奏でたかった彼女の世界

 世界が不確かなモノで支えられているように、人の心は不確かな言葉で支えられている。

 弱く不安定なそれは今日もしっかりと世界を支配して、緩くゆるく僕の首を締め付ける。いなくなれって、どこかへ行けって。これじゃまるで、呪いだ。

 切なさと苦しみの間に揺れる世界は、僕に鋭利な殺意をこれでもかと向けて。僕のせいだって、お前のせいだって叫び声をあげている。

 わかった、僕が悪いんだ。全部、何もかも。

 世界から除け者にされ誰の目にも触れない僕は今日も一人、教室のちっぽけな特等席で傍観をする。


 音とオトが交わる空間は、賑やかなんて言葉が似合わないくらいにひどく騒がしい。

 つんざくるような声にけたたましい音楽。音符と音符は五線譜の上で争い、我先にと言わんばかりに前へ前へと飛び出して行く。

 どうか僕に静かな世界を、平和な世界を願わせてくれ。

「……」

 教室からの風景も、世界も表情も何もかもが違うこの時期。

 歩けば咲くのは花ではなくがらくたで。僕の心という名のがらくたが転がる、世界は今日もゴミ箱だ。

 そんな紅葉色が広がる校内は、色とは裏腹で僕に冷たい。冷え切って、冷たくて。目の前に踊るのは食欲をそそるような可愛らしい食品のイラスト達に怖さの欠片もないお化け屋敷の入り口、生徒会主催の横断幕とどれもこれも使い古され量産されたものばかり。

 その中でも至るところに書かれた『文化祭』という文字に、どうしてだか僕の心は強く締め付けられた。それはもう、息ができなくなるくらいに。悲しみも記憶も全てを混ぜ固めたような言葉は、ケーキのように甘くレモンよりも酸っぱい。僕には不釣り合いすぎる空間が、そこにあった。

「……ん?」

 そんな中で耳に流れ込んできたのは、紅葉色の世界では少し柔らかすぎにも思える音符達。

 澄んだ音はまるで湖で、跳ねる楽譜は鳥のようだ。

 どちらかというと湖よりも海の色が似合うだろう音の主に釣られふらりと入り込んだのは、とある教室。机達を観客にした世界で音を紡ぐ姿を見つけ、僕はらしくもなく目を見開いた。

 そこにいたのは、一人の女子生徒。

 ポニーテールとクラリネットがよく似合う、たれ目が印象的な生徒だった。

 彼女は誰もいない教室で一人、机達へ向けて軽快な曲を奏で。弾むような音に、綺麗な指使い。一人しかいないはずの空間は、コンサートホールのように輝いていた。できるなら、この世界の観客になりたい。

 ギシッ

「……誰?」

「……」

 紡がれた言葉はまるで鈴のようで、かと思えば警戒心の強い仔猫のように弱い声で。彼女はそれほどまでにか細いものだったのだ。

「えっと……」

 彼女が見える場所に姿を出しなんて返せばいいかわからず目線を泳がすと、彼女はふとこちらを見つめ何かに気づいたように肩を落とす。

「なんだ、君だったのね」

「……僕の事、知っているのか?」

「えぇ、もちろん」

 いたずらに笑い彼女は頬を緩めると、両手で握ったクラリネットを抱き頬を緩めていた。

「いいのかな、クラスの準備をやらないでこんな場所にいて」

「お互い様だと、思うけど」

「そうね」

 記憶にはなかったが、どうやら彼女は同じクラスのようだ。知っているはずで知らない、そんなクラスメイトは手に持っていたそれを静かに机へ置くと僕に顔を近づけてきた。鼻をくすぐるのは生姜にもメンソールにも近い香りで、僕が想像していた物とはどこか違う。

