第7話 陽の光を乞う決意

 「忌々しい……元老どもめ!」

 室の仕切り幕を男のようにばっと引き上げて、ファラマファタが現れる。

 吐き出すように呟いた言葉に、アンジャハティは顔を曇らせた。長椅子に身を預ける彼女の前に立ったファラマの顔には、血の気がまったく感じられない。


「いかが致しました、ファラマさま。お顔の色が……」

 すっと身を起こしたアンジャハティは、ファラマのために長椅子の端へ寄りながら尋ねる。声が震えたのは、彼女の表わす態度に悪い知らせを感じ取ったからだった。

 ファラマファタは深い溜め息のような吐息を口から搾り出すと、唸るように言った。


「釈放の見込みが無くなったぞ――第四皇子ディルージャ・アス・ルファイドゥルのな」

「な……!? 何故、ですの…」

 目の前にちかちかと星が跳び、アンジャハティは自分の身体の感覚が無くなっていくのを感じた。

「しっかりするのじゃ」

 すっと差し出されたファラマファタの腕に抱えられ、震える手で長椅子の縁に掴まる。


 ワルダヤ・ハサリの働きで、テナン公国の第五公子――アエドゲヌ現帝の隠し種である少年は、小姓身分に身を置くことになっていた。

 軍での昇進に小姓の制度を奨励する帝国内では、たとえ親であろうとも「所有物」である小姓を動かすには主の許可が必要だ。


 ワルダヤはテナン公国の血筋だが、属するサプリズの家名は皇帝直轄領サグエにおける最旧家のひとつ。皇帝を産んだ妃を何名も輩出している家柄には、現帝でさえも迂闊に口を挟めない。

 小姓になった第五公子を、たとえ親でも公王であっても、簒奪の糧にすることはできなくなるというわけだ。


 第五公子を〝皇太子〟にできないとわかれば、皇帝もディアス釈放を許可するはず、……だったのだが。


「四公国を黙らせたと思えば、今度は皇帝直轄領サグエの元老どもだ。やつらの言うには〝要は新しい皇子が生まれればよい〟のじゃと。狂った皇子を放すには、それなりの準備もいるという。新しい子が日の目を見て、皇子だとわかれば、わざわざ危険を冒すことは無いとな。……どういうことかわかるか? アンジャハティ」


 まくし立てるように言ったファラマファタは、じっとアンジャハティを見上げる。アンジャハティと比べてずいぶん小柄な女性だが、黒檀のような肌に浮かぶ二つの栗色の瞳は、威圧に溢れて輝いていた。


「わたくしの……この、腹の子ですのね」


 アンジャハティはトスカルナ家の出――いわゆる皇帝直轄領の血筋だ。四公たちと常に対立関係にある皇帝直轄領の貴族たちは、その出身者であるアンジャハティの懐妊を、心から歓んでいる。


 この期につけこむには、恰好の時機。テナン公子の名を次期皇帝の座から降ろし、我々の元に権力を集める――それも出来得ることなら〝狂った〟と噂されるディアスを呼び戻すことなく――ためには、アンジャハティはまたとない時間稼ぎになる。

 ……満場一致で反対されているディアスの解放を、拒む理由がまた一つ増えた。


「……わたくしたちは、あくまで皇帝直轄領の派閥。こちらの血筋を守ると言われて、言い返す権利は無いのじゃ。おまえの腹の子が女児おなごであったなら、少しは希望もあろうが…、子の性別を黙って待っておるほど、四公たちも人が善いわけではない。そうなれば、果たして無事に産めるか否か」

「そんな、」


 希望にしてきた我が子が、その希望を奪うかも知れぬ存在になるなどと。

 アンジャハティはしっかりと膨らんだ腹部に手を当てて、目を閉じた。憎しみでしか――嫌悪でしかなかったはずなのに、こうして胎動を感じているうち、どんどん強くなるのは愛しさばかりだ。

 はっきりと示された暗殺の可能性に、肝を縮めて待っているしかないのか。


「アンジャハティ、おまえには二つの選択肢がある」

 腹に手を当てたまま、黙り込んだアンジャハティを覗き込むように、ファラマファタは身を傾げた。

「ここに居て〝皇帝の子〟を失うか、逃げて〝我が子〟を無事産むか――」

 静かな口調には、まるで子供を諭すような柔らかさがあった。

「ファラマさま……」

「暗殺はよもや逃れられん。ここで子を失う時は、おまえの命も無いことじゃろう。考えるのだ。死んでまで、妃として歴史に名を連ねることはないぞ」


 ディアスを助け出す――そのことばかりを考えて、あの日から生きてきた。けれど、ここで自分が選択せねばならぬは、彼の命などではなかった。

 半年以上もともに、彼の無事を祈ってきた半身……。


「逃げます、ギョズデジャーリヤ・ファラマファタ」


 よく考えたわけではなかった。弾けるように口を出た言葉が本心だったのかも、未だによくわからない。

 けれど決して後悔はしない――それだけを我が身に誓って、アンジャハティは深々と頭を下げた。



 * * *


 陽の光も射すことはなく、ささやかな風すら吹き抜けることがない。

 ただひたすらに続く闇と、嘔吐をさそう腐敗臭……


 血のようにも、肉が腐ったようにも感じられるその只中で、

 

 ひとりの男は変わっていった。

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