第6話 ファラマファタの灯り

 寒い夜がつづいていた。

 砂漠から少しだけ離れた帝都は、それを囲むバッソス公国ほど昼夜の気温差はない。しかし冬が近づくにつれ、昼は渇いた暑さがじりじりと身を焼き、夜は冷たい寒さが頬を突くような、砂漠特有の気候が目立ちはじめる。


 陶磁でつくられた床を裸足で歩きながら、アンジャハティはその冷たさに肩を竦めた。駱駝の毛でできた薄手の外套を羽織っていても、鼻から入り込む冷えた空気が体中を凍らせるようだ。


「……早く行かなくては、」

 目的地は皇帝陛下の寝室。

 第四皇子がギスエルダン牢獄に拘束されて以来、二月ほども時が経つ。

 第一皇子殺害の容疑はとっくに晴れているはずのディアスの釈放を、幾度となく収集された元老院はなぜか拒み続けている。それどころか、不可解な死を遂げた第二皇子、第三皇子さえも彼の糸引きだと言い始める始末。


 ……このままでは、ディアスは死んでしまう。

 ギスエルダン牢獄は主に重罪の政治犯を監置する牢城。帝都から遠く離れた砂漠にあるため食物の運搬が潤滑でなく、あげくに管理すら行き届いてない状態だという。地下洞にもぐりこんだ構造を持つ陰湿な<城>では、食事もろくに与えられず体罰さえ茶飯事だった。


 噂は色々あれど、実際、生きて出た者がいないのだからどうにもならない。ディアスをギスエルダンから解放する手段は、皇帝陛下が「出せ」と命じることのみ。なのにディアスを除く皇子の殆どを失って、実質〝帝位〟を継ぐ者がひとりもいない現状で、皇帝がディアスを案じているそぶりは全く耳にすることがない。


 皇太子の位も、死後のラジル皇子に授けられたままだ。本来ならば、一刻も早くディアスをギスエルダンから引き戻して、皇太子の位を授けるべきだというのに。

 愛妾が政治に口を出すなど懲罰ものだが、皇帝陛下と直接口が利ける立場にある現況に、アンジャハティは賭けるつもりだった。


 今日、元老院が解散される。冬の季節は自らの領地で過ごすのが大元老をはじめとした議員たちの風習。

 今日を逃せばディアスの解放は年を越してしまうことになる。一刻も早く皇帝の元に走り、「解放して皇太子に」と奏上することぐらいしか、アンジャハティにできることはなかった。


 元老院の収集は早朝。陛下が起き出してくるまで、まだ余裕はある。けれどアンジャハティに宛てがわれた私室はハレムの中でも末端の区画。急ぎ足で進んでも、間に合うか否かというところだ。


 そんな長々と続く回廊を、右へ曲がり左へ曲がり、時には庭を突っ切って、必死に向かう。

 どれぐらい走ったことか、皇帝陛下の私室のある庭の前にようやく出ることができた。アンジャハティは息を切らしながら、さらさらと湧き上がり水音をたてる庭の泉を、目を細めて見やった。


「陛下……」

 回廊を回っていくより、この庭を横切ったほうが早い。アンジャハティは逸る気持ちを抑えられず、庭に足を下ろした。

「おやめ」

 強い力が右腕を掴んで、上方へと引き上げられる。

「ひっ!」

 小さな悲鳴を喉奥で発して、アンジャハティは右腕を掴む何者かの指先を、辿っていった。


「あ……なたは」

「その紅い髪はジャーリヤ・アンジャハティだな。まさかお前、陛下のご寝室に押し入るつもりじゃなかろう?」


 緩やかに編まれた漆黒の髪と、黒檀のような艶やかな肌。闇そのもののような顔にふたつ、柔らかい栗色の瞳が並んでいる。そこだけ異質とも思える瞳が険しげに細まって、「聞いておるのか」と棘のある声が鳴る。


「ギョズデジャーリヤ・ファラマファタ?」

 別名を、ファラマ公女――テナン公国が唯一、自国から送り出した皇帝の側室。一番家柄がよく、一番先にハレムへと上げられた女性だが、皇女を三人儲けて以来、寵愛を失ったと囁かれている人だった。自分の母と同じくらいの年齢であったか。整った顔からは全く年齢を感じさせないが、それでもアンジャハティより二周り異常も年上に違いはない。


