絵を描きたい彼女の世界

 鮮やかな色彩は、僕なんかの手には大き過ぎて余るもので。

 それならば消えてしまいそうな、透明な硝子に色をつけた方がよっぽど利用価値がある。僕に色をつけるのは、その色が可哀想だから。

 そんな色彩と無縁の僕は、今日も一人、教室のちっぽけな特等席で傍観をする。誰に指を指されるわけもなく、誰に非難されるでもなく。

「あのさ」

 声をかけられた気がした。気がしただけかと思ったけど、そうじゃなくて。

 横へ視線を移せば、そこには三つ編みに眼鏡が似合う女子生徒が立っていた。誰かもわからない、きっと彼女も僕をわからない。ただそれだけの関係の彼女は、僕と目が合うと柔らかく笑い話しかけてきた。

「これ、落としたよ」

 渡されたのは、落としたはずがない一本のシャープペン。けど彼女が拾ってくれたのだから、落としたのだろう。小さくありがとう、と呟くと彼女はどういたしまして、と頭を下げて自分の席へと戻る。僕から見て斜め前の、そのまた二つ前。かなり遠くに座っているはずの彼女は、座るとすぐに紙を取り出し、おもむろに絵を描き始めていた。

「あぁ……」

 きっと彼女は、絵を描くのが好きなんだろう。生み出す世界をここから見る事はできないけれど、背中だけ見れば楽しそうなのはわかる。彼女は一人、人生を謳歌するように絵を生み出していたのだ。

「っ、けど」

 けれど、彼女はどこか悲しそうだ。その正体はわからないけど、寂しそうなのは、悲しそうなのは馬鹿な僕でもわかる。

 彼女を悲しみで支配している正体は、一体なんだろうか。

 傍観しているだけの僕には、そんな事わからなかった。


 ***


 そんな名前も知らない三つ編みの彼女の姿を、僕は思わぬ場所で見る事になる。

 生徒が家路につく中で担任に頼まれて手伝いをした帰りの、校長先生の前。そこで彼女は一人、悲しそうに立っていたのだ。手に持っていたのは学校特有の、少し黄ばんだ安っぽいわら半紙一枚。彼女はそれを、破れそうなくらい力いっぱい握りしめて立っていた。

「……」

 声をかけるべきか、悩んだ。

 どうしたの、何かあった、とか、かけられる言葉は数え切れないほどあるはずだ。それでも僕は、悩んだ。僕は今まで見る事しかしなかった、これから先もそのつもりだ。だから僕には、気の利いた言葉を投げる心なんて持ち合わせていない。

「……あ」

 僕が言葉に悩んでいると、彼女の方が僕に気付いたみたいで。彼女は僕を見ると、眉を情けなく下げてそれでも強がるように、僕に優しく笑っていた。

「どうしたのさ、そんな悲しい顔して」

「……それは君の方じゃないの?」

 とっさに出た言葉は気遣うという気持ちの欠片もない言葉で、僕は思わず手で口を抑えながら謝罪の気持ちを込めて、下を向き小さく頭を下げる。

「いいよそんな、本当の事だし」

 彼女はそんな僕の様子を見て可笑しそうに笑い、ふと溜息をついて目を伏せていた。コロコロと変わる彼女の表情は、まるで梅雨時の天気のようで。それがなんだか場違いに面白く、僕は自然と彼女のそんな表情に見入っていた。

「そう、だね。私、そんな表情してるのね」

 ぽつりぽつりと呟くと、らしくないな、と彼女は笑ながら頬をかいていて。けれどもすぐに僕を見て、そうだ、と笑う。

「ねぇ、今、暇?」

「え?」

 帰り時の廊下にしては人通りが少ない校長室の前じゃ、僕にだけ聞こえるようにしたのだろう声も反響してしまうもので。外の運動部に負けないくらいのその声に、彼女は少し恥ずかしそうに俯きごめん、と今度こそ僕にだけ聞こえそうな声でささやいてきた。本当に、この子は見ているだけで面白い。

「いいよ、それに僕、暇だよ」

 だから僕は、そんな彼女に笑い返して答える。なるべく優しく、僕らしく。

「本当に? じゃあ、少し付き合ってほしいの」

 付き合ってなんて言葉は名ばかりで、僕の手を掴むと彼女はそのまま校長室からどんどん離れ、僕をどこかに連れて行こうとした。

「え、ど、どこに行くの」

「こっち」

 こっち、でどこへ行くかわかる人間はそうそういないだろう。教室の中じゃ物静かで大人びた彼女は、今じゃ無邪気に笑う歳相応の女性で。あのちっぽけな特等席に座ってるだけではきっと見れなかっただろう姿に、僕は何故かほっとした気持ちになる。彼女でも、こんな柔らかな表情ができるんだって。

