世界に置いていかれた大人の世界

 数多の白の中でも誰かが黒と言えば黒になる。澄んだ水に汚れた水を、静かに一滴。それだけで世界は汚くなる。汚染され、支配される。そんなものだ、その程度なのだこの世界は。

 綺麗なんて存在しない、何かがナニカを汚していく。

 僕を置いて、僕を沈めて。

 しょせんは僕も同じなのだ、しょせん僕は汚れた水で。綺麗な世界には不釣り合いで、いらない存在だ。

 いらないけれど消える勇気のない僕は、結局今日も無駄に息をして。世界を犯すばかりで何も貢献しない僕は今日も一人、教室のちっぽけな特等席で傍観をする。


 昼ご飯時、ふらりと歩いた教室の外。キャンバスの外へ出ても世界は案外変わりなく、そこに広がっていたのは雑踏と仮面越しの言葉達。踏みしめる度に地面は汚れる、廊下は荒む。

 世界は今日も汚く、今日も綺麗だ。

「あれって……」

 そんな時に目に止まったのは校舎の一階にある、保健室の文字。

 そこのドアが、うっすらと開いていたのだ。

 開いているだけならそこまで気にしなかっただろうそれに、僕は自然と鼻を鳴らす。臭うのだ、学校という名の空間にひどく似合わない香りが。

 自然と手を伸ばし、ドアを動かす。なるべく音をたてないよう開けた、ごく普通の保健室であるはずのそこは僕から見ればひどく悲しく排他的だ。まるで入って来るなと言いたげな白い部屋は、ただひたすらに清らかで汚い。

「……この臭い」

 行く先にあるのは、革が薄れた安っぽいソファーと一人の男。白衣を羽織ってはいるものの、その姿はお世辞にも教師などには見えない。

 暗い色の服に釣り合わない白さは目を奪われて、地獄に突き落とされるようだ。

 そんな浮かんでいるかのような感情に囚われつつそれを見れば、本で顔を隠しているが寝ているのは明らかなもので僕は顔をしかめる。

「んん? 誰だお前」

「……」

 僕に気づいたのだろう。

 本をどかしながらあくびを一つすれば、彼は僕の方へゆっくりと視線を動かす。静かなその目はひどく冷たく、それが僕には返って優しく思えてしまった。

「あぁ、えっと確か……五組の奴だな、怪我でもしたか?」

「いえ、してないです」

 初対面なのに、よく覚えてるなというのが感想だ。少なくとも僕は覚えていない、名前も顔すらもわからない白衣の男は僕の考えがわかったかのようにまた笑い、あくびを一回、まるで動物のようにした。

「こっちは教師なんだ、それくらい覚えているよ」

 教師。

 そんな言葉は、白衣を纏う彼には虚しいくらい似合わない。少し目を細め男を見れば、彼は口元を歪めながら僕のことをじっと見つめ返してくる。

「まぁ、俺も着任したのは今年だから無理もないな……で、どうしたんだ?」

「それは……」

 この世界で不釣り合いの香りに釣られたなんて、言えない。

 言葉を詰まらせ視線を下へ落とすと、教師と名乗る彼はもしかしてとだけ呟いて、何やら白衣のポケットをゴソゴソと漁っていた。

「これか」

 見せられたのは、小さな箱。

 金色でロゴが書かれたそれは、俗に言う煙草の箱。それが何を意味するのかは、僕でもすぐにわかる事で。

「……吸ってるんですね」

「へぇ、それだけかよ」

 どんな反応を期待したのだろうか、僕にはわからない。吸いたいのならどこでも吸えばいいではないか。それが自分の選択なら、それが自分の欲望ならば。

「お前、面白いな」

「……僕が?」

 とんだ的外れな言葉だと思った。

 僕は傍観をするだけだ、今日も昨日も――これからも。

 面白みなんてない僕は結局いつになっても変わりなくて成長なんてできなくて、今日も静かに世界を見るだけ。

「……戻ります」

「おぉ、またなんかあったら来いよ」

 埒が明かないと感じ背を向ければ、何故か彼は楽しそうに笑い僕に手を振ってきた。

 二度と会わないだろう彼は、教師とは思えないほど大雑把で、自由で。それがどうしてだか、羨ましく思えてしまう。

 相容れない彼にはそれ以上目を向けず、僕はチャイムの鳴り響くキャンバスへ戻るのだ。

 心のしこりと、一緒に。


 ***


 会わないだろうと思った彼は、後に知った事だがどうやら養護教諭らしい。僕みたいなゴミ捨て場がお似合いの人間に無縁のような白い世界にいた彼は、まさしく僕とは無縁の存在で。評判も噂に聞いた程度だが悪くなく、煙草の臭いをまとっていた彼からは想像出来ないくらいの評価だった。

