いた。
半目でこちらを見つめる男に、自然とむっと顔が歪む。
「
「……何をだよ」
「嫌な予感しかしない」と草地は顔を歪めながら、こちらにもう一度視線を向けた。
「今日から夏服だ」
「……そうだな」
呆れたようにこちらを見やる草地に、ふふん、と無意識に誇らしげな笑みがこぼれた。
ちらりと前隣りの女子に目を向ければ、そこにはいつもより露出の多い肌。白く柔らかそうな太ももや二の腕が、短くなった袖の下から姿を現し――制服の布が多少薄くなることで、汗を搔いた際には薄っすらと可愛らしいブラが透けて見えた。
ぴ、ぴんくだ。
不埒な想像を膨らませながら、胸を高鳴らせる。心臓がドキドキと鳴り、鼻の奥から何かが垂れ始めた。鼻血だろうか、いかん。
慌てて素手でふっと鼻の下をぬぐえば、自然と半目になった草地が視界に映る。
「お前……気を付けねぇと女子に引かれるぞ」
「俺は欲望に忠実なのだよ。草地くん 」
「‟色欲゛という名のな。それよりお前、受験勉強は始めたのか?」
「……」
――忘れてた。
さあ、と一瞬で顔から血の気が引いてゆく。
記憶の彼方に葬り去っていた単語を目の前へと引き戻され、机に突っ伏した。ゴン、と見事な音がしたが、気にしない。
「しまった、どうしよう」と頭を抱えなおせば、思わぬ襲撃を受けてしまった脳味噌がズキズキと疼きだす。胸の奥からは不安か、或いは焦燥か、不穏な気持ちが込みあげてきた。
7月1日、俺たちは既に中学三年生となっていた。今やもう受験の夏だ。周りは既に受験校を決め、進学するために勉強を始めている。自分はこのまま現在在籍している学園の高等部へと上がるつもりだったのだが、残念ながらその進学という名の階段さえも、危うく崩れかかっていた。理由は明確、かつ簡単だ。
己が馬鹿だからである。
わかっていた。このままいけば留年してしまうことも。わかっていた。ちゃんと勉強をしていれば、こんなことにはならなかったことも。それでも俺はどうしてもやる気になれず、勉強に関する全ての事柄を遠ざけていたのだ。
「……お前、頭は別にそんな悪くねーんだからよ。普通に勉強すりゃ良いのに、やっぱ馬鹿だよな」
呆れたようにこちらを見つめる男、
気だるげってなんだ。可愛いってなんだ。ようは、だらしないだけだろう。気だるげで可愛いっていうなら、それはケダモノだ。あ、ちがう。ナマケモノだ。
とにかく……女子が騒いでいるその気だるげな態度はいつだって、(俺含む)男どもの神経を逆撫でるだけだし、どこかにやる気を置いてきてしまったそのクールぶった性格に魅力なんて、これっぽっちも、ミジンコほどにも無いと俺は思うのだ。
実際、今だって失礼な奴を殴りとばそうと拳が震えているし。
……まあ、繰り出そうとした渾身の一撃は、いち早く鳴ったチャイムと共にやってきた女性によって、あえなく中断されてしまうのだが。
「はーい、全員席について。今日、高野先生が体調不良により遅れてやってくるので代わりに私が出席を取ります」
「うげ……」
これでもか、というほどに盛られた付け睫毛とアイシャドウに、思わず呻き声をあげる。
最悪だ。まさか、朝からこいつの顔を見ることになるとは――。
「なえセンか。相変わらずケバいな……」
失礼だが、それには同感だ。もともと零地点まで陥っていた気分が、彼女の顔を見て更に降下してゆくのが、自分でも分かった。
「あれはケバいとかの問題じゃねーよ……マジで教育実習生なのあの人? 21にしては、なんか……」
「なえセン」、もとい
成績がちょっとばかし悪い奴でも、見下したように見ることが多く、そのせいで生徒からは忌嫌われているのだ。かく言う自分も、嫌いとまではいかないが、正直苦手だった。
「はい、きりーつ」
とりあえず、憂鬱な気分を腹の奥へと押し込めて、号令の準備をする。
◆ ◆
昼休み。
草地を連れて食堂へ行けば、既に人だかり出来ていた。
「うわ……混んでるし」
「……いつものことだろ」
購買の方も酷かったが、こっちも酷いと肩を落として項垂れる。
カウンターの前には50人ほどの列が出来ており、気のせいか給市型のロボットがアタフタしているように見える。白く、半球体のそれは直角型の腕と器用な指先を忙しそうに動しているが、一体だけで50人を捌くのは無理があるのではないだろうか。ロボットの三角巾がつるつるの頭から滑り落ちそうになっているのを傍目に、大丈夫かと首を傾げる。