「厄介ごとを連れてきたものよ。陛下のジャーリヤが、〝情夫を助けてくれ〟とご寝室になだれ込むなど、前代未聞」

「情夫ですって……!」

「違うというのか? この時機からみて、わたくしがそう感じたのは無理もないことと思うぞ」


 そんなことはないと、言えたものか。けれど例えそう解釈されてしまっても、ここで引き返すことなどできない。人ひとりの、命すら関わることだというのに。

 反論を口に出そうとアンジャハティの唇が震えたのを横目で見やって、ファラマファタは静かに言った。


「見えるか? あの明かりが。今陛下のご寝室には、小国のあばずれが居る」

 驚いて見つめたものの、栗色の瞳は嫉妬に燃え上がるどころか、静かな色を浮かべている。じっと室のほうを見つめて、ファラマファタは小さな息を吐いた。

「わたくしはな、こうして夜毎、ここで夜を更かすのじゃ。自分の伴侶となるはずだった男が、新しい女を次々と捨て行くざまをな」


 わびしい女であろう、そう笑ってアンジャハティを見たファラマファタの瞳は、もう笑みを浮かべてはいない。ただ探るような眼差しが、じっとこちらを見上げている。


「――第四皇子は狂ったそうじゃ」

 はっと、アンジャハティは目を開く。ファラマファタは栗色の目をわずかに逸らし、月の光をあびて白い輝きをみせる泉を見やった。

「という話を、元老のやつらがしておるそうな。皇太子として再びこの地へ戻しても、もはや手遅れだと。狂っておらぬと言うやつもいるが、それで出てきたとして、果たして皇帝に恨みを持たぬものかな? ――なんということはない、アエドゲヌ帝は、報復を恐れておるのよ」


「四公ですの……そのようなことを吹聴するなんて、」

「であろうな、如何にもわたくしの弟が考えそうなこと。それで自分の息子を皇太子に、などと申しておる。これほど馬鹿な話があろうか」

「息子……?」

「末の公子じゃ。テナン公は妃を、アエドゲヌ帝に差し出したことがある。その時の子が、第五公子コンツ・エトワルト……もう十二にもなろうか」


 皇帝の血をひく息子が、もうひとり。


 ――では、跡を継ぐ者が〝全く無い〟わけではなかったのだ。自分の血を持つ健全な公子…いや皇子が、テナン公国ですくすくと育っているなら、ディアスをギスエルダン牢獄から早急に出す必要もなくなる。

 頭の中を、冷たいしびれが満たしていく。いくら自分が頼み込んだとて、皇帝は首を縦には振らなかったということか。


「そう。アエドゲヌ帝の目前で頭を床に擦り付けても、無駄じゃったな」

「でも、どうして……」

 あそこで引き止めていなかったら、アンジャハティは間違いなく懲罰を受けていた。妾妃であるファラマファタにとって、敵となる愛妾が減っていくのは好都合だったはず。なのに、なぜ止めてくれたのか。

 アンジャハティは力なくファラマファタをじっと見つめる。


「己が何を考えておるのか、わたくしにもわからぬ。じゃが、あまり気の快いものではないとは思わぬか。皇帝の室に押し入ったジャーリヤの首が、目の前の庭に転がる様というのは」

「それは……」


 アンジャハティは目を細めて、息を吐く。想像することはやめておこうと、意識の端で思い直した。

「けれど……わたくしも、ディアス殿下を助けなければならないのです。首が転がるのを防いでいただけたことには、感謝いたします。真実を教えていただけたことにも」

「感謝している顔ではないがな」

 くつくつと軽やかな声で笑って、ファラマファタは歩き出した。


「じゃが、このまま放ったら、お前は首を転がすであろう。ついて来るがよい。面白いものを紹介しよう」

 ファラマファタが纏う黄はだ色の衣装が、ふわふわと揺れて去っていく。アンジャハティは自らの真っ黒な喪衣装の胸元を掴み、そのすそを慌てて追った。




 ファラマファタの私室は、以外にもアンジャハティの室の近くにあった。皇帝の室とは間逆の、ハレムでも末端に位置する北東の区画。けれど彼女の足は、私室では止まらなかった。室を過ぎ、回廊をぐるぐると歩き、北端に出て、ようやく振り返る。


