第5話


 夕凪は息を整えながら、まだ人気の薄い建物へと入っていった。廊下の窓越しに研修生用の宿舎を横目で見つつ、まずは事務所に向かう。事務方の人間はまだ誰も着ていないのか、整然とデスクが並んでいるだけだった。

 夕凪は出勤ボードを見つめ、『C』と書かれた欄の赤いマグネットを『出』に移した。小さく頷き、棚から『C班』のクリップボードを抜いて、更衣室へと歩きだす。

 

「えっと……穴掘り?」


 誰に言うでもなく呟き、夕凪は小首を傾げた。

 クリップボードの『本日の作業内容』と書かれた紙に『穴掘り』とある。他に挟まれているのは監視担当の研修生一覧だけだ。一人、減っていた。


「……長生きできなかったかぁ」


 更衣室の扉を開けると、先客がいた。背の高い、がっしりとした体格の男だ。

 男は夕凪を認めると、小さく顎をしゃくった。


「よう、C。おはようさん」

「おはようございます。Aさん。夜勤明けですか?」

「そう。もう眠くて眠くて。明日は休みだからいいけどよ」

 

 男の名はA。夕凪は男の本名を知らない。そして、Aもまた、夕凪の名前を知らない。

 夕凪が監視員として働く農業研修センター『萌芽ほうが』では、職員は互いに名前を知らされず、口にするのも禁止されている。

 ロッカーを開けた夕凪は、ランニングバッグを下ろしつつ訊ねた。


「あの、Aさん。穴掘り? って何するんですか?」

「あー……そうか。Cは初めてだっけか? そんな難しくねぇし、教えてやるよ」

「夜勤明けなのにいいんですか?」

「Cがした後を引き継ぐ方がよっぽど大変だからな」


 そう言って、Aは苦笑した。

 夕凪は首を傾げながら、ロッカーから教育棒を取り出した。樫でできた指導用の棍棒だ。全長は四十センチ。先端十センチに節くれのような刻みが入っている。反抗的な研修生に教育するための道具である。

 作業用の薄緑色のツナギに着替えた夕凪は、教育棒を腰に吊るし、再びバッグを背負った。


「準備終わりました。今から行きますけど……」

「早くないか? まだあいつら寝てるだろ」

「そうですかね?」


 壁掛け時計は、午前五時四十五分を指していた。夕凪にとっては時間通りである。Aの言うように研修生には早すぎるかもしれないが、彼らが指示に逆らうとは思えない。夕凪の監督する研修班――萌芽の『C班』は、すでに教育が行き届いている。


「まぁ、多分、みんな起きてると思いますよ」

「そうかい。んじゃまぁ、行こうかね」


 夕凪はAと一緒に更衣室を出て、研修生の寮に向かった。途中、廊下で出勤したばかりのと出くわした。

 所長は帽子の男に紹介された男で、名目上、萌芽の代表を努めている。見た目には背が低く横幅の広い中年男でしかないが、濃いサングラスの下の両眼は素人のそれではない。

 夕凪は所長の目を見ながら小さく会釈し、横をすり抜けようとした――が。


「おうC。やりすぎるなよ? そう何度も病院連れてけねぇんだからな?」


 釘を刺された。手加減しろという意味だ。

 夕凪は研修センターで働くようになった初日に、事件を起こしていた。事件といっても、集められた研修生たちが反抗的態度を示したため、事前に受けた説明通り教育しただけだ。ただ、その際、一切の加減をしなかったのが失敗だった。

 夕凪に大腿部を殴打された研修生は、しばらく立てなくなってしまったのである


「あのときは、ご迷惑をおかけしました。ごめんなさい」


 言って、夕凪はペコリと頭を下げた。

 所長は口をへの字に歪めて、鼻息をついた。


「ま、おかげで大人しくもなったからいいけどな。でもやりすぎはダメだ。いいな?」

「わかりました。注意します」


 そう言って、また丁寧に頭を下げ直す。

 所長が手をひらひらと振って立ち去るのを見計らい、「もう行ったよ」とAが肘で夕凪を小突いた。夕凪が頭を上げると、Aはその背を押しながらくつくつと笑った。


「みんなに怒られてやんの」


 まるで子どものような口調だった。

 やらかしたのは自分らしいから、と文句は口にしなかった。従っている限りは良くしてくれるし、良くしてもらえている間は、長生きできるはずだ。

 ただ、大腿部を教育棒で殴れと教えたのは萌芽の方だ。制圧するだけなら他にいくらでも方法があったので、それだけは不満だった。


「次は怒られないようにしますよ」


 唇を尖らせながらそう答え、夕凪とAは外に出た。

 研修生の寮の前には、すでにひとりの研修生が出てきていた。浅黒い肌の男で、夕凪たちと同じ薄緑色のツナギを着て、手に持った竹箒で掃除をしていた。

 夕凪の姿に気づいた男は、慌てた様子で両手を体の横に揃えて『気をつけ』の姿勢を取った。

 

「おはようございます! Cサン!」


 大声で叫ぶように言って、腰を九十度に折り曲げた。

 応じた夕凪もペコリと頭を下げて、研修生の胸元に目をやった。『C-43』。それが萌芽での彼の名前だ。


「おはようございます。四十三番さん」


 C-四十三番こそ、初日、夕凪の手により、大腿骨にひびを入れられた男だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る