第8話 戻らない 明日
多分、あのアルバムはさゆりが卒業するまで見つからないだろう。でも、もういいのだ。葵は駐輪場に自転車を入れる。なんとなくサドルをなでた。ほんの十日ほど前、あの神社で彼女たちにあった事自体が自分にとっての大きな切欠というか、転機というか。仲間だと思える人に会えた最初の瞬間だったのだと思う。
世の中には伝えるべきことと、そうではないことがあると葵は思う。真実は必ずしもやさしくない。真実は必ずしも安らぎをくれない。追い求めた答えが、逆に苦しみを増幅させることがあると、知っている。
何年も心に蓋をしていたような気がする。有り体に言えば、傷つくことが怖かったから。だから他人と関わらなかった。消極的に、同じことを繰り返して生きてきた。でも、ちょっと踏み出したら、違う世界が広がっていた。でも、その何もない生活と、新しい世界、どちらがいいかなんて受け取る人間で違う感覚を得るはずだ。
だからまだ、悩んでいる。態度を保留にしている。
三日ほど、あちこちに連絡をして、知らない人に頭を下げて、そして、結論を得た。最初はただの妄想に近い思いつきだった。でも、その予感が外れることは最後までなかった。言うなれば妄想を否定しようとあがいた結果、事実にいきあたってしまった。ショックだった。何故、と思った。でも短絡的な怒りは抱かなかった。
…とにかく、話をしようと思った。
だから、夏休みの学校に電話をかけた。出たのは荒神だった。丁度よかった、と先に気になっていたことを聞いてみた。
「あの…。先生、今辺くんのことなんですけど…」
彼の、処分についてだ。全部言う前に笑ってるような気配が、電話越しにも伝わってきた。
『一青瀬、先生な』
「はい」
『こないだ駅前で絡まれてかつあげされたんよ。殴られてしもーた』
恥ずかしいから内緒よ、という笑い声にちょっと泣きそうになりながら、小声でお礼を言ったところで、それで、と問いかけられる。
『用事はそれだけね?』
違う。そして多分、荒神もそれに感づいている。少し迷ったが、伝言をお願いした。黙って聞いていてくれた彼は最後に言った。
『そっか、判っちゃったか』
「すみません」
『それで』
荒神の声が少し固くなる。吊られて葵も居住まいを正していた。
『言うんね?』
葵は少し黙った。そして正直に答えた。
「わかりません。まだ」
荒神は又、笑ったようだった。荒神に頼んだ伝言で指定した時刻は今から約十分後。生物準備室にご足労願った。校舎に入る。下足場に人影が見えた。目がなかなか慣れない。靴を履き替えて、その人物のほうに進む。
「言っとくが、あいつには謝らないぞ」
彼は言った。葵は思わず笑ってしまう。
「そんな要件じゃないよ」
漸くぼんやりと顔が見えた。素直に呼び出しに応じてくれた夕歌は顔を背けている。おそらく、こんなふうに呼び出されて来ること自体が彼にとっては慣れないことなんだろう。
二人で階段を上り、廊下を二度折れる。生物準備室は開いていて、空調がかかっていた。おそらく荒神が気を回してくれたんだろう。中に入ってから夕歌は怪訝そうに問いかけてきた。
「女三人は?」
「呼んでないよ。秘密の話なんだ」
言って、定位置に座る。夕歌は机に肘をついてしばらく葵を見ていたが少しして小さく笑った。
「お前、解いたんだな」
「…うん」
「ちょっと悔しいわ」
夕歌ははは、と笑って机に突っ伏した。
「だから俺なんだな」
「うん…ごめん」
「いいよ」
夕歌は柔らかく笑んでいる。目を伏せて。スッキリした顔をしていた。彼女に事実を伝えるかどうか、夕歌にも相談に乗ってもらおうとそう思ったのだ。多希や綺莉も、と思ったが彼女たちは多分にべもなく伝えると言うと思った。だから夕歌だけ来てもらった。
時計を見る。秒針が回る。予定の時間になり、腕時計の正中を過ぎてどんどん進んでいく。目を離す。引き戸の前に人気が見えた。ガラリ、と開く。
暗い顔をしていた。
「わざわざすみません、先生」
無言だった。彼は室内に踏み込むなり右脇に避けられていた綺莉のパイプ椅子を持ち出し、真ん中に掛ける。判決を受ける被告人のようだった。否、事実断罪だと認識しているのだろう。
葵は眉根を顰める。横の夕歌を見た。少しだけ驚いて居るようだった。
「僕らは貴方がどうしてそうしたのか知りたいだけなんです。それを、教えては貰えませんか?」
