第5話 漆黒の闇

 漆黒の闇。……覚えている色彩といえば、それだけだ。

 皇帝のハレムへ移る前の晩、アンジャハティは戻されたトスカルナの邸宅で一人、寝台にうずくまり泣いていた。自分はどうなってしまうのだろう……そんな独りよがりな悲しみだけが、頬を濡らし続ける。


 逢いたいと願っても、逢えるはずがない。

 第四皇子と恋仲を噂された女が、第一皇子のハレムに入宮し、あろうことか皇帝の子を身籠みごもってしまった。こんな醜聞スキャンダルを、皇家が甘んじて見逃すだろうか。第四皇子も第一皇子も、厳重な監視下に置かれたと聞いた。警備をすり抜けたとして、ディアスがここまで辿り着ける可能性は無いに等しい。


「ディアス……」

 本人を前に呼ぶことの許されなくなったその名を、擦れた声でつぶやく。


 ごめんなさい、ごめんなさい。こんなことになるならば、いっそあの時に懇願していればよかった。――自分を連れて逃げてくれと。けれど結局は、同じような結末に転んでいたのだろうか。自分たちに終着はないのだと、運命はあざ笑う。


「綺麗な声が、擦れてしまいますよ」

 囁くように柔らかな声が、振り降りてくる。うずくまる背をゆっくりと撫でる暖かい手のひらを感じて、アンジャハティは顔を上げた。

「……お母様」

「おかえりなさい、アン」


 久しぶりに見上げる母の顔は、慈悲を願いたくなるほどに優しく、美しかった。室内をヴェールも被らず歩く少女のような人。隠すことなくさらされたその懐かしい顔を見つめていると、いっそう涙が溢れてくる。

「私……おかあさま、」

「ここで殺されようとも、アン。母はいつでも、あなたの味方ですからね」


 母はゆっくりと微笑んで、その顔をすっと引き締める。移した視線の先に、何があるのか――その方向に目を向けてから、アンジャハティは震えた声を上げた。


「ディア……!!」

 窓の向こう。暑い夏の日々と何ら変わらぬ場所に立つ彼の姿を見つけて、驚嘆した。どうして……、ここへ来られるはずがないのに。厳重に張られた警戒の中を、いくら彼とて単独では……、

「まさか、お母様、」

「ああ、母君にご案内頂いた」

 母の代わりに、低い声が答える。五月ぶりに見る彼は、どこも変わることなく、静かにそこに佇んでいた。


「アンジャハティ」

 もう二度と、呼ばれることがないと思っていた。

 アンジャハティは近寄り来る彼の顔を見上げて、その胸に飛び込もうとした足を留めた。……湧き上がる罪悪感が、彼にすがることを寸でのところで制する。


「ディアス……」

 俯いて、唇を噛んだ。何と言えば、いいのだろう。〝会いたかった〟、〝愛している〟、〝怖かった〟――色々な言葉が脳裏に浮かんでは消えていって、結局、何も言うことはできなかった。彼の名をつぶやいたまま、彼に抱きしめられるまで、糸の切れた人形のように立って。


「すまない、アンジャハティ」


 包みこむような腕の中で、耳元でささやかれた贖罪の言葉に、アンジャハティは目を固く閉じた。

 胸が痛い。閉じた目の縁から涙が幾筋も流れたけれど、痛みのせいで、心臓が泣いているようにすら感じられる。


「どうしてあなたが、…謝るのですか」

「俺が謝らなくて、他に誰が謝るんだ。皇帝も第一皇子も……俺も、貴女を苦しめすぎた。すまなかった、アンジャハティ」

「そ…んな、ディアス……謝らなくてはならないのは、私の方ですのに」

 彼の広い胸板に、うずめていた顔を上げる。柔らかな感触が唇を覆って、大きな手が頬を掴んだ。


 似ているけれど、まったく違う。親と子では、まったく。その証拠に、彼はこんなにも優しい。

「まだ間に合う、アンジャハティ。その腹の子は、俺の子だと皆に言うんだ。少なくとも、どちらの子か分からなくなるぐらいにはできる」

「でも、そんなことをしたら……」


 子の父親など、口先だけでどうとでもなる。五月いつきのあいだ一度も会わなかった事実を、捻じ曲げればいいだけ。陛下と変わらぬぐらい毎日、ディアスとも会っていたと訴えればいいだけだ。――けれど、それをしたら彼の立場は。