 そんな事を考えながらも手を引かれ連れてこられたのは、学校内の部活棟。

 主に文化部の活動場所や運動部の物置があるここの、二階の角部屋。美術部、と書かれた扉の前に僕は、彼女と二人肩を並べ立っていた。

「ここは……」

「私ね、美術部なの」

 入って、と小さく呟くと、彼女は僕の手を引いたまま器用にもう片方の手で鍵を開け扉に手をかけた。

 お世辞にも広いとは言えない部室には、漫画でよく見る石膏像や筆に紙、そして沢山の作品達が、色鮮やかに僕の方へ微笑んでいた。あぁ、ここ、僕には居づらいな。

「はい、どうぞ」

 椅子を出されたから、きっと座れという事なのだろう。僕は軽く頭を下げて、学校特有の硬い木の椅子に腰をかけた。これだけ硬い椅子に座って長時間絵を描くなんて、絵心の欠片もない僕には絶対耐えられない。とかなんとかそんななんでもない事を考えていると、彼女が換気のためだろうか、窓に手をかけて外を見ていた。

「汚い場所で、ごめんね」

「そんな事ないよ」

「ありがとう」

 なるべく相手の事を考えて、言葉を選んだつもりだった。けども何故か彼女は、僕のその言葉を聞くとどこか表情を曇らせ、さっきまでくしゃくしゃにしていたわら半紙を静かに見つめていたのだ。

「……えっと」

「あのね」

 僕よりも先に彼女は口を開き、どこか自虐的な笑顔を浮かべてこちらを見ていた。

「ちょっと、話聞いてほしくてさ」

「……なんで、僕なの?」

 見ているだけの僕は、いわばクラスじゃ真っ先に『残りもの』として扱われるタイプで。きっと彼女にはそんな僕よりも親身になって話を聞いてくれる友達がいるはずだ。いるはず、なのに。

「だって君、いつも教室でみんなの事見てるでしょ? けど噂話に入るわけでもないし、何を知ってもだんまり。だから悩みとか、聞いてくれそうだなって思ったの」

 いわゆる都合のいい奴、って扱いのようだ。なんだか拍子抜けなのが本音である。けど、それでもそうやって僕を見てくれていたのは、なんだか恥ずかしい気持ちもある。見ているのは僕だけと思っていた。けど、そうじゃなかったんだ。

「……いいよ、だけど、僕は本当に聞いているだけだからね」

 だから僕は、それに答えるべく笑ながら言葉を紡ぐ。それが見ているだけの僕にできる、唯一の事。

「わかってるよ」

 彼女は僕のそんな様子を見て、またふわりと笑いながらさっきまで持っていた紙を僕に差し出す。表情は曇り空だけど、さっきよりは、晴れていた。

「あのね――美術部、なくなっちゃうの」

 紡がれた言葉は酷く単調で、けど、悲しいもので。僕だってその言葉の意味はわかる。そして僕は、彼女がどれだけ絵を描くのが好きなのかも知っている。

「うち、部員が少なくてさ。まともに活動してるのも私だけだから……だから廃部って」

 糸を弾けば音が震えるように、彼女の声はまるで楽器みたく弱く震えていた。それはもう、聞いているこちらが悲しくなるくらいに。

「仕方ないの、うちって、賞取った事ないし、部長の私も絵を描くのが好きなだけだから」

 賞の一つでも取れたら変わるんだろうな、と言う彼女は、言葉とは裏腹にどこか楽観的で。僕は彼女じゃないから彼女が本当に考えている事はわからないけど、その矛盾にどこか違和感を感じる。そして、すぐにその違和感の正体に行き着く。

「あぁ……」

 彼女はきっと、諦めているんだ。この部活の事も、これから絵を描くのも、きっと。

 けどそれが僕にはわからない。僕は彼女みたいな好きな事もなければ、楽しいと思えることもない。だからきっと、彼女の気持ちは見ていてもちっともわからない。なんでそうなるのか、なんでそんな、簡単に諦められるのか。だって――


