感想が書けない人へ

矢田川怪狸

第1話

 ネットで小説を書くようになって、それに関連する情報をあさっているうちに気が付いたことがある。


 もしかして、ネット小説に対する感想って価値が高すぎない?


 ネット小説の情報に付随して芋づる式にぞろぞろぞろぞろ湧いてくるのが感想やレビューについての『私見』……ここ、大事なのでもう一度言いますよ、『私見』です。

 ならばここで私が感想についての私見を言うのも自由なはず。もしもこれを読んでいる人の中に感想を書く書かないかでお悩みの方が居りますならば、ここで声を大にして言いましょう。


「あなたの考えは間違っていない」


 感想の所有者は感想を書いた本人のものであり、その形やスタンス、とらえ方も千差万別であるのが自然な形であります。作者はいかに感想を贈られようが、自分で感想を貰ったつもりでいようが、決してその感想を所有することはできない、なぜならば感想は感想の書き手の心に刻まれた、感想の書き手自身の所有物だからです。

 あなたが感想を書きたいと思うのも、作者を喜ばせるような文言を贈りたいと思うのも、逆に感想を書かないのも、すべてが正しくて誰にも責められるべきではないのです。


 ところがネットには、好きな作者にどんどん感想を伝えよう的な言葉が何度も上がります。「好きな作者に好きだと伝えるのをためらってはいけない」的なあれです。誇張されて「あなたが好きだと伝えなかったばかりに、書くことをやめてしまう作家さんがいるかもしれない」までたどり着くと、いい加減にせいよと思ってしまいます。

 いいですか、これらの言葉は嘘です。

 世の中にはあっさりと好きを伝えることができる人もいれば、愛の告白に準備に準備を重ねてなお勇気が出ずに、ラブレターを破り捨てる人だっているじゃないですか。好きの閾値が個々に違うのに足並みをそろえさせようとするのは無理というものでしょう。

 しかし、別の側面からは真実であると、それもここに書いておきましょう。

 出版にこぎつけた作者が、「ここまで来ることができたのは読者の応援のおかげです」ということがあるとしましょう。その時、過去に頂いた感想のことなど思い出しているかもしれないですね。他人からいただいた言葉というのはここ一番のところで気持ちの起爆剤となるものですから、読者からのたった一言で執筆を続けているという作家さんもいるに違いありません。

 ただし、一例であり、結果論です。創作をしているすべての人に当てはまる大原則ではなく、また、創作家に送られたすべての感想に当てはまるものでもなく、あくまでもそういったケースもあるだろうという話ですよね。

 もしもこれが実際にそういった感想に励まされた作者が、「私のいただいたちょっと素敵な感想」的に話すとき、これは実に好ましいものに思えることでしょう。その後ろに「そういったことがあって今日の私がある、だから、自分の好きな作家には、臆することなくよき感想を贈ってやってください」とでもつければ、これはもう、感想を贈ってみようかという気にもなるはずです。

 ところが、これが伝聞形になると、途端にさもしいものになる。


「……ということがあってですね、もしも好きな作家がいるならば、積極的に好きを伝えに行くべきですよ」


 なぜにこれがさもしく思えるのか、伝聞形の文脈の中で語り手本人が『行動』していないからなのだが、自作がいかに素晴らしいかをとうとうと語る作家様ですら、この話題に関しては文脈づくりに失敗していることがあって、かなり笑う。

 相手に好意を持ってもらうための文章としては「……ということがあって、僕は積極的に自分の好きを作者に伝えるようにしているんですよ」がふさわしい。これは語り手本人の信念であり、それに共感するもしないも聞き手の自由、つまり相手の自由を奪わない文脈であるからです。

 さて、こうした無意識のうちに圧をかける文脈に触れた時に人はどう思うか、ぼく個人の感覚でいえば、感想を贈らぬ自分が悪者であるかのように感じるのです。もしくは不安。

 悲しいことに学校教育の場で『ポジティブこそ良い子の証!』と躾けられた僕たちにとって、「好きだといってあげる」という超ポジティブな行為は『良い子の証』に他ならない。だからこそ感想をかけない自分を恥じることになるのだが……まって、ちょっと待って、たかが感想が書ける程度がそんなに正義?

 先に書いたように好きの閾値は個人によって違う。そのうえ、この言葉に胸を痛めるのは、好きの閾値が高いがゆえに言葉を内にため込み、相手が気を悪くしないだろうかと遠慮をするような善人である。つまり感想が書けることをほめそやす風潮、それこそが善人に対する過重となることを、作家という方たちはきちんと理解していらっしゃるのだろうか。

 字面でどれほど取り繕っても、「ほら、感想は作者が喜ぶんですよ、作者のために書いてあげましょうね」なんて言葉を万人に向かって得意げに語るやつを、僕は絶対に信用できないと思う。それは自分の『本当の気持ち』を一つも見せていない言葉だから。

 それくらいなら「私は感想がうれしい人です、皆さん、私のために感想を書きましょう」の方が、まだ理解できるし好感が持てます。『私』の気持ちがきちんと語られており、なおかつ何をすれば作者のためになるのかが明確に書かれているではありませんか。

 どうせプライドを捨てるならばそこまでさらけ出してこそ、相手の反応も望めるというものでしょう。

 僕の私見では感想というのは相手の心そのもの、他人に向かって「作家には心を見せてあげてください」なんてお願いするのはこれ、恋愛に置き換えてみたらどうです?

 ずっと好きだと思っていた相手にどうやって気持ちを伝えようか濃やかに悩んでいるのに、事情も知らない相手から「好きなら好きだって伝えなくちゃ!それが相手のためなのよ!」って言われて、「うんそうだね」って、あなたなら納得するんですか? もしくは好意はあっても好きには届かない相手にどうやって気持ちを伝えようか悩んでいるときに、「それって好きなんじゃん! 言っちゃえ言っちゃえ!」って後ろでうるさい野次馬を許容できるタイプ?

 いやはや、作家様というのは心が広いものですね。











 さて、ここまでめげずに読んでくださった方、特に読み専の方にお伝えしたいことがあります。

 僕自身、みっともなく感想を欲しがる風潮は嫌いですが、感想そのものは否定されるべきではないと思います。

 なぜならばそれはあなた自身の心だからです。

 ネットでは感想の敷居がずいぶんと低く、感想を作者にダイレクトに伝えられる環境にあるため、画面の向こうにいる相手の気持を慮って無口になることもあるでしょう。逆にこの世のありとあらゆる賞賛を贈りたくて饒舌になるかもしれない。

 どちらも間違ってはいません。感想の所有者はあなた自身なのですから。だからこそ誰の言葉も気にせずに自分の気持ちを素直に表すこと、これだけが唯一感想の書き方の正解なのです。


「感想に語彙力とか気にしなくてもいい」


 これだけは今回いきあった言葉の中で唯一の真理だなと感じました。例えば他の人と言葉が重複したって、例えば「尊死」なんて書いたって、それが自分の心ならば誰にも後ろ指を指される必要もない、れっきとした感想なんです。

 もちろん「面白かったけれど感想かくほどでもないな」という『行動』を選ぶのも、あなたの心が感じたものならば正しいのです。

 どうかいろいろな情報に惑わされずに自分の信じた通りを……それこそが感想であると僕は思うのです。

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