「危なくなったら逃げればいい。俺はその子を我が子と思う」

「ディアス…」

 嬉しさに、涙がまた零れだす。くしゃくしゃになったアンジャハティの顔を困ったように眺めて、ディアスは笑った。


 頬を掴んでいた指先が、睫毛に光る涙のしずくを受け止める。幼少から剣を扱っているせいで、彼の手は太く節くれていた。誰よりも熱く、頼もしい。この手に守られることが幸せだと、思える。

 彼の肩に両手をついて、背伸びする。顎元までしか届かないけれど、心を込めて唇を寄せた。


「ありがとう、ディア…」

 ――だが、その時だった。聞き覚えのある悲鳴が、宮の中から聞こえたのは。

「……お母様の…声ですわ…」

「何が、」

 はっとして、ディアスが振り返る。

 その視線の先を追って、アンジャハティは目を見開いた。


 武装した十人もの兵士たちが、宮の内側から、仕切りの幕を突き抜けるようにして雪崩れ込む。


「第四皇子ディルージャ・アス殿下。第一皇子ラファエ・ジルダン殿下が先ほど、何者かの手により逝去なされました。ディアス殿下の逃亡に、ラジル殿下弑逆の嫌疑がかかっておいでです」

「ご同行願えますでしょうか」

 口調だけは礼儀を重んじながらも、手に抜き身の湾刀を握り、胸当てをしている兵たちの姿は、およそ皇族に対するものではなかった。


「ラジルが殺されただと……? お前達、ここをどこだと思っている」

 トスカルナも、皇族に名を連ねている家柄。帯刀のまま宮に踏み込むことは、例え軍人とて許されることではない。ディアスはきつい口調で、取り囲む兵たちの顔を睨みつけた。


「トスカルナのご令嬢を前に、ご無礼をお許し下さい。しかし皇族殺しは重罪。例外をお認め下さるよう願います」

「ディアス殿下を疑うというの…?!」

「……弑された時刻に、軟禁されているはずのご自分の宮にいらっしゃらなかったのですから、疑いの目は避けられぬことかと存じます。――さあ、ディアス殿下、元老院が収集されるまでギスエルダンに」

「ギスエルダン…?! 牢獄ではないの!」

 ギスエルダン……重罪を課せられた罪人を、生涯に渡り監置する地下牢。曲がりなりにも皇族であるディアスが、元老院が収集されるまでの〝一時〟を過ごさねばならぬ場所に、相応しいものではない。


 人はギスエルダンを、死ぬよりも酷な場所だと言う。未だかつて「この世の地獄」とあざなされるそこを、生きて出られた者はない。


「陛下のご命令なのです、アンジャハティ姫。どうか背かれませんよう」

 すっと一礼をした後に、先導らしい兵の一人がディアスを見やる。

 険しい顔を浮かべて、ディアスはアンジャハティを振り返った。

「ディアス……」

 伸ばされた手を掴むと、彼はわずかながらに微笑んだ。


「疑いはすぐに晴れる」

 大丈夫だ、そう頷いた後、兵たちに目を向ける。

「皇帝陛下のお達しならば、従おう」



 ――ディアスがギスエルダン牢獄に送られて間もなくのことだった。第一皇子に続いて第二皇子、第三皇子までもが不可解な死を遂げ……、

 アンジャハティの腹部は、皇帝のハレムで膨らみ始める。


 けれど時が経っても、収集された元老たちが、一時監置された第四皇子の釈放を認めることはなかった。

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