「私ね、部活のコンクールに出るメンバーを決めるオーディションが近いの。だから、クラスのも大切だけど練習のがもっと大事なの」

「……へぇ」

 ひどく興味がない、そんな声だなと我ながら思った。

「なに、その顔」

「……いや」

 僕には関係ない、僕には興味がない。

 そんな他人事の感情と共に現れた本音を、僕は抑えられなくて。

「けどそれは、虚しく感じないのか?」

「っ……」

 零れ落ちた言葉は彼女の心にどう刺さったかわからず、僕は言葉を間違えたのではと目を右へ左へと泳がせてしまう。

「虚しいって、なんで?」

 一方彼女は、そんな僕の心なんてお構いなし。

 きょとんと作り上げた顔を僕へ向けると、本当に意味がわからないと言った顔で頬を緩めていた。あぁ、きっと彼女に僕の言葉は意味を持たないみたいだ。

「……いいや、なんでもない」

 だから、それだけ。

 僕は彼女を否定するわけでも肯定するわけでもなく首を振ると、そのまま身体を廊下へ向けた。

「ねぇいいの、私じゃないんだしそんなふらふらして」

 背中に投げつけられたのは、純粋な心配だろう。

 どんな言葉を返せばいいのかはわからなかったけど、それでも無言を貫くのは申し訳なさがある。顔だけを向けて、心なし目を伏せ。

「……僕は、いてもいなくても同じだから」

 小さく呟いて、言葉が零れる。

 足早に去った教室で彼女がどんな表情をしていたかは想像をする気にもならないけど、それでも離れれば離れるほど聞こえる木製の音色に、僕の自然と耳を傾けていた。


 ***


 そんな、いつの事かも朧気なものになってしまいそうなある日。

 ふらりといつも通り教室にさよならを告げた僕は、行く宛もなく廊下と言う名の世界を歩いていた。どこにいても同じで、生き辛く。一歩、また一歩と歩く度に僕はいらないと言われているようでまるで大きなゴミ箱だと思った。

「……ん?」

 ふとそこで、僕は気づいてしまう。

 何も、音が聞こえないって事に。

「どうしたのか……」

 らしくもなく、世界の音に目を向けていた。

 うるさいわけでも、耳に響くわけでもない。それでも僕は自然と身体をそちらへと動かす。彼女にあった、あの教室に。

「確か……」

 廊下の先の、一番奥。

 どれだけ耳をすましても音一つ漏れないその教室は、どれだけ見てもいつだったか彼女が音を生み出していた場所だ。

「……あ」

 嘘をついた、一つだけ聞こえるものがある。

 クラリネットのように流れるような音でもなければ弾むように楽しげな話し声でもない、まるで悲しみを押し固めたようなすすり泣く声だ。

「…………」

「……だれ」

 今日は物音をたてていないのに、それでも気づいたようだ。

 どう出ようか悩んでいると、今度は泣き笑いのようにこもったような声が聞こえてくる。コロコロと表情を変えるそれに首を傾げると、一息置いてねぇ、と言葉が続く。

「冗談……わかってるよ、誰かくらい」

 いじわるだなと、素直に思った。

 わかっているのなら最初からいえばいいのにと思いつつ顔を出すと、彼女は一人目を腫らしながらこちらを見ていた。本来なら手に持たれていたはずのクラリネットも、今は綺麗に片付けられている。