「――絵は、場所なんて選ばないのに」


「えっ……?」

「あっ」

 ついこぼれ落ちた言葉に、僕は慌てて口を抑える。

「ちが、えっと、これは」

 取り繕おうとしても出る言葉はちぐはぐで、僕は自分の口じゃないみたいでガラでもないのに首を横に振り、どうにかして今の言葉を誤魔化そうとする。けど、

「……」

 どうやら、彼女の耳には既に入ってしまったようだ。

 誤魔化すのを諦めて溜息をつけば、彼女は呆気にとられた顔で僕の事をじっと見ていた。

「……その、さ」

 なるべく慎重に、慎重に言葉を選ぶ。見ていた僕は気の利いた事が言えるわけではない。だから、慎重に。

「君は、絵を描くのが好きなんだよね? 僕は絵心なんてないから楽しさはわからないから、そんな偉そうな事は言えないけど……」 

 一拍、僕にとっては短い一拍のはずのとてつもなく長い時間が、部室の中に流れる。まるで綺麗な水面を揺らしてしまったような緊張感が、僕の中に広がっていく。やっぱり僕は、見ている方が向いているよ。

 けれどもそんな事は言ってられないから、言葉を止めずに続ける。見ている僕の、たわいもない言葉を。

「絵を描くのが好きなら、どこだってできるんじゃないかって、僕は思うんだ」

「どこ、だって……」

「そう」

 どこだって。

 例えば、家や教室。

 例えば、公園のベンチ。

 例えば、どこか静かな場所。

 紙と筆と自分さえあれば、場所は問わない。誰に指をさされても、誰に文句を言われようと、絵を描くのは本人の自由なんだ。だから――

「辛いならやめた方がいい。苦しいなら捨てればいい。けどさ――その中に楽しさが少しでも残っているなら、僕はやめないべきだと思う」

 はっきりと紡いだ言葉は、静かな部室には大き過ぎて。横目に彼女を見れば、彼女の瞳には大きな雫が……

「えっ!?」

「あ、違うの、大丈夫、大丈夫だから」

 何が大丈夫なのかはわからないけど、彼女はいわゆる泣き笑いの表情で首を横に振っていた。ありがとう、なんて場違いな言葉を呟きながら。

「私、そんな事今まで言われたことなかった、絵を描くのを肯定された事も、どこだってできるってのも」

 呟いた言葉は、こぼれ落ちては弾けて。

「だから、ありがとう」

 まるで確かめるように。噛み締めるように出た言葉は、紛れもなく僕に向けられたもので。彼女は今度こそ笑いながら何を考えたのか立ち上がると、一つの引き出しに手をかけ何かを探していた。

「あった」

 何があったのだろうと見ていると、彼女が取り出したのは一枚の綺麗な画用紙。それを僕の前に置くと、今度は色鉛筆を取り出して画用紙の横に置いたのだ。

「一緒に、絵を描こうよ」

「え、僕絵心はないって」

「場所は選ばないんでしょ? なら、絵も人を選ばないよ」

 とんだ極論だと思った、暴力的にもほどがある。

 けど当の本人は悪気がないようで、僕の横に座ると楽しそうに絵を描き始めていた。線は細く、絹のように。使う色は四季のようで色鮮やかに。僕には到底想像できない世界が、そこに広がっていた。対して僕の絵はやっぱり散々で、色味も味気もなくて、とてもじゃないけど並べて描くのは恥ずかしくて。

 彼女は今どんな顔で絵を描いているのだろうか。そんな事を考えてちらりと盗み見れば、ちょうど彼女も僕の方を見ていたようで目が合った。

「ねぇ」

「なに」

「絵って、やっぱり描くの楽しいね!」

 僕には一生わからないだろう感覚を喜ぶ彼女の表情は、今日一番の鮮やかさで――まるで、雲一つない晴天のようだった。


 ***


 あれから数日後。

 美術部の部室前を通ると、そこは忙しなく荷物を出し入れする教師達で溢れていた。

 美術部が今の代でなくなるのが正式に決まり、元々活動が少なかった事からなくなるまでは半分を物置にする事になったとか。どうせそれが目的で廃部にしたんだろ、これだから大人は汚く醜い。

「……」

 ドアの隙間から見えた部室はもうあの時の姿を留めておらず、画材なんかは埋もれてしまっていた。まるでゴミ箱のような扱いをうける部室は、僕の知っている美術部部室ではなかった。

 ――けど、

「……あ」

 一つ、一つだけ。

 数日前とは変わりないものがそこにあった。

 それは――彼女の姿。

 彼女は荷物に埋もれながら、今日も一人荷物が置かれていない場所で絵を描いていたのだ。

 誰になんと言われようと、指をさされようと。彼女は今日も、世界を彩る。


 これは彼女が描きたかった、色鮮やかな世界のお話。

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