「ここが何と言われておるか、わかるな?」

 暗がりのせいで灰色に見える、分厚い壁。突き当たりの廊下の壁には、小さな扉がついている。

「……はい」


 死ぬまで出られないと言われる後宮ハレムの、唯一の「出口」――死の扉。

 頷くアンジャハティを見やり、ファラマファタは長い衣装の袖を傾けた。するりと小さな音がして、銀色の棒のようなものが出てくる。細い金属のそれは、先のほうをところどころ複雑な形に折り曲げられている。鍵のようで、鍵ではない棒。


「いずれここから逃げねばならぬ時もこよう。その時にはお前にこれをやるから、覚えておくのじゃぞ」

 そう言って、その棒を扉の錠前に開いた穴へと差し込む。ちきちきとしばらく手首を動かしたかと思うと、ふいにかちり、と鍵の開く音が鳴る。

「開いた」


 錠前は、全部で十にもおよんだ。それらのひとつひとつを、ファラマは一つの鍵で開けていく。覚えておけ、といわれても、並大抵の所業ではない。

 最後の鍵が開き、ファラマが小さな扉を押すと、ぎしぎしと金具がうなる音をたてて、暗闇がぽっかりとあいた。


「入るぞ。わたくしの後について、潜ったら一言も喋らぬようにいたすのじゃ。いいな?」

 アンジャハティは頷いて、言いつけどおりに低い姿勢をとったファラマの背中を追った。

 久しぶりのハレムの外の空気……乾いた土を擦る足裏の感覚を感じながら、アンジャハティは腰を上げた。


「どうじゃ、巧くいきそうか」

 ファラマがひそめた声でつぶやく。はっとして彼女を見やるが、その視線は自分には無い。辿ってみてようやく、暗がりに誰かが立っているのに気づいた。影のようだった人物は、音も無く近寄ってきて、足元に膝を折る。


「なかなか巧いようにはいかんものです」

 返ってきた声色は、男のものだ。低く、どこか軍人を思わせるような雰囲気。

「……ふん、お前しかおらんのじゃぞ。早く公子を口説き落とさんか」

 捨てるように吐き出した言葉だったが、そのあとにファラマは小さく笑った。

「やはり、 育て親に似て腹の立つやつなのか?」

「いいえ。どちらかといえば、公妃に似ているのでしょう。純朴で、穢れを知らんような坊主です。ところでその方は……お一人ではなかったので?」


 男が、ふとアンジャハティに目線を上寄こす。暗闇に並ぶ茶みがかった濃い色の瞳を見て、アンジャハティは戸惑った。

 喋るなといわれているから、自分を紹介することができない。隣に立つファラマを見やると、彼女は囁くように答えた。


「同志ぞ。トスカルナ家の才女、いずれ家名を継ぐことにもなろう娘じゃ」

「……ファラマ殿、あなたさまは一体どこまでお考えなのですか。――トスカルナの姫、俺はワルダヤ・ハサリ。今はそれしか言えませんが、いずれまた顔を合わせることもありましょう。お見知りおきを」

 アンジャハティは戸惑いながらも、また頷く。


「喋るなと申し渡しておる。いらぬことを口走りそうなのでな。とにかく、お前は一刻も早くテナンの末公子を引き抜くのじゃ」

「わかっております。このまま帝位をテナン公国へくれてやるような真似は致さぬと、これだけは約束を」


 男は一礼ののち、すっと闇に解けて去っていった。こんなに渇いた道が続いているのに、微かな足音さえ聞こえない。


「……では、アンジャハティ。謎解きをしようぞ。わたくしたちは、何をしようとしているように見える?」

「――あ、」

 ファラマファタは、口の端をわずかに引き上げて、笑った。



 ワルダヤ・ハサリ・サプリズ――のちに帝国近衛師団、団長にして大佐の任につく男であった。

 テナンの縁の者に皇太子位を、そしていずれは帝位を――簒奪を企む四公たちの策謀の中、彼は見事にテナン公国の第五公子コンツ・エトワルト・シマニを、小姓として帝都に下らせる。

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