――瞬間、ふわりと甘い匂いが鼻孔をくすぐった。
「金城くんたちも学食?」
「――っ!?」
ドッキン、と大きく跳ね上がった心臓を押さえる。
柔らかく、優しげな声に振り返ってみれば、見知った少女が其処に立っていた。
さらりと靡く鮮やかな黒髪に、真っ直ぐに他人と視線を合わす、凛とした瞳。しなやかな手足に、すらりとした体躯をした彼女は《美少女》と部類すべきだろう。陽だまりの様なその笑顔に、自然と心臓の鼓動が早まった。
だらしなく緩みそうになる口元を必死に引き締める。
「お、おう。
「ううん、お弁当。今日は何か甘いものが欲しくって……苺のスムージー買おっかなって。安いし」
「あ、ああ! スムージー! そういえば今日暑いし、丁度いいかもな! うん、良いと思うよ」
伊奈瀬と苺――あっ……似合う。
想像したら、なんだか興奮してきた。鼻息を荒くして、彼女の言葉に激しく同意する様は、周囲からすれば異様に見えることだろう。その証拠に草地が引いたように俺を見ている。だがそんな些細なことなぞ、どうでもいい。なぜならそんな自分を見ても、伊奈瀬は変わらず優しく微笑みかけてくれるのだから。
「ぷふ、ふ……ありがとう。やっぱり金城くんって面白いね」
「そ、そかな?」
「うん、草地くんも毎日金城くんと一緒で楽しいでしょ?」
「いや、むしろ疲れるぞ……いろんな意味で」
「おい!」
コントのように草地に突っ込む自分を伊奈瀬がまた可笑しそうに笑う。ああ、そうだ。この感じ。このゆったりとした空気。この瞬間が、俺は好きなのだ。伊奈瀬を前にすると、不思議と心が落ち着く。
「それじゃあ、私そろそろ行くね。二人ともまたね」
「あ、うん。伊奈瀬、あの!」
「分かってる、また放課後に!」
その言葉に、ホッと息を吐く。実は今日、彼女と放課後に待ち合わせる約束をしていた。デートというわけではないが、近くの売店が苺味の新商品を発売することになり、「良かったら行かないか」と、この間誘ったのだ。金銭的な問題で少し悩ましげな顔を伊奈瀬はしていたが、意外と安いと伝えると、苺好きな彼女は「少しくらいなら」と快く頷いてくれた。それが嬉しくて嬉しくてしょうがなく、今朝、俺は窓を写し身代わりに使って、自身の格好を整えてたのだ。……断じて、頭に花が湧いていたわけではない。
「じゃあ、また後でね!」
「おう!」
小走りで、甘いもの系のバーカウンターへ向かう彼女に手を振る。細長い足が一歩一歩、軽やかなステップを踏むたび、スカートがヒラリと僅かに舞い上がって、白い布がちらりと顔を覗かせた。限界まで開ききった瞼の向こうから、血走った眼球が飛び出そうになったのは仕方あるまい。コホン、と邪な思いを追い払うように咳払いをする。
「……金城、お前」
「……なんだい草地くん。俺は何も可笑しなことなどしていないよ」
疑心に満ちた顔でこちらを伺う草地はため息を吐くと、一人でさっさと食堂ロボットの下へと向かった。……相変わらず、失礼な奴め。
草地は天ぷら定食、俺は味噌ラーメンを頼んで、食堂の端っこの窓際にあるテーブルを陣取った。
ここの食堂は広いが、デザインが古風だ。学園が2010年に設立されて以来一度も改装されたことがないらしく、他校と比べて些か小汚い。新しい電子ボードやロボットは支給されているが、建物自体は昔と変わらずにいた。その事に対して不満を覚える生徒はいるようだが、ここは公立だ。他の公立校だって似たようなものだと俺は思っている。だから、不満不平を言ってもどうにも出来ないし、そんなに文句があるのなら私立の学校へ行けば良い。俺はこの学園を気に入っているし、確かに多少の小汚い印象は否めないが、IDカードや認証を要求する面倒なゲートが設置されている校舎より、こういう‟気楽”で‟味気”のある建物の方がずっと良い。
「あー、うまい」
感嘆の息を吐きながら、麺を箸でつつく。コシのある太麺は俺の好みで自然と頬が笑んだ。目の前の草地はそんな自分と反して食事に多少の不満があるようで難しそうな顔をしている。もくもくと、あまり進んでいるようには見えない相手の箸を見て、ふとある事に気づく。
「そういえば、お前、今日は珍しく学食なのな」
「ああ、ばあちゃんが今日体調崩しちまって」
