第8話 葡萄の果実酒

 逃げます――いざ口に出して言うと、一気に体から力が抜けていった。

 後悔はしない。けれどそれは、あまりに重い言葉。


「用意はさせてある。リマに住んでおるわたくしの遠縁の者じゃ。放浪癖のあるやつだが、医師としては立派な女でな」

 アンジャハティはファラマの言葉を、一度頭の中で反芻させて、首を傾げた。


「医師?」

 逃げるのだから、てっきり預けられるのは屈強な兵士だと思っていたのだ。権力、武力、血脈――それらすべてを腹に宿す自分を殺そうと追うのは、やはり武人であるはずと。それをかいくぐって逃げるのに、女性と二人で旅とは…いささか危険にも思える。


「安心せよ、身重の体で旅など無理であろう? じゃがあの女なら可能。ちょうど今イクパルに渡っていると聞いたからな。男よりも男らしい奴じゃ。多少の手の者からは防げる腕も持っておるし。あとはページスフに身の回りの物を整理するよう言いつけた。連れて行くといい」

 ファラマの言葉を待つように、背後から肌色の薄い女が現れる。

 何度か見たことのある、ファラマに従う侍女だった。


「ページスフはリマ人の父とメルトロー人の母を持つ。どの国でも通じる容姿というのは、旅において貴重ぞ」

「ありがとうございます……」

 言い切ってから、くっと喉奥が引きつった。焼けるように、じわじわと胸が熱くなる。……泣いてはいけないのに。

 涙を堪えてじっと俯いていると、ファラマの小さな手が背中に置かれた。


「悲しみは流してしまえ。これからは、泣く暇も無いほどに過酷じゃぞ」


 ふっと顔を上げると、冗談を言いながらも優しさを崩さぬ、彼女の顔があった。アンジャハティは思わず笑ってしまう。けれど、笑顔で細めた瞳の端から涙がこぼれ落ち……、そうなればあとは堪えなどきかなくなった。

 ファラマの腕に縋り声を嗄らすまで泣いて、もう本当に泣くのはこれが最後だと、何度も自分に言い聞かせる。


 さようなら、ディアス。裏切ってしまって、ごめんなさい。

 あなたを助けることを諦めて、ごめんなさい。




「アンジャハティさま、お疲れではありませんか。そろそろお休みくださいまし」

 どれくらいの時間が経っただろう。すっかり辺りは暗くなり、気づけば回廊に橙色に揺らめく蝋燭が灯されていた。

「ではわたくしも戻ろうぞ。気分は落ち着いたようじゃからな、休むとよい」

 垂れ幕をめくって、しずしずと入りきた侍女に微笑んでから、アンジャハティはファラマに向かい、「そういたします」と答えた。

 栗色の薄い瞳を柔らかく細めて頷き、ファラマは長椅子から立ち上がる。


「……ああ、そなたには礼も言わんとな」

「お礼……ですか? 感謝しきれぬのは、私のほうですのに」

 ファラマは行きかけた背中を小さく竦めてから、ゆっくりと振り返る。

「そなたの世話をやくのは存外楽しいものであった。おかげで最近は、自分の寝台でぐっすり眠れる」


「あ、」

 アンジャハティは目を開いて、静かに頷いた。

 ファラマファタと出会ったのはハレムにあつらわれた、皇帝の私室に向かう庭でのこと。


 毎夜、別の女の人生を壊してゆく〝伴侶となるはずだった男〟を……彼女は日夜じっと見据えていた。冷え込む夜をたった独りで、静かに過ごす辛さはどれほどのものか。けれど彼女の口から皇帝に対する憎しみが漏れ出ることは一度もなかった。

 ぼんやりと灯りの見える室を見つめていたのは、湖面のように静かな瞳だった。


「そなたを世話するのがこれほど楽しいなら、そなたの子を抱くのはもっと楽しく、喜ばしいことであったろうな。わたくしはこのハレムからは、死ぬまで出ぬ。じゃがそなた等のことは、遠く離れても案じておるぞ」

 アンジャハティは微笑んで、深々と頭を下げる。


「最後まで、子供のように甘えてしまい、申し訳ございませんでした」

 ファラマが室を出て行くと、奥から先ほどの侍女ページスフが現れる。

 リマ王国の血を持っているだけあり、肌の色は薄く髪色も艶やかな黒だ。生粋のメルトロー人とはまた違い、雪のような白さと麦穂に似た濃金ではないが、鼻筋に浮かぶわずかなそばかすが、彼女の色の白さを際立たせている。


「葡萄の果実酒でございますわ。明日を出発に控えては、なかなかお眠りになれないでしょうから」

 目の前で礼をとると、赤っぽい、甘い匂いのする液の入った杯を差し出して、彼女はにっこりと笑んだ。


 ありがとうと頷いて、アンジャハティは杯を一気に飲み干した。甘い味と酸味の向こうに、ほろ苦いような独特の味を感じる。

 葡萄の果実酒を飲むのは初めてだった。けれど酒独特の味よりも、苦味と舌の痺れがふと気になる。


「ふひぎがあじ……」


 とっさに口を抑えて、アンジャハティは表情を固める。

 舌が回らない。

 酔った云々ではなく、嫌な痺れがびりびりときている。

 しまった――……、


「ジャーリヤ・アンジャハティ?!」

「うぐ……っ」

 襲い来る激痛は、まるで鈍器で乱れ打つように、下腹に狙いを定めていた。飲み込んだ液体が、ごうごうと煮えたぎるように感じる。

「お腹……が、」

 腹を抱えてしゃがみ込み、つっと足を伝う一線の赤い雫を見たとき、アンジャハティは叫んでいた。


「いやあああああぁぁ!!」


「ジャーリヤ・アンジャハティ!! 誰か……誰…………きゃああ!」

 ページスフの悲鳴が聞こえて、どさり、目の前に何かが転がる。それが先ほどまで、笑顔で自分に給仕してくれていた少女だと気づいて、アンジャハティは慌てて目線を上に上げた。


「誰ぞの仕業か、腹の子は降りたようだな。だが念には念を入れねばならない。姫よ、許せ」

 簡易の鎧を着て体型と顔を隠した男たちが数人、アンジャハティを取り囲んでいた。

「い……いや…」


 ずるずると立ち上がり、男たちの隙間から逃げようと駆け出す。――が、焼けるような痛みがざっくりと背中に走り、アンジャハティは前へとつんのめって倒れた。

 背中を斬られたのだと悟るまで、しばらく時間を要した。恐る恐る振り返った視線の先に、血のしたたる湾刀を構える男の姿が目に入る。


「ひっ」

「悪く思うな、ジャーリヤ・アンジャハティ。我々はなんとしても、」

 悲鳴を上げる隙もなく、刃が腹へと下りてくる。

 もうだめだ――死を覚悟して、アンジャハティは両目を固く結んだ。


「なんとしても、我が公子を玉座に――」


 忘れようと思ったはずなのに。真っ暗な瞼のうらには、最後にみたディアスの真剣な顔が、焼きついて離れなかった。

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