「……えっと」

「どうしたの?」

 強がりを僕に投げると、彼女は何事もないように振る舞い不自然に口を歪めていた。笑っているつもりのその顔が、僕には残酷にも感じる。

 悲しみと苦しみと怒りを込めたその表情からまるで感情を出そうとしない彼女は、僕の顔を見ながら首を傾げ無理に鼻歌を歌う。それが、どうしても見ていられなくて。


「……溜めなくて、いいんじゃないかな」


「……え?」

 零れ落ちた言葉を彼女は拾い、何の事かわからないと言わんばかりに目を丸くしていた。僕だって驚いている、そんな言葉、落ちるなんて思っていなかったから。

「……話、聞いてくれる?」

「聞く事しか、しないよ」

 ずいぶんお人好しだなと、我ながら思った。

 そんな形式的か返事をすると、彼女はまた無理に笑顔を作り椅子を二つ並べていた。

「座ってよ、お茶はだせないけど」

 学校なのだから、当たり前だと思った。

 そんなやぶ蛇な事を思いつつ隣へ腰を下ろすと、彼女は言葉を選ぶように目線を落としそうだね、と口を動かす。

「……私ね、オーディション、落ちちゃった」

「……」

 かける言葉があるほど、僕は社交性に優れていない。

 だからこそ何も言わずにそっと見つめると、彼女は僕の事なんかお構いなしに言葉を紡ぎ続ける。

「頑張ったのにな……練習したのに、どうしてかな」

「……そんなの」

 僕には、わからないよ。

 あまりにも無神経な言葉を漏らしそうで必死に抑えると、彼女はいいよなんてささやきながら薄く笑っていた。

「わかってるよ、私が弱かっただけって。下手だったのは明らかに、私だから」

 聞くに、彼女はアンサンブルという形式のコンクールへの出場メンバーになりたくあれだけの練習をしていたらしい。普通のコンクールなら大人数で出れるが、コンクールは規定で一チーム十人。その十人に彼女は、なれなかった。

「もっと練習すれば、出れたのかな……こんなのなら、ちゃんと文化祭の手伝いもしとけばよかったな」

 今にもはち切れそうな涙が彼女を支配していて、僕はこの空気にいるのが申し訳なく思えてしまう。そんな、文化祭は終わったわけでもなければ完成もしていないのに。どうして彼女はこの状況で後悔をしているのだろうか。

「今からじゃ、だめなの?」

「……何言ってんの」

 だからこそ漏れ出てしまった言葉に、どうしてだか彼女は顔をしかめた。本当の事じゃないか、今からでも間に合うのに。

「何もわかってない……文化祭って、準備をみんなでして楽しむものなの。それなのに私はその準備にいないの、いまさらそんな」

「そんなの、君の主張だ」

「っ……」

 遮るように紡いだのはあくまでも僕の心ではなく、一般論。

「僕は見ているだけの人間だから、君がどう思っているかは何もわからない……けど、少なくとも、今からじゃ遅いなんて誰も思っていない」

 準備なんて、どれだけ人数がいても足りないものだと僕は思う。それに、しょせん僕達は箱庭で動き回る学生だ。閉鎖世界で細かい事なんて、ほとんどの人は考えていないだろうから――だから。

「君の主張は知らない……けど、少しでも参加したいって気持ちがあるならやってもいいんじゃないかな」

「やるって……」

「全部、何もかも」

 文化祭の準備も。

 部活の練習も。

 友人関係だって、勉強だって。

 彼女はきっと、一つしかできない不器用な人間なのだ。それでもやりたいと思うなら、どれだけ不器用でもやって損はないと僕は思うんだ。

「……変わってるね」

 それが僕に言ったのか、それとも僕以外の他に言ったのかはわからない。ふわりと笑う彼女はそれ以上何も言わず、だからこそ僕も長居は無用だと判断して静かに席を立つ。

「……あのさ」

「ん?」

 気だるげに振り返ると、彼女は楽器ケースを抱きしめてこちらを見ていた。さっきみたいに無理なものではない、心からの笑顔を添えて。

「お互い、不器用だね」

「……さぁね」

 君よりは不器用じゃないって言葉は、そっと気づかれないように飲み込んだ。


 ***


 文化祭の準備も中盤に差し掛かり、授業の半分はそれらによって潰されていく。

 そこまでの価値があるのかは僕にはわからず今日もふらりと歩き出そうとすると、それを遮るかのように人影が現れる。それはポニーテールとたれ目が印象的な、クラリネットの彼女で。

「どこ行こうとしてるわけ?」

「……」

 少なくとも君には言われたくなかったけど、それは口にしなかった。

「ねぇ、一緒に準備しましょ?」

「僕は……」

「ほら、はやく!」

 僕の手を掴むと、そのまま教室の中へと引き戻される。自分勝手で、僕の心なんて置いてけぼりで。

 やっぱりあの言葉はやぶ蛇だったのかなと思いつつ彼女の顔を盗み見ると雲一つない晴れやかな笑顔がで、文句の言葉なんて出てくるはずもなかった。ほら、世界は案外見やすいものだから。


 これは前以外へ目をやる事に臆病になっていた、広い世界のお話。

 

 

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