そう、草地はいつも弁当だ。学校に支給される食事はあまり好きじゃないらしい。奴いわく、味気がなく、無機質な感じがするのだとか。その意味は理解しかねるが、俺も奴の婆ちゃんが作る弁当の方が好きだ。癖はあるが、優しい味がする。確かに工場ロボットが作る飯と比べたら、弁当の方が断然いいと俺も思った。
「ばあちゃん、大丈夫なのか?」
「ああ、ただの風邪らしい。三日やすめば治るって」
「そか、良かった」
「おう」
草地の婆ちゃんには何度か会ったことがある。とても優しそうな人だった。腰がすっかり折り曲がっていて、最初は豆粒のような印象を抱いたが、いつも柔らかな表情でニッコリと笑ってくれる顔の小皺が、とてもチャーミングに見えた。喋り方もゆったりとしており、初めて草地の家にお邪魔した時も、気兼ねなく話せたのを覚えている。
草地は幼い頃、早くに両親を亡くして婆ちゃんに引き取られたらしい。だから、草地にとって「ばあちゃん」は大切な唯一の家族。彼女に負担をかけないためにバイトして、部活もやらず、家事の手伝いをするためにいつも真っ先に家に帰っている。……気持ち悪いくらいの好青年だ、ナマケモノのくせに。
「見舞いに行く」
「いい、それよりお前はまず伊奈瀬に告白して、さっさとくっつけ」
「ブッフォ!!」
吹いた。
「近いうちに告白するんだろ? なんか今日待ち合わせる約束をしてたみてーだし」
「ゴッハァ……!!」
吐いた。というか出てしまった。顔のありとあらゆる穴から。
「おまっ……汚ったねーな……というか気持ち悪。麺星人か。」
「ごふ、ごは……お、お前が」
動揺する思いを抑えて口を開こうとするが穴が痛くて、つい咽せてしまう。草地にナプキンを渡され、顔を綺麗に拭いた。顔の彼方此方がヌルヌルしている気がして正直気持ちが悪い。あとでトイレに行って顔を洗わねば、と汁の散ったテーブルも拭く。
一通り麺を片付けて落ち着くと、改めて聞いた。
「な、なんで」
「おめーのその露骨な態度を見ていれば分かる」
「そ、そか」
「ああ」
「……」
「頑張れよ、それと赤くなるな、なんかキモいから」
――本当に失礼な奴だ。
◆ ◆
放課後。長い授業が終わって、帰り支度をしていると草地にポンポンと肩を叩かれた。
「じゃあ、俺さきに帰るから」
「お、おう。また明日」
「またな」と手を振って、そのまま教室を出る背中を横目で見る。婆ちゃんの看病をするため、帰りにスーパーで色々買っていくのだろう。……やっぱ、明日にでも見舞いに行こうか。
教科書を全て仕舞いおえた鞄を肩に担いで、伊奈瀬のクラスへ向かった。片手に例の売店のチラシを眺めながら、軽い足取りで廊下を歩く。ペラペラの紙には「苺ポテトアイス新発売! お手頃な価格であなたの心をノックアウト!」と、ピンクの文字がデカデカと存在を強調しており、少しコレのデザインをした人のセンスを疑った。だけど、商品の方は伊奈瀬が好みそうな物なので、すぐに口がニヘラと笑む。
伊奈瀬に初めて出会ったのは二年前、中一で、同じクラスになった時だった。隣の席だったことからよく話をするようになって、彼女の魅力を知り、気がつけば好きになっていたのだ。その感情に気づいたきっかけは確か、彼女の身内話を聞いた時だった。
『え、伊奈瀬。その弁当自分で作ったの?』
お互い共に食べる相手が偶々いなかった昼休み、彼女が家事をほとんど一人でこなしていることを知った。母子家庭であまり裕福ではないらしく、毎日仕事で忙しい母の代わりに、まだ三つの弟の世話や家事を全て一人で担っていたらしい。
『そっか、大変だな……何か俺に出来ることがあったら言ってくれ』
『うん、ありがとう。でも大丈夫。お母さんは優しいし、弟も可愛いから全然苦には思わないんだ。それに、こうして金城くんに気にかけてもらえるだけで十分うれしいよ。ありがとう』
その時の伊奈瀬の笑顔を、俺は一生忘れない。俺の
脳裏に浮かぶ女神に、たらりと涎が垂れる。
「……やっぱ、伊奈瀬は可愛いよな」
困ったような顔をしている伊奈瀬を見て思う。きっと、俺の鼻の下は伸びていることだろう。よくそれで草地には引かれるが、構うものか。彼女の困り顔が可愛いのが悪い、と俺は一人で勝手に納得した。うんうん、と頭を頷かせるが、すぐにハタ、と我に返る。
――まて、困り顔?
