自分に縛られた彼の世界

 落とした感情は手に取れなくて、今日も静かにゴミ捨て場へと運ばれる。

 誰のものでもない、ダレにも見つけられないそれはひどく虚しく、苦労や努力なんて言葉は一言でかき消されてしまう。しょせんはみんな、その程度なのだ。

 頑張れや応援しているなんて他人事の言葉達は、今日も僕以外へ重くのしかかる。こればかりは、期待されない方が僕のためだ。知っている、僕は最初から世界に見捨てられた人間なのだから。

 何が失敗でどれが間違いかもわからないそんな世界で僕は今日も一人、教室のちっぽけな特等席で傍観をする。


 連日続く文化祭の準備から生み出された賑やかさが以前に続き耳にしつこくこびりつくそんな日でも、潰された授業の中で確かに息をしているものもある。

 準備以外は何一つ変わらない、現実と不確かが入り乱れるバランスの毎日に。僕は普段と変わらず特等席で、じっと息を殺していた。後ろ指をさされないように、陰口を叩かれないように。

「えぇ、せんせ授業なんてやってないで文化祭準備しようぜ!」

 飛び出て聞こえたそんな言葉に目をやると、一人の生徒が立ち上がりふざけて笑顔を浮かべていた。

 どこにでもいるような奴、少し探せばいそうな奴。

 声をあげればきっと普通でしかないそんな彼は、教壇に立つ教師と何かを話していて授業をなかったものにしようとしていた。それを見ている大半が彼に賛成しては、この状況をどうしようかと悩む教師に言葉巧みな説得をする。本当に、どうでもいい話だ。

「……」

 授業を中断する決定を下した教師を見送り、静かに立ち上がる。ふらりと歩き廊下へ目をやれば、外も変わらず広がるのは文化祭準備をする陽気な声。まるで、逃げ場を消されてしまったような気持ちだ。

 どこにも行けずにクラスへ目を戻すと、今度は鼻と鼻が触れそうなくらいに近い場所に顔がある。近すぎて誰かわからないそれに顔をしかめると、怒るなよ、と騒がしい彼が笑っていた。

「お前もほら、手伝えよ」

「僕は……」

「いいから、ほら」

 僕の声なんか、きっと聞こえていない。

 押しつけに渡されたペンキと筆がどうしても重く、僕にはそれがたまらなく迷惑に思えた。


 ***


 そんな一日も終わり日はとっくの昔に落ちた、そんな時間。

 茜色に染まっていたはずの空という名のパレットには群青色が混ぜられ、いつもよりも世界に見捨てられた気分になる。お前なんか、必要ないって。

「先生の手伝いなんて、するんじゃなかった」

 おぼつかない足取りで、ままならない心で外へ出るとそうだねとささやく。僕がいらないのは、僕が一番理解してるから。

「……あ」

 ふと下駄箱の前で、そんなひ弱そうな声が聞こえる。

 僕はこんなひ弱な声を知らないはずなのに、頭の中のどこかで知っているぞと叫んでくる。知らないって、知っているわけないだろ。

 気づかないふりをして声の主が行くのを待とうと思ったはいいけど、相手はそれ以降音も立てず動こうとしない。僕なんかに怯えられても、僕は何もしないのに。

「……」

 だからこそ、声の主が誰か気になってしまう。

 少しなら盗み見ても悪くないだろうと思い目線を動かすと、そこにいたのは初めて見たようでそうではない見慣れた顔で。

「……あ」

「よ、よう」

 クラスの中心で一際騒がしい、あのどこにでもいそうな彼だった。

 彼は一瞬目を泳がせたが、すぐに教室と同じ薄い笑顔を浮かべひらひらと僕に手を振っていた。無理をしたくてもいいのに、その表情が苦しい以外の何物でもない。

「な、なんだ。お前まだ帰ってなかったのか」

「無理しなくていいよ、僕は見るだけだから。周りみたいに、何も求めていない」

「っ……」

 だからこそそんなぶっきらぼうな言葉を投げかければ、彼は不意をつかれたように目を丸くしてつばが悪そうに明後日の方を向いてしまった。教室では絶対に見る事のない、彼の表情だと思った。

