世界に傍観される彼の世界
知られたくない事だって、見られたくないものだってある。
それでもこの世界は不条理で、人は人との付き合いの元成り立つ。誰も頼んで、いないのに。
土足で踏みにじられた空間はひどく居心地が悪く、僕の世界のはずなのに他の誰かの世界にすら思えてしまう。望んでいない世界は無意識に作られ、今日も偽善の上で成立をする。違う何かでイロを塗り潰され、見る事すらもしてくれない。
自分とその他に切りわけられた知らない世界を僕は一人、教室のちっぽけな特等席で傍観をする。
喧騒にまみれた世界はいつ終わるかすらもわからなくなるほどで、僕が僕ではなくなってしまうのではという危機感すらも生まれてくる。
これだから僕は、見るだけでじゅうぶんなのだ。
自分の事だなんて思いたくない世界は汚く見るに耐えられず、今日も僕はふらりと廊下を歩いていた。
「おぉ、奇遇だな」
「…………」
嫌な声が聞こえたと、思った。
恐る恐るそちらを見ると、そこにいたのは生徒ではなく大人である教師で。
「ちょっと今、いいか」
「……よくないです」
いつだったかの、紫煙の臭いを連れた白衣の彼はにやりと笑うと、まるでいい玩具を見つけたと言いたそうな顔でゆっくりとこちらへ近づいてきた。
「まぁ、そんな事言わずさ」
どこか馴れ馴れしい態度は相変わらずで、自然と顔をしかめてしまう。あぁ、こういう大人が世界を壊すのだ。僕の小さな、箱庭を。
無視をしてこのままやりすごそうかなんて考えてみたものの、白衣の彼は僕に肩を組んできては逃がさないと言わんばかりに顔を寄せてくる。ヤニ臭いそれも相変わらずで、何一つあの日から変わっていないその飄々とした態度に溜息を送って。
「……どう言った御用で」
「今日はお前にお願いがあってな」
「……」
面倒だなと、純粋に思った。
見る事しかできない僕には頼まれ事なんか無縁で、その分頼まれてしまうと厄介この上ない。否定の意味を込めて少しだけ見つめると察したのだろうか、まぁそんな顔しないでなんて笑われてしまった。
「きっとお前にも、悪い話ではない」
息からの副流煙があるのならとっくに汚染されただろう、ヤニにまみれた吐息を僕へ吹きかけるとざらりと耳に残るような声で言葉を続けてくる。
「お前に会ってほしい生徒がいるんだ、いいだろ?」
「会うって……」
いいだろと聞かれてもよくないのが、正直な本音だ。
顔に出してもそんな僕の様子なんかお構いなしと言わんばかりにそれがさ、と脈略のない前置詞が聞こえる。あぁ、どうかこれ以上僕に構わないでくれ。
「今日の授業後、保健室だからな」
「僕は会うなんて一言も……」
肩から重さが取れたと思い振り向くと、そこには人なんかいなくて。
喧騒の中に残されたのは僕と、僕の中にある不確かな名もない感情だけだった。
***
話を聞く義理もなければ、言われた通りにする義理だってない。
その程度の関係だがそれでも何か含みのある白衣の彼からの話は、僕の奥底でグツグツと煮えるような痛みを伴っていた。ならば僕は、どうすればいいのだ。
「……」
誰も答えを用意してくれない、しょせんは置いていかれた存在。ふらりとおぼつかない足で歩き保健室の前に立つと、静かに肩を落として目を伏せた。義理はないけど、だからと言って拒否をするほどでもないから。
「……失礼します」
静かに、慎重に。
世界を邪魔しないように音もなく開けたドアは、いつだったかと変わりなく学び舎には似合わない紫煙の臭いがこびりついていた。まるで呪いのように部屋を覆うその香りに、僕は目を細める。
「……いない」
それに合わせ誘った本人がいない事へ疑問を持ち、ぐるりと目線だけを動かす。誰もいない、僕だけの隔離された世界のようだ。
「……いや」
違う、隔離されているのは僕だけではない。
部屋の奥に申し訳なさそうに置かれた、三つのベッド。そこの真ん中が、どうしてだかカーテンで隠されているのだ。こっちにこいと、誘っているように。
「…………」
自然と、手が動く。
撫でるように手をかけたカーテンをそっとめくると、そこには静かにこちらを見つめる生徒がいて。
「ずいぶん、遅かったね」
「……」
まるで僕を待っていたかのように、彼は笑っていたのだ。
馬鹿にするわけでもなく、受け入れるわけでもなく。観察するような目を僕に向けると、彼は唇を緩めくすくすと楽しそうに笑っていた。
「あぁ、久しぶりだね」
「っ……」
久しぶりだなんて、そんな親しい言葉を投げられる記憶はなかった。