「って、なえセン!?」
視線の先、教室の前には伊奈瀬ともう一人、女性が居た。
なえセンだ。
伊奈瀬を見つめるその表情は気のせいか険しく、教室の前でなにやら彼女に注意をしている。下校時間は過ぎているため生徒は大分いなくなっていたが、何人かはまだ残って、野次馬のように教室から顔を覗かせていた。
「何してんだ?」
彼女たちの会話が気になって、もう少し足を近づける。微かにだが二人の声が聞こえてきた。
「伊奈瀬さん? あなた分かっているの?」
「……はい、でも家は母が働きづめで弟も」
「それは分かっているわ。あなたが家のためにバイトしていることも。私が言ってるのは成績よ。どんな理由があろうとも結果は変えられない。働くのは良いけど成績と出席はちゃんと取りなさい。このままいくと、あなた留年するわよ」
成績、出席、留年――どれも聞いたことのない話だった。伊奈瀬が母子家庭で家が貧しいということは知っていたが、まさかそんな事になっていたとは。俺は僅かに眉を顰めながら二人のやりとりが終わるのを待った。正直、二人の間に割り込みたいところだが、そんなことしても自体が悪化するだけだ。
しばらくして、言いたいことを全て言えてスッキリしたのか、なえセンが去ってゆく。俺は即座に伊奈瀬の傍へと駆け寄った。
「伊奈瀬」
「あ、金城くん……来てくれたんだ」
「ああ……その、大丈夫か? さっき……」
「うん、大丈夫。心配してくれて有難う」
そう言って彼女は笑ったが、その笑顔には陰りが見えた。
このまま、既に混んでいるかもしれない売店へ予定通りに向かうのは憚れて、俺は公園で少し涼んでいくことを提案した。今の時間帯、生徒は部活動をやったり、既に帰宅したりと疎らだが、あの公園に人はあまり来ないはずだ。
伊奈瀬は俺の提案に素直に頷いてくれた。
公園は行ってみると実際見事に空いていて、貸しきり状態だった。伊奈瀬は金銭問題で遠慮していたが、俺は小腹が空いていたので彼女の分も含めてカキ氷を二つ、近くの自動販売機で買った。
「……あのさ、何かあった?」
公園のベンチに腰掛けるとさっそく伊奈瀬に訪ねた。聞くか否かで迷ったが、伊奈瀬なら、言いたくないことは「言わない」と言ってくれるから大丈夫だろう。悩ましげに長い睫毛が伏せられる。伊奈瀬は何度か躊躇するように口をパクパクと開いたり閉じたりするが、やがてポツリポツリと話しはじめてくれた。
「さいきん…お母さんの会社、赤字が続いてるみたいで…」
その言葉の意味を、頭が瞬時に理解した。
伊奈瀬の家は元々、今で精一杯という暮らしをしていた。それが――母親の給料が減ることで暮らしが更に難しくなり、伊奈瀬はバイトを増やすことで家を支えようとしたが、逆に成績は落ち、出席もちゃんと取れなくなって、あんな事になってしまったのだろう。なえセンが其処で出てきたのは、大方あそこの担任の常田先生にその役を押し付けられたからだと推測した。あの教師はムッツリで、伊奈瀬の前では強く出れないから。
伊奈瀬は行き詰ったような顔をしている。そんな彼女を見て、何か出来ないかと必死に思案してみる。
「あ、あのさ良かったらウチで働いてみない?」
「え?」
「伊奈瀬も知っていると思うけどウチ、本屋やっててさ。この前バイトが一人やめて困ってたんだ。ウチならそっちの都合に合わせられるし。なんだったらバイト中、弟さん連れてきても良いし、俺の母さんもチビっ子好きだからさ。伊奈瀬も、そしたら無理なバイトせずに、勉強とかちゃんと出来んじゃねーかなって…… 」
「……金城くん。でも迷惑じゃ」
「だ、大丈夫だって。ウチ、友達にしょっちゅう手伝ってもらってるし、皆けっこう自由にやってるんだぜ? 草地なんか営業中マンガ読んでてさ」
「草地くんが?」
「お、おう。あいつ、毎週末ウチでバイトしてんだけど、ずっとマンガ読んでてさ」
つい先日の出来事を思いだす。カウンターの前で紙媒体の本のページをパラパラと捲りながら読む草地は、明らかに仕事に集中していなかった。確かに客は少ない、というより、むしろ居ないと形容した方が正しかったが、「それでも金出してるんだからもうちょっと集中しろよ」と、俺は言いたかった。まあ、そんな自分と反して母は「ちゃんと仕事はしてくれるし、漫画読む様も格好いいからヨシ!」と、親指を立てていたが。漫画も報酬に入っているらしい。