「……なぁ、途中まで一緒に帰らないか?」

「……いいけど、バス停までね」

 昼間は無神経そうだななんてイメージを持っていたけど、そのイメージとはかけ離れていて反応に困ってしまう。肯定の意味を込めて首を縦に動かすと、彼は少し気難しい顔をしながら僕の横を歩き始めた。

 校門を出て、静かに路地へと入る。

 街路灯だけが照らす世界は人工物でしかなく、自然なんかはどこかへ忘れ去られていた。人間が固めた嘘っぱちの世界に、僕も彼も侵されきっていた。普通にしか見えない異常の中を、並んで歩く。

「……ずいぶん、教室の時とキャラが違うものだね」

「わかるか?」

「まぁね」

 無意識に投げかけた言葉に、彼は少しだけ恥ずかしそうに笑っていた。

「俺さ、どれだけ頑張っても平凡なんだ。見た目も、性格も……俺は、誰にもなれない人間でいたいのに」

「……」

 突然始まった彼の身の上話に、僕は黙って耳を傾ける。聞いてほしいと言うのなら、僕はこのまま聞くだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。

「だから俺、頑張ってきたんだ。平凡じゃない、クラスでずっと笑っていられる存在になりたいって……けど、それをやれば次は真面目な奴らに嫌われる……俺、どうすればいいのかわからなくなってきてるんだ」

 足取りは重く、まるで枷を付けられているようだ。

「どれが正しいんだろうな……どれが、俺なんだろうな」


「……正しいなんて、ないと思う」


 あくまで自然に、言葉を返す。

 そんな反応に彼は驚いたのか、ぽかんと口を開けて足を止めてしまった。

「ないって、それは」

「だって、そうだろ……君の正しいが、世界の正しいではない」

 彼の思う平凡が僕の思う平凡である確証なんてどこにもないし、誰にもなれない自分は他でもない自分自身の事だと思う。人の基準を図れる物差しは、この世に存在しないのだから。

「それとも君は、誰かの物差しで自分を決めてほしいタイプ?」

「……違う。俺は、俺らしくありたいだけだったんだ」

 自分でありたいがために、自分を殺す。

 そんな本末転倒な言葉をうわ言のように呟くと、彼は静かに首を振りなぁ、と言葉を続ける。

「本当にお前、たくさん見てくれてるよな」

「……それは」

 僕には見る事しか、できないから。

 紡ごうとした言葉は風にかき消され、どこかへと攫われてしまう。まるで言うべきではないと世界に止められたようで、僕はそのまま同じ言葉を紡ぐ事なくそっと胸へ押し込んだ。

「聞いてくれてありがとう……じゃあ俺、こっちだから」

 校門を出た時よりもどこか明るいその表情に、僕は思わず首を傾げる。

「……あのさ」

「ん?」

 見る事しかできない僕にはわからない、疑問の言葉と共に。

「確かに僕は君の一面を見たけど、だからと言って僕に話す義理はない……どうして、話してくれたの?」

「わからないのか?」

 彼は僕の言葉に目を丸くして一瞬だけ固まると、どこにでもありそうな平凡な笑顔を貼り付けて僕を見ていた。世界の誰の目にも止まらない、そんな言葉を添えて。


「だってお前――俺と同じ匂いがするから」


 ***


 普段と変わらない、いつもと変わらない世界は何も輝いていなくて、まるでノイズのかかった壊れかけのテレビのようだ。

 そんなテレビの中で今日もエキストラになる僕は、ふらりふらりと廊下を歩く。誰のものでない、名前もつけられていない三流ドラマの通行人として。

「だから、違うってば!」

「……」

 ふと聞こえてきた声は、いつだったか僕にどれが正しいかと聞いてきた彼のもの。

 悩んでいた彼だって、朝になれば元通り。結局彼は、この場所で作った自分が本物になってしまってのだ。その自分が本当に彼自身なのかは、見ている僕にはわかるはずもなく。一人芝居を、演じ続ける。

「――人間は、一度作った印象から離れられないんだから」

 それは彼に言ったのか他の誰かに言ったのか、それとも僕自身への皮肉か。そんな事、自分でもわからなかった。

 文化祭は、もう目の前まできていた。


 これは変わりたかったはずが自分を見失ってしまった、不安定な世界のお話。

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