第2話

 帽子の男は意外そうに背中をのけ反らせ、内ポケットに手を入れた。


「変な声出して、どうした?」

「だって、僕の三倍もするんですか? この子が?」

「そういうことか。そりゃ、しょうがない」

「しょうがないって」


 夕凪の抗議を無視して煙草を取り出す。一本咥えて、ライターの蓋を開いた。


「その子は日本人じゃない。それに合法的に暮らしてるわけじゃない。もしかしたら戸籍だって無いかもしれない」

「いなくなっても困らないってことですか?」

「というより、いなくなっても誰も気づかない。だから――」


 煙草の先が、ぼうっと赤く灯る。


「口止め料が、少なくて済むんだな」

「でも、腎臓は供給過多になってるって聞きましたけど」

「誰に聞いたんだ、そんなの。それは大陸のスラムの話だよ」

「不思議な話ですね」

「だよな。分かるよ」


 ゆっくりと煙を吐いた。

 夕凪はこれ見よがしに鼻をつまんだ。


「長生きしたいのに、煙草、まだやめないんですか?」

「そっちか」

「それに」

「それに?」

「一発三万円なのに、なんで腎臓を売るんですかね」


 帽子の男がむせた。何度か咳をして、夕凪を見下ろす。

 怒られそうな気がした夕凪は、爪楊枝の男を指さした。 


「……冗談のつもりだったんですが……」

「冗談にも言っていい冗談と、悪い冗談があるだろうが」


 爪楊枝の男が、小さく頭を下げた。

 膝の上で頬杖をついた夕凪は、黒頭巾の二人を見つめた。世の中はフクザツだと思う。腎臓をひとつ取って売るより余程ちゃんとした仕事のように思えたが、違ったらしい。

 煙草の煙が、もやのように、大人の男と子供の女を包んでいた。


「……女の子と話してみてもいいですか?」

「別に構わんが、喋れるのか?」

「多分。どこの出身なんですか?」


 帽子の男が、爪楊枝の男に顔を向けた。


「たしか、インドネシアだったと思います」

「だ、そうだ」

「インドネシア……い、い……」


 椅子から立った夕凪は、ツールボックスの最上段からメモ帳を取った。国名を復唱しながらページを捲っていく。手が止まった。

 インドネシア語の朝の挨拶がカタカナで書かれている。


「スラマッ パギ」


 読み上げると、突然、膝立ちの男が唸り出した。口に何かを詰め込まれているらしく、内容は聞き取れない。躰を捩りながら、何度も叫んでいる。

 なんでだろう、と夕凪は首を傾けた。


「……母国語が聞こえたから、興奮したんだろうな」

「いま耳のやつ取っちゃったら、女の子、怖がりますかね?」

「そうだな」


 帽子の男が僅かに顎をしゃくった。

 すると、爪楊枝の男が、唸り続ける黒頭巾を掴んだ。


「静かにしてろ。ちょっと話をしたいってだけだ」


 男が一際強く身を捩った。

 爪楊枝の男は首根っこを握り、低い声を出した。


「もう一度だけ言う。少しの間、静かにしてろ」


 唸り声が止んだ。男は、ふぅ、ふぅ、と肩を上下させている。呼吸の度に頭巾がへこんで、膨らんで、またへこむ。

 夕凪は少女のイヤーマフを首まで下ろした。


「スラマッ パギ」


 細い肩が弾んだ。心なしか躰の震えが強くなった気がする。

 ノートに目を落とした夕凪は、自分の頭の影を避けつつ、指でページをなぞった。『はい』と『いいえ』は、二行目に書いてあった。

 少女を驚かせないように、そっと頭に手を乗せる。


「ヤー」


 言って、首を縦に振らせた。


「ティダッ」


 首を横に振らせる。

 次は『分かりましたか?』だが、少し長かった。


「えっと……アパカー アンダ ムングルティ?」


 少女が、おそるおそる頷いた。伝わっているらしい。

 ページの一行目に戻り、指でなぞりながら、単語ごとに言葉にしていく。

 

「アパカー カム イングゥイン ヒドゥープ レビー ラマ?」


 言い切るかどうかというところで隣の男が暴れだし、大声で唸った。少女もくぐもった声で叫び始め、首を縦に振った。激しく、何度も、頭を上下させている。

 夕凪は慌てて少女の頭を抱え込み、イヤーマフを付け直した。

 帽子の男が煙を吐き出し、爪楊枝の男に煙草を渡した。騒ぐ男の頭を後ろに引っ張り、顔を上げさせる。


「黙れ」


 静かな、重い声だった。男はすぐに大人しくなった。やがて少女も俯き、唸るのをやめた。代わりに、躰を前後に揺すりながら、すすり泣きを始めた。

 帽子の男は預けておいた煙草を受け取り、深く吸い込んだ。


「坊主。何を聞いたんだ?」

「ごめんなさい」

「いや、別にいいんだ。何を聞いた?」

「……長生きしたいですか? って聞きました」


 ため息をつくように肺に残る煙を吐き出し、携帯灰皿に煙草を押し込んだ。


「ここでそんなこと聞かれたら、暴れるに決まってるだろ」

「でも大事なことかなって思ったんです」

「……で、なんだって?」

「え?」

「だから、長生きしたいのかって話だよ」

「女の子の方は、そうみたいです」


 帽子の男は少女を見下ろし、小さく肩を竦めた。


「分かるよ。まぁ、誰でもそう答えるだろうけどな」

 

 上から、「来ました」と、顔に傷のある男の声がした。

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