その様子をありありと話すと、伊奈瀬はクスクスと笑った。
「草地くん、そんなことしてたんだ。ふふっ、何か草地くんらしいなぁ……」
――その笑顔に、少しの不安を覚えた。
なぜだろう、凄く嫌な予感がする。気のせいか、伊奈瀬の表情はいつも以上に柔らかく、頬も薄っすらと赤く色づいていた。その様がなんとも可愛らしく、彼女を華やかに魅せた。
――膨らんでゆく疑心が無意識に、自然と言葉となって口から滑り出る。
「い、伊奈瀬。まさか……草地のこと好きだったり」
「え!?」
その瞬間、伊奈瀬の顔がボン、と爆発した。
「そ、そそそそそそそんな。みゃ、みゃさか!? くくくく、草地くんを好きなんてそんな!? そ、そりゃつい目で追っちゃったりするけど……って、あっっ」
真っ赤に茹で上がってしまった顔に、左右に泳ぐ視線。潤んだその愛らしい瞳は俺の勘が当たっていることを語り、心を凍てつかせた。
しばらくして、落ち着いたのか。はあ、と顔の熱を逃がすように息を吐く彼女。悩ましげな顔は色っぽく見えた。そして、赤くふっくらとした唇は静かに、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「な、ないしょ、ね…」
――リア充、
頭が大きな混乱の渦に放り込まれた。暴発しろ、ではなく
草地の想いは知らないが、伊奈瀬の気持ちを知ったことで、心が極寒の地へと追いやられる。未だに頭は真っ白で、何も考えられないのに、胸が凍傷したかのようにズキズキと痛みだした。泣きそうだ。
そんな、
大丈夫だ。諦めるのはまだ早い。いや、早いというかそう思う必要もないのかもしれない。草地が伊奈瀬のことを好きと決まったわけではないのだから。そうだ、まだ両思いと決まったわけじゃない。なら、自分にもまだチャンスがあるかもしれない。そう、草地より良い男になれば――。
そこまで思考を走らせてパタリ、と止まる。
――良い男? 良い男って何? 俺、あれの何を越えれば良いの? 身長? 顔? 成績? ……あ、性欲。いや、
「って、全部じゃねーかァァァあ !?」
「え!?」
――……は、しまった。
突然のショックで思考がまたもや大パニック、ではなく可笑しな方向へと走り出してしまった。正気に戻った頭で伊奈瀬に視線を向けると、なにやらポカンと口を開いている。恐らく俺の突然の奇行に驚いているのだろう。
「可愛いな、ちくしょー」と心の中で悪態を吐きながら、深呼吸をしてとりあえず自分を落ち着かせようとした。そして上目づかいでこちらを伺う、愛らしくも残酷な彼女になんとか言葉を紡ぐ。
「……あ、あの」
「ああ、悪い伊奈瀬。ちょっと変なこと思い出しちゃって」
「あ、そうなの?」
「うん、あははは。あー、うん。大丈夫、草地のことは黙っとくから安心してくれ。俺の口は岩より堅いからな」
「あ、有難う」
「うん、バイトのことも母さんに伝えとくから、考えといてくれ」
「うん、本当に有難うね。私もお母さんに相談してみるね」
「うん……えと、ごめん。俺、ちょっと急用思い出しちゃった。もう行くね 」
「あ、うん。今日は本当に有難うね、金城くん。なんか気が大分楽になったよ」
「うん、それじゃあ」
「バイバイ」
笑顔で手を振る伊奈瀬と別れた後、ふらふらと覚束ない足取りで帰宅した俺は、食事も取らずに自室に籠った。
――そして、静かに枕を濡らした。
……もちろん、心配そうに声をかけてきてた母にバイトの話をするのを忘れずに。
その翌日。草地から週末は家に来れないと連絡が来たので、俺は一人で店番をした。幸いにも、草地と顔を合わせる必要がなくなって、店番は金曜の失恋ショックを癒すにはちょうど良く、仕事に没頭することで、なんとか伊奈瀬のことを忘れようとした。……結果は言うまでもなく、失敗に終わったが。
そして月曜日。7月4日、午前8時30分。
憂鬱な気分を心の奥に押し込めて、学校に向かった俺は、予想だにしなかったニュースを耳にする。
――草地が、警察に捕まった。
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