第4話
午前四時五五分に
夕凪は寝ぼけ眼を擦りつつ洗面台の前に立ち、冷水で顔を洗って、歯を磨き、居間に戻った。
食卓に、空になったポテトサラダのパックが残されていた。その隣に一万札が一枚。元は三五〇円で、買ったときは二〇〇円の見切り品が、一晩で一万円に化けた。
つまみ上げた紙幣を眺めて、夕凪は口元を緩めた。
「昨日の人は、いくらだったんだろう」
想像通りなら、
昨晩を思い返しながら、夕凪は地下室に降りた。
靴跡も、血の跡も、そこに人がいたという事実を証明しそうなものは何ひとつ見当たらない。残っているのは、微かに漂う煙草の匂いと、手に残るバットの感触だけだ。
「バットも始末しちゃったのかな?」
夕凪はかくんと首を傾げて、考えても仕方ないかと思い直し、戻って着替えを始めた。
下は一九八〇円の柔らかいジーンズで、上は三枚で九八〇円だった速乾Tシャツで、その上に二九八〇円のパーカーを羽織る。どのみち仕事場では作業服に着替えるので、服装に気をつかうことはなかった。
続いて一〇八〇円のランニングバッグを取り、緊急連絡用の二つ折り携帯、オイルライター、手の平に収まるペンライト、刃渡り五センチ強の折りたたみナイフを放り込む。
下に降り、二九八〇円の青いハイカットスニーカーに足を通して、戸を開ける。
「……寒いな」
昨晩、雨が降ったらしい。家の前の道がぬかるみ、轍が残っていた。
「さぁ、行こう」
呟き、夕凪は駆け出した。
凍りかけた泥を踏み散らし、白く色づいた吐息を規則的に並べて、前へ前へと躰を運ぶ。少しずつ速度を上げていき、長い道のりを見越して全力の八割でキープする。家から職場までのおよそ五キロ、日が昇る前の青味がかった世界をひた走る。
命を買われた日から始まった、長生きするための活動である。
『坊主が腎臓一個を売ったら十万円。二個で二十万円だ。ただし二個売ったら死んでしまう。それなら俺たちは、他の臓器もまとめて売りたい。坊主は死ぬから十万円ももらえない。無料だ』
いまでは掠れた記憶だが、帽子の男は言っていた。
『逆に言えばだ。俺から見て坊主の価値が十万円を超えている限りは、生かしておいた方が得になるだろ? したら、坊主は長生きできる、というわけだ。分かるか?』
「なんとなく、分かりました。でも――」
たしか、そう答えたと思う。
帽子の男は口元を緩めて言った。
『下回ったら? 腎臓を取る。ただ取っちまうと、その瞬間から、坊主の躰の価値が下がりはじめるんだな。長生きさせればさせるほど価値は下がる。それなら高い内に売りたいから、さっさと他の場所も売る。つまり、坊主は長生きできなくなるわけだ』
「じゃあ、僕はどうしたらいいですか?」
たしか、そう訊ねたと思う。
帽子の男は夕凪を立たせて答えた。
『躰を鍛えて、技術を身につけろ。坊主は、俺に、売っちまうよりは手元に置いておきたいと思わせればいいんだ。そしたら、坊主は長生きできるよ』
だから、夕凪は毎日のように走っていた。趣味ではなく、価値を上げるために。たとえば普段着でいるとき――不意に、走らなくてはいけなくなったとき、十五分で五キロ走れる躰を維持するために走っていた。おかげで、長生きできている。
最近は呼ばれていないが、いつなんどき、どんな形で躰を提供しなくてはいけないのか分からない。だから、昨晩のように不意に求められても暴力を振るえる躰と技術を、維持し続けなくてはいけなかった。
無心に足を動かしていた夕凪は、背後から正面に伸びる自分の影に気づき、加速した。小柄な躰が、のぼり始めた陽の光から逃げるように、色味の戻り始めた荒れ道を疾走する。
息が切れても、足が回りにくくても、走るのを止めてはならない。
止まれば、その瞬間に、全て無価値に変わる。昨夜夕凪自身の手で終わらせた命と同じ、値段のつかないゴミだ。維持するよりも始末する方が安い、ゴミクズだ。
価値を失えば、次に始末されるのは夕凪となる。
ゴミとなった夕凪を始末するのは、昨日を生き延びた少女のような、また別の誰かだ。長生きしたければ、自らの価値を高めて、保つしかない。
いまの仕事は嫌いだが、職場までの五キロは、価値の維持に有用な距離だった。
「……来年は、免許取りたいって言おう」
たどり着いた職場――農業技能研修センターの門前で、膝に両手をつく。
「たしか、二十九万五千円(税抜き)、だっけ……」
知人紹介の割引があって、クーポンがあって、研修所に来る営業の紹介を入れて、およそ三十万円に収まってくれる。
夕凪の三倍近い価値がある技能だ。もし習得させてもらえれば、長生きできるに違いない。
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