真っ直ぐに、前かがみで椅子に掛けるその男性を見る。いつもは後ろにきっちりと撫で付けた髪がほつれて前に降りていた。
「村上先生」
村上は膝に肘をつき、手を組む。そして上目遣いに葵を見た。
「どこまで知っている?」
葵は下っ腹に力を入れた。目をそらさないように努力する。そして言った。
「貴方が綾目さゆりの父親であること、だけです」
村上は深く息を吐いた。目を伏せた眉間に苦悩の跡が残っている。
「どうして私に行き付き、私だと証明できた」
その目を見ると悪あがきではなさそうだ。彼はただ過程を知りたいのだろう。
「卒業アルバムは隠されたと思いました。ではいつか。僕らが学校に向かっている事を知ってる人はいないはずです。でも予想できた人はいました」
葵は言葉を切る。こういうの、得意ではない。村上も夕歌も黙って聞いてくれているが説明は難しいものだ。伝えきる自信はあまりなかった。
「この間の様子で、さゆりさん達が荒神先生に相談していたと推察しました。学校に向かう最中、多希さんは何度か荒神先生に電話をかけていた。荒神先生だけは、僕らが答えを知ったと推測できたかもしれない」
それは一つ目の切欠だった。葵は更に続ける。
「荒神先生は年も若く素性もはっきりしています。とすれば、綾目さんに父親の事を知られたくないと思っている第三者ということになります。荒神先生は綾目さんの従兄ということだから、事情があって知らせたくないのかと思いました。そう考えると急に協力的でなくなってしまった理由も説明できます」
緊張してきた。拳をぐっと握る。息を吐いて続きを話し始めた。
「では自分の意志か、誰かのためか。自分の意志というのはつまり綾目さんに真実を伝えたくないから、ということです。綾目さんの父親がとんでもない人ならそうかもしれないと思いました。でも、綾目さんのお母さんは、最後までその人を待っていた。ここからはただの推測です。綾目さんのお母さんのことは知りません。だから綾目さんを根拠に考えました。
綾目さんはちょっとマイペースだけどすごく、賢い子だと思います」
面接みたいで緊張する。夕歌を見ると深く頷いてくれた。頷き返して向き直る。
「お父さんが会わせたくないような人物ならば綾目さんのお母さんはすっぱり手紙を処分してしまったんじゃないでしょうか。自分の気持ちはコントロール出来ないかもしれません。でも娘の害になると思うならお母さんが手を下していたと思うんです」
葵はさゆりの家を思い出した。神棚の上に、ずっと貼られていた紙。あれは、隠していたのだ。だから。
「あの手紙はお母さんにとっても大切だったんだと思います。だから、手の届かないところに隠した。多分無意識だったんでしょうけど、僕にはそれが、心の表れのような気がするんです」
手が届かないところにいる人、だと。村上を見る。その目はドロリと暗い。
「その時ほんの少し、綾目さんの父親は死んだんじゃないかと思いました。でもそれならば隠す必要はないんです。確かに綾目さんは悲しみます。でも人はいつか死ぬ。彼女に何年も隠すことじゃない。だとすると、荒神先生は誰かに協力している、という線の方が濃い気がしてきました」
村上は何も言わない。葵は切り口を変える。
「そこまで気づかなかったんですけど、アルバムを隠すって行動はすごくリスクが高いんです。妨害者の存在を教えてるようなものです。荒神先生はいい人だから余計な一言でそれを露呈してしまった気がする。荒神先生がアルバムがないことを勘違いと片付けようとした時、綾目さんが感情を爆発させてしまったんですが、あのことがなかったら気付かなかったかも知れません」
ゆっくりと何度か大きく呼吸した。一度に喋って、苦しくなったのもある。呼吸がうまくできないほど緊張してるのだ。
「つまり、わざわざ卒業アルバムを隠す理由が必要です。遠くにいる人なら名前がわかった所でそこまで困らないと思います。名前だけでたどり着ける可能性はとても低い。そこで仮説が立ちました。彼女が見知った人物が、彼女の父親である可能性です」
目を伏せる。村上は何も言わない。ただ、黙して並べられる言葉を聞いている。
「僕は嫌な予感っていうのを感じました。予感というか、直感です。僕は今辺くんから村上先生と荒神先生のうわさ話を聞いてました。昔教え子だったと」