僕の事を知っている僕の知らない彼は薄く笑うと、そんな顔しないでくれと小さく呟いた。僕にしか聞こえないだろうその声は、この小さな白い部屋ではじゅうぶんに大きく反響し音のかさを増す。
「えっと、先生は」
「帰ったよ、ボクが頼んだんだ」
どうしてそんな事をしたのか。はじめましての僕にはわからない。
「君と、話がしたかったんだ」
「……」
話したい事なら、話しかければいい。それだけの話なのに、彼はどうしてこんな回り道をしているのだろうか。それが僕には、わからなかった。
「教室は行きたくないから……」
ベッドの上で少しだけだるそうに座る彼はそう言うと、そっと僕に目を向けてきた。吸い込まれるような瞳は悲しいくらいに鮮やかで、僕は思わず目を逸らす。悲しそうなのに、その表情がどこか美しいと思ってしまったから。
「……教室は、思っているほど嫌ではないと思う」
だから、出来心だったんだ。
そんな感情も、言葉も。ただの客観的な言葉と一般論でしかなくて、僕にはそれ以上でもそれ以下でもなかった。僕は、見ているだけだから。
「……そうだね、嫌ではないと思うよ」
彼は言葉を選ぶように目を伏せると、小さく肩を揺らしていた。曖昧に柔らかく向けられたそれは僕にはわからなくて、世界が見えない壁でわかれているかのようだった。
「嫌ではない……嫌では、ないけど」
小さく、吐息が響く。
「それでも世界は、見ているだけだから」
同じだと、最初は思った。
けれどもそのニュアンスは僕のものとどこか違く、自然と首を傾げる。まるで見ているのは世界の方で、自分は世界を見ていないような言い方だ。
「ねぇ、見ているだけで楽しいの?」
不意に投げられた言葉に、目が泳いでしまう。
「……わからない」
この感情も、捨てるべき場所も。
同じではないはずのそれはすべて同じように世界から見なされて、僕を今日も殴りつけてくる。見ているだけで、傍観するだけでどんな意味があるって。
「わからないなら、ボクはいいと思う」
彼は静かに頬を緩めると、僕の目をじっと見ていた。
まるで僕の全てを見透かしたような彼の目に申し訳なさすら感じ肩を落とすと、彼はどこか寂しそうに口の中で言葉を転がしていた。二人しかいない空間で、小さく内緒話をするように。
「ボクの話も、聞いてよ」
そして何より、縋るように切なかった。
「……ボクはね、教室って存在がたまらなく怖いんだ」
溢れた言葉は僕を貫いて、逃がさないと言わんばかりに絡みついていた。
「誰に見られているか、どう思われているのかわからない……世界がみんな仮面をかぶって、ボクの事を見ているんだ。いなくなれって、お前はいらないって」
「…………」
「だからボクは――あの小さな独裁国家が、たまらなく怖い」
何を言っているのか最初こそわからなかったそれは、徐々に形を成し訴えかけてくる。彼の言葉の意味も、ここにいる理由も。
「君は……」
「それ以上は、だめ」
僕が言いたい事を察したのだろう。
彼は静かに首を振り、指をそっと唇に添えていた。その様子を見ると、ここで言ってしまえば僕も彼も何かが壊れるような気がして喉を鳴らしながら言葉を飲み込んだ。
「君は優しい……どうか、ボクみたいにならないで」
「そんなの……」
彼の言葉にどう返そうか戸惑い、言葉を濁す。その瞬間遠くから響いたのは、僕を世界から追い出そうとする鐘の音で。
「じゃあね、ばいばい」
「あ……」
少し、ほんの少しだけ目を離した。
それだけのはずなのに、彼はもうどこにもいなくて残されていたのは無造作に丸められた掛布団だけだった。まるで、最初から彼はいなかったようだ。
「……」
まだ温もりを保つそこにそっと歩み寄り、手を伸ばす。撫でればそこには確かに人がいたのを混じさせ、同時に一人の孤独すらも突きつけられる。
彼が結局誰だったのか、どこで会ったのかは思い出せない。それでもあの教室という名の箱庭で出会ったのだろう彼の表情と美しい瞳は、僕の脳裏にこびりつき離れてくれそうになかった。耳鳴りがひどく、頭だってたまらなく痛く。
これは名も知らない彼と僕の、誰も知らない世界の――
「………………違う」
そうじゃない、そうじゃないんだ。
壁にもたれかかり、静かに首を振る。そろそろ目を覚ませって、知らない誰かに言われている気がして。わかっている、そんなのわかっているよ。
「全部……僕の世界だ」
これは僕が目を背けていた、世界のお話。
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