ヴェロニカのキス

睦月ジューゴ

死んだ街に響くのは

 繰り返し、繰り返し、同じ曲を聴いていた。再生しすぎて擦り切れ、音飛びが酷いカセットテープ。前時代の遺物だ。このアーティストが最後に曲を出したのはいつだっただろう。もう十何年も前になる。美咲がまだ物心つく前だ。囁くような、甘くて切ない歌声が、他の誰よりも美しかった。幻想的な旋律は慰めのようで、愛撫のようで、心地良かった。母親の胎内で守られている胎児はこんな気持ちなのかもしれない。羊水と血液がゆったり循環するような音曲。

 曲が終わるとともに、かち、とラジカセが鳴って、きゅるきゅると巻き戻しが始まる。途端に現実に引き戻される。時計に目をやると、午後の四時を指していた。なんとなくだるかったが、ゆっくりと立ち上がって、傍らに置いてあった鞄を手に取る。その中の財布を開けて、幾らか中身があるのを確かめると、今晩の献立についてしばし思案した。


 外に出ると、気が滅入る様な曇天だった。分厚い雲は今にも落ちてきそう――いや、現にゆっくり雲は落ちているのだ。重力。この星はその近くにあるもの全てを引き寄せようとしている。あの古ぼけたCDラジカセも、美咲も、「彼女」も。この星は寂しがり屋なのかもしれない。これは抱擁なのか、独占なのか。

 駅前の商店街への道をゆっくりと歩き続ける。電柱の下に溜まったゴミ袋を痩せこけた野良猫が漁っていた。がさがさとビニールが擦れる音と、生ゴミの腐敗臭が漂ってくる。足元には干乾びた林檎の芯が転がっていた。

 ふと、風に乗って、声が聞こえたような気がした。この死んだような街に響くノイズ。気になってふらふらと、闇夜のガス灯に誘われる蛾のように歩いて行くと、案外近い場所にその声の主は立っていた。

「これは天罰なのです」

 男は全身黒尽くめの奇妙な格好をして、しゃがれた声で説法をしていた。横では、ああ、とかうう、とか唸りながらぼんやりとしている少女が立っている。

「父の怒りです。我々人類は、今まさに贖罪の時を迎えているのです」

 昨今、街中で新興宗教の信者たちが喚いているのをよく見かける。各々が、各々の妄想的な終末論を並べて、救いだとか、涅槃だとか、戯言を垂れ流しているのだ。世界が終わろうとしているのだから、それも仕方が無いのかもしれないが。


 そう、世界は終わる。


 始まりは数十年前、ある天文学者の発見だった。この星からずっと遠く、宇宙の果てとも言える場所に、一つの小惑星が漂っていた。それは直径数十キロものダイアモンドの塊で、永遠にも近い時間をあてどない放浪の旅に費やしているのだった。天文学者は、その孤高な光に「ヴェロニカ」と名を付けた。それは彼の生まれたばかりの娘の名前で、その誕生日プレゼントとなった。

 そして時は流れて、ここ数年のこと。彼女、ヴェロニカは再び人類の前に現れた。場所は、以前観測された場所よりもずっと近く。その軌道は徐々に、そして明らかにこの星へと向かっていた。

そう遠くない未来に、ヴェロニカは死の口づけを落とすだろう。マスメディアは一斉に騒ぎ立て、各国の首脳たちが会談を始める。あれだけの大きさの隕石がこの星に衝突したら? 答えは言うまでも無いだろう。世界中から一流の専門家や技術者が集まり、大規模な対策本部はすぐに出来上がった。そこでは有史以前からいがみ合っていた国の人間同士でさえ肩を並べていて、皮肉なことに悠久の歴史の中で初めての完全な平和の時代が始まったのだった。

作戦は多岐に渡った。それこそ最新の科学を用いたものから、古いSF映画のようなものまで。しかし、たかだかロケットや核弾頭を、途方もなく巨大な彼女にぶつけて一体何が変わるだろ?果たして何も変わらなかった。これは物語ではないから。或いは、破滅の物語だからか。

 彼女は優雅に、悠然と、この星へ唇を近付ける。そしてこの星は、口づけを拒むことなく、寧ろ甘んじて受け入れようとしている。その重力で。

 最早抗うことさえ、ちっぽけな我々には許されていないのだと、やっと悟ってから、徐々に徐々に、世界は終わり始めたのだった。


「父なる我らが神の御言葉はこうです――……」

 聴衆もいないのに信者の男は説法を続ける。横で白痴の少女は唸り続ける。世迷言に、毛の先程の興味も無いので、美咲はその前を素通りしていった。

 世界が終わりに向かい、社会制度が崩壊した。金融、流通、教育、何もかも全てが。どうせ死ぬのだから、と人々は狂乱する。頻繁に起こる、殺戮や略奪に、日夜、機動隊が出撃し、或いはそれらが本来守るべき人々を虐げることさえあった。徐々に諦めは人々を侵食してゆく。

