走りたかった彼の世界

 最初から上手く飛べる鳥がいなければ、最初から上手く社会に溶け込める人間なんかはさらにいないもので。

 騒音と足音が行き交う街は、今日も僕に冷たくあまりにも残酷だ。まるで僕だけが孤立したこの街は、今日も人間らしく美しく汚い。だからそんな街のゴミ捨て場に捨てられた僕は、今日も一人教室のちっぽけな特等席で、静かに世界を傍観する。


「……」

 いつもと変わらない昼休み、そんなちっぽけな特等席から見えるグラウンドにはいつもの人影が、ぽつんと。遠くて顔は見れないけど、多分、同じクラスの男子。茶色く染められた髪は、自分がここにいると主張しているようで目立つものがある。

 走り方が綺麗なのかと聞かれると運動との無縁な僕にはよくわからなくて、彼自身がかっこいいかと聞かれても申し訳ないが首をかしげてしまう。それでも彼は輝いて見えて、僕にはそれだけでじゅうぶんに眩しい。

 きっと部活動か何かだろう。まだ放課後でもないのに精力的に練習をするのは、おそらく僕には無理な事だ。だからだろうか。僕は自然と、そんな彼の走る姿に魅入っていて。僕にはない姿が、目の前にはある。それはとても、不思議な気持ちで仕方がないんだ。

 結局彼は予鈴がなるまで、一人っきりで走り続けていたのだ。


 ***

 

「あ……」

「よっ」

 そんな日の帰り、僕は彼と偶然鉢合わせになった。

 場所はグラウンドじゃなくて、そのグラウンドの片隅に申し訳程度に作られた花壇の裏。人も滅多にこないこの場所で、僕は爽やかな笑顔を浮かべる彼と顔を合わせて立っていた。