 そんな僕よりも一回りほど歳の離れただろう人物の顔も記憶の奥でぼやけるようになった、それくらい時間が経ったのだろうと思ったある昼下がり。

「よお、久しぶりだな」

「……」

 そんな時だ、彼と再会したのは。

 立ち入り禁止というウェルカムボードがかけられた屋上で彼は一人、どこか寂しそうに煙草を吹かし笑いながらこちらを見ていた。

「なに、お前も吸う?」

「吸いませんよ」

「案外ノリよさそうに」

 偏見だと思った。僕はただ見ているだけだ、自分を犯して自分を壊しても、僕には興味がない。それを選ぶのは人間の権利だ。

 顔すらもおぼろげになりつつあった彼は鼻を鳴らしながら、溜息一つ。

 ぷかりと空へ浮かんでいく紫煙はひどく悲しく、暖かい。まるで僕を置いていくようで、まるで彼を慰めるように。

「……お邪魔しました」

「そんな遠慮するなって」

「してません」

 僕の中のぼくが言う、この人の事が苦手だと。本来関わらない人間だと。生きる世界が違うのだ、見る世界も違う彼は僕にとって触れたくない世界のようだ。

 そんな他でもないぼく自身に従い目をそむければ、彼はもう行くのか、なんてつまらなさそうに呟く。

「もうすぐ授業なので」

「……なんだ、俺には興味ないってか?」

「……っ」

 言葉が詰まる。

 比喩や例えではなく、本当に。

 言葉も身体も、心も。絡みつくような異様な感覚に顔をしかめれば、彼は悲しそうに僕の顔を見つめてきた。その目はまるで悲しみを固めた水晶で、無機質な石をはめ込まれた相貌は世界に置き去りにされた人形だ。

「あぁ……」

 わからない、世界も、彼も。

 僕とは住む世界が違うはずの彼は、紫煙を空へ放ちながらそれを見届ける。

「ここに来る奴はみんな同罪だ、お前も、俺も――世界の嫌われ者なんだよ」

 同罪、その言葉が僕には何を指すのか検討もつかなかった。眉間にしわを寄せて見せれば彼はそれを鼻で笑い、若いな、とだけ呟く。

「まぁ、なんだ、先生だって若気の至りで色々やってきたからな、相談くらいには」


「そんなのまやかしだ」


 こぼれ落ちたのは、僕の本音だ。

「……へぇ、どうしてそう思うんだ」

 対する彼は、飄々とした態度で僕の事を見てきた。

「若気の至り、なんて言うなら――先生、あなたはどうしてここにいるんですか」

 こぼれる、溢れ出てこぼれる。零れ落ちたそれには、僕自身にはもう止めようがなくて。

「ここに集まるのが同罪だと言うならば、あなたも同罪だ――それは若気の至りじゃない、大人になりきれない子どもだ」

「……お前」

 若気の至り、なんて過去の産物として扱うならばそれはただの妄想で。僕もあなたも、いつかここに来るであろう同じ人間も。

「はぁ……難しい奴だとは思ったが、重症だな」

 馬鹿にされたのかはわからない。そんな不安定な境目にある言葉を投げかけられ、僕は口を強く結んだ。

「……お前は言葉を与えすぎだ、もう少し気楽に生きろ」

「ちがっ、僕は」

 見ているだけだ。

 そんな言葉は、鐘の音によってかき消された。

「ほら、授業だぞ」

「……」

 まるでここから先に来るなと言わんばかりに、露骨な態度であしらわれる。

 絡みつく不安と言葉にできない悲しい感情に、僕はどうすればいいかわからず溜息をついた。気楽になんて、わからない。できるわけがない。教えてくれ世界、こんなゴミ捨て場の僕にもわかるように。

 だって、僕は。


「――見る事しかできないから」

 

 ***


 あれから季節は一つ変わり、見える世界は日々色を表情を変えて行く。僕の知らないところで、僕の見えないところで。

 保健室の前を通ると、感じるのは変わらないタールが強めの独特な臭い。またあの教師はここで寝ているのだろうと、僕は勝手に想像をする。

 変わりゆく世界で、彼は変わる事を恐れる。結局は僕と同じだ。

 見ている僕と、目を背けた彼。

 それでも僕は、あれから時々悩む事がある。一回りほど歳の離れた教師に言われた、何気ない言葉。


 ――お前は言葉を与えすぎだ、もう少し気楽に生きろ


 絡みついた言葉は、いつまでも僕から離れようとしてくれない。

 わからない、見ているだけの僕にはわからないんだ。彼が何を考えているかも、何を言いたいかも。

 興味本位で窓から覗き込んで見れば、案の定ソファーには一人の影。彼は今日もこうして、僕の知らない世界を悠々と生きるのだろう。

 世界を見ずに、世界に触れずに。

 あぁ――先生。

「それがあなたの、答えですか」


 僕の呟きは、ゆるりと空へ消えていく。

 紫煙よりも儚く、ゆるく――虚しく。


 これは置き去りにされ見るのをやめた、大人になれなかった世界のお話。

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