 そしてある時、誰かが言った。「どうせ皆死ぬのは同じだ、せめて安らかに過ごそう」と。成程それは道理だ、と皆が賛同し、まるで時間が巻き戻ったかのように、社会は息を吹き返す。農夫は再び鍬を手に取り、サラリーマンは皺だらけのスーツに腕を通す。

 誰もが皆疲弊していた。争うこと、嘆くこと、求めること、恐れること。何もかもに疲れ切っていた。だから、目を閉じた。誰もが皆、まるで何事も無かったかのように振る舞った。真実を見てしまった目を両手で覆って。そうして人々は静かに、緩やかに心中を続けているのだ。

 或いは、あの黒衣の宗教家のような人々だけ、本当の意味で今を生きているのかもしれない、と美咲は思った。それが良いのか悪いのか、そもそも生きることに善悪など存在するのか。ちっぽけな彼女には何もわからないし、わかろうとも思わない。


 商店街で食物を買い、美咲は帰路に着く。手提げ袋の中で黄ばんだ葉野菜が揺れ、かさかさと微かに音を立てている。後はひび割れたアスファルトをじゃりじゃりと踏みしめてゆく音だけで、街は静寂に閉ざされている。宗教家はいつの間にかどこかへ行ってしまったし、ゴミを漁る野良猫ももう居ない。

こんなにも広い街で、ひとりぼっちになってしまったような錯覚に陥る。それはこの星が感じていた孤独に近いのかもしれない。滅びさえも引き寄せたくなるような孤独に。だとしたらヴェロニカは単なる破壊者ではなく、この星のファム・ファタールなのだろう。赤い糸で結ばれた女にして、その糸でこの星の頸をぎりぎりと絞め、縊り殺すような運命の女。


 美咲が自宅に着くと、門前に男が座り込んでいた。彼は此方に気が付くとゆっくりと立ちあがり、微笑みながら近付いてきた。一瞬、身構えたが、美咲はすぐに警戒を解く。

「よ、久し振り」

 何のことは無い。隣人にして幼馴染の光博だった。

「あのさ、お前、家に居なかったから、ここで待ってたんだ」

 買い物行ってたのな、と光博は一人で納得する。特に間違って無いので、無言を以て返答すると、相変わらずだな、と屈託なく笑うその顔も、同じく相変わらずだった。

「それで、用事は?」

「ああ、うん……用事だけど」

 本題に移った途端に、光博は口ごもる。いつも多弁な彼にしては珍しいことだ。急かすでもなくただ沈黙を続けていると、ややあって、彼は決意したかのように口を開いた。

「俺、お前のこと好きだ」

「そう」

 再び時が止まる。そして凍りついたような光博の表情が瓦解して、へなへなとそこにしゃがみ込んだ。

「そう、ってお前……。なんかもっと反応ねぇの?」

 恥じらうとか、喜ぶとか、あと……嫌がるとか、何かレスポンスは無いのかよ。勝手に一喜一憂を続ける彼はまるで道化だ。そして美咲は観客ですら無い。ただそこに存在するだけの人形のように、全てを受け止め、流してゆく。昔からそうだった。しかし、今は意味が違った。無関心なふりではなく、虚無がそこにあった。

「だって、意味ないよ」

 美咲は目を閉じ、微かに口の端を歪めて笑う。

「私たち、もうすぐ死んじゃうのに、意味無いよ」

「いいや、ある」

 言葉尻に重ねるように、光博は畳みかける。

「お前と最後まで一緒に居たい、っていう立派な意味があるね」

 それは、単純な言葉だった。ありのままの感情を吟味せずにぶつけただけの、稚拙で幼稚な愛の言葉だった。

「馬鹿みたい」

 思わず呟くと、光博は顔を、くしゃりと歪めていつものように笑う。

「知ってるだろ?俺は馬鹿だよ」

「なんなの、それ。漫画読み過ぎ」

「だって、俺、何て言ったら良いのかわかんなかったから」

 ばか、と光博にもう一度言うと、何故だか胸が熱くなって、涙が滲んできた。顔を見られたくなくて、美咲は光博に背を向ける。

「……晩ご飯、うちで食べてきなよ」

 後ろ手彼が笑っているような気がしたし、実際そうなのだと思う。


 限られた時間の中で、どうしようもない孤独の中で、人は誰かを求め、星はその引力で全てを惹きつける。この世界に存在する全ては他の何かを求め続けている。皆、それぞれ孤独を抱えているのだから。

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ヴェロニカのキス 睦月ジューゴ @eeesperancaaa

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