「こんなところで、なにやってんだ?」

「昨日は雨だったから、花が心配でね」

「お前、本当に優しいな」

 本当に優しいなんて、そんなお世辞の台詞は僕の中からすぐに追い出されて。

 そっちこそこんな場所にどうしているのかと問いかければ、彼は少し目をそらしつつ悲しそうに笑っていた。

「その、さ」

「言いたくないならいいよ、聞いても僕にはどうする事もできないから」

 酷く冷たいと思った。

 けど、事実だから。本当だから。聞いたところで僕は寄り添う事も、アドバイスする事もできない。聞く事しかできない僕は、彼のように輝いてる人間には不要なのだから。

「いや、お前がいいんだ、聞いてくれるか?」

「っ……」

 けれども返ってきたのはどこまでも真っ直ぐで。僕はその一言に言葉を詰まらせながらも、小さく首を縦に動かした。

「ありがとう」

 そんな、よそよそしい言葉。けどそれは当然だ、僕と彼はその程度の関係なのだから。

 そんな事を考えながらも僕は、さっきまでとは打って変わった彼に少しだけ眉をひそめて、話を聞く側へ徹する事にする。

「俺、もう走れないんだ」

 まるで他人事のように、例えば芸能人の結婚を世間話で出すような感覚で紡がれたのは、そんな事よりも何倍も重いもので。

「はし、れない……?」

 その意味を僕は理解する事ができず、僕は目を白黒させて彼の事を見てしまった。

「珍しいな、お前がそんな顔するなんて」

 誰のせいだと。

「けど、本当に走れないんだよ、俺」

 そう言って彼は制服のズボンの裾をまくり、僕にほら、と言いながら足を見せてきた。

 それは、

「な、かっこ悪いだろ、俺」

 目をそらしたくなるくらいに生々しい、大きな傷跡。

 彼のふくらはぎには無数に広がっていて、正直見るに耐えられないものだった。

「俺、走り過ぎで足に無理させて手術したんだ」

 自己責任だね、なんて笑いながら紡がれるのは浮世離れしていて。いつもの爽やかな笑顔のはずなのに、まるで別物で。

 僕はそれを見ているだけで、なぜだかとても心が痛いんだ。

「それでさ、もう医者に走っちゃダメって言われたんだ、笑えるだろ?」

「そんな事」

「いいよ、慰めてくれなくて。これは俺が招いた結果だから」

 誰にでもあるかもしれない、好きな事をできなくなる瞬間。彼はそれをあっさりと受け入れ、空っぽな心で笑っていた。

 そんなの、そんなの間違ってると思う。だって――


「――本当に、それが答え?」


「っ……!」

 嫌だって、顔に書いてあるじゃないか。

 こぼれ落ちてしまった言葉は彼に突き刺さり、僕は内心まずい事を言ったと焦りに似た謎の感情を抱いていた。

「……ごめん、今のは忘れ」

「……だろ」

「え?」

「そんなの……やめたくないに決まってるだろ」

 響き渡ったのは、紛れもなく彼自身の声で。

 誰も来ないのをいい事に、彼はまるで子どものように頭を抱えて泣いていた。それはもう、世界の終わりを見てしまったみたいに。

「俺、もっと走りたいんだ。もっと走って、オリンピックに出たかった。なのに、なのになんで俺が……!」

「それが答えなら、いいんじゃないかな」

「っ!」

 それなら僕も、その子どもにお返事をしてあげようじゃないか。らしくもなく、泣きじゃくる大きな子どもを慰める気持ちで。

「僕には君の気持ちはわからない。やりたい事もない、けど、君は違うだろ?」

「お前……」

 雪崩のように感情が湧き上がって、きっと彼の心に残酷なくらい突き刺さっているだろう。これだから僕は、言う事が向いていない。本当に、ゴミ箱がお似合いだ。

「ほら、僕に話をするなんて、やっぱり最初から間違ってるでしょ」

「……いや、間違ってない」

 はっきりと、一文字一文字を噛み締めるように言われた言葉はさっきまでとはまるっきり違うもので。

 僕は思わず顔を上げ、彼の事をじっと、見つめてしまった。

「やっぱり、お前に聞いてもらえてよかった」

「僕、何も」

「俺知ってるぞ、お前がいつも教室から見ていたの」

「ちが、それは!」

 気付かれていた、見られていた。

 それだけで僕は気が動転してしまい、柄にもなく、首をわざとらしく横に振り続けてしまう。

「そんな否定しなくてもいいだろ、俺にとってあれは救いだったんだ」

 意味がわからない。なんで、見られている事が救いなのだろうか。

「俺、走る事は好きだけど誰にも見られなくて。上には上がいるよな、少しいい結果を出しても、それくらいのレベルは他にもいるんだ」


 けど、お前は見ていてくれた。


 その一言は、僕の中に不思議な異物を生み出して。

 甘いようで、重い。それなのにぽかぽかする、何者かわからない存在が僕の中から溢れ出てくるのを、確かに感じる。

「そんな、自意識過剰だ」

「言ってくれ、それくらいの自信がなきゃやっていけない」

 きっとバレている。それでも僕は否定して、彼はそれ以上何も言わずに笑っていた。

「ところでお前、帰らなくていいのか?」

「帰るよ、君こそ」

「俺はミーティングまでサボってるんだ」

「うわ、悪い子」

 そんな言葉を吐き捨てて、僕はいそいそと帰る準備をする。これ以上いたら、本当に彼に見透かされそうで。それが僕には怖いんだ。この正体不明の異物を見つけられてしまいそうな、そんな気がして。

「なぁ」

「なに」

 じゃあね、と言って背中を向ければ、彼はまだ何か言いたいと言わんばかりに僕の事を呼び止める。

 少し嫌な顔を作れば、お前そんな表情もできるんだなって笑われた。これでも人間なので。

「いやさ――諦めない力をありがとう」

「……僕は何もしてないよ」

 返事の仕方がわからなくて、素っ気なくなったのは気のせいじゃない。

 僕は逃げるようにその場を去ると、校門の方へ一直線に走り向かった。


 正体不明のこの甘い感情は、最後までわからなかった。


 ***


 次の日の、昼休み。

 グラウンドを見れば、彼の姿はなかった。内心どこかで残念な気持ちで教室に目を移せば、彼の姿は二つ前の席にあって。どうやら昼寝をしているようだ。

 昨日あんな事を言っていたから今日も走るかと思っていたが、口だけだったのだろうか。

 そんな、なぜか残念な気持ちが湧いてくる途中で――僕は、ある事に気付く。

「あ……」

 彼の、席の上。

 弁当も授業道具も置かれていない机の上に、普通の席には置かれるわけもないパンフレットの山があった。

 色や大きさは違えど、それは全部共通してリハビリ施設が充実してると評判の病院のもので。僕はそれだけで、彼の気持ちが手に取るようにわかった。

 だから僕は、言葉にこそしないけどそっとエールを送る。諦めない力を見せてくれた、少し明るすぎる髪色をした彼に。


 これは彼がこれからやり遂げるだろう、マイナスから一歩進む世界のお話。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る