村上の目が夕歌の方を向く。夕歌は何も言わない。村上は葵の方を向いて口を開いた。
「うわさじゃなくて事実だ。今辺の姉も私のセミナーに居た。私が大学を辞めた最後の年に、一回生だった」
「
夕歌の言葉に村上は眉根を顰める。でも何も言わなかった。
葵は息を止める。村上を見た。なんだか死の宣告でもするかのように胸が痛い。でも言わないと、伝わらない。
「それで…。直感的に、僕は貴方が父親ではないかと思ってしまった」
そう言って葵は目を伏せる。
「僕はそうじゃないといいと思いました。あまりに近くにいた。そして隠し通そうとしている。…だからその予想を打ち消そうと、貴方じゃない証拠を得ようとしてあちこち問いあわせて、貴方が綾目さんのお母さんと高校の時には既に付き合っていたと知りました」
葵は大きく息を吐いた。電話をした箇所はそんなにない。鏡山大学と、卒業アルバムに乗っていたさゆりの母の同級生数人だ。それだけで、村上の名前が出てきてしまった。
「僕の話はそれだけです」
言うと村上はゆっくり背筋を伸ばした。そして、重たい口を開いた。
「私は綾目…さゆりさんが生まれたことを、彼女が五つになるまで知らなかった」
ちょっと驚いた。夕歌も同じようだった。少し間を置いて、村上は続ける。
「同窓会で兄弟の居る人物から、さなえさんが父親のわからない子を産んだという噂を聞いた。それで動揺して、さなえさんに連絡をしたんだ。ほぼ六年ぶりだった。人目を避けて少し離れた場所にある神社で会った」
では、あの手紙を渡したのはその時だったのだろう。けれどその手紙をさゆりの母は隠してしまった。村上の迎えを待っていたというのは本当なのだろう。でも多分、その日を境に気づいたんではないだろうか。
つまり。さゆりが神社で初めて父親に会った日、おそらくさゆりの母親は迎えなど永遠に来ないと悟ってしまった。さゆりの事を知ったのに、彼は…村上は島に戻っては来なかった。いつかさゆりたちが待つ島に戻ってくる。いつか迎えに来る。そんないつかは永遠に来ない、うたかたの夢だと、気づいてしまった。
「さなえさんと別れたのは私が研究に打ち込むためだった。教授になったら迎えに行く。生活が安定したら、と。そんな風に思っていた」
「捨てたんじゃねーか」
夕歌の声が響く。村上はしかし、この間のように語気を荒らげたりはしなかった。一昨日のあれも演技だったのかもしれない。知られたくなくて必死だったんだろう。
村上は夕歌の方を向き、静かに答えた。
「そのとおりだ」
深く刻まれた眉間の皺が苦悩を物語っている。葵は黙って村上の話すのを待った。
「私は恥ずかしかった。さなえさんがそこまで思いつめて身を引いてくれたのに、くだらない派閥や権力争いに巻き込まれて、一生出世できない位置に押し込められた自分が」
今思えば、くだらないプライドのためだった、と村上は言った。彼が後悔だけを腹いっぱいい詰めているのはよく解る。隠したかった理由もなんとなくわかった。
「結局大学を辞めてしまって、新しい大学で同じ道を目指した。…でも、その大学は数年前に潰れてしまった。研究もできない。さゆりさんはもう十二歳になっていた。今更父親だなんて言えないと思った」
夕歌が突如立ち上がる。ばん、と机についた拳。でも、村上にそれをぶつけることはしない。殴っても意味が無いと、そう思ってるんだろう。
「あんたのは全部言い訳だ」
吐き捨てるような台詞は重たい。村上は唇を引き締める。そして大きな手のひらで自分の顔を覆った。
「そうだ。立派になって迎えに行くなんて理想を捨てきれずに何もかも傷つけ、壊した。そんな自分の願望の為に生きる私は、さなえさんにとっても、さゆりさんにとっても、害悪でしかなかった。だから余計に…」
続く言葉はなかった。後悔しても過去は戻らない。そして願うだけも、待つだけでも、何も変わらない。
では、いつか、なんて夢を見ているのは罪なのか?否。そうじゃない。
夢を諦めるべきだったのか?判らない。
でも、二人を迎えに行って、それでも夢を追う道を、村上が目指さなかったのは確かだ。なにもかも得ることはできないと思ったのかもしれない。でもそれは結局、二人を捨てたとも言える。
五歳のさゆりが受け取った手紙が何もかもを象徴している気がした。自分が父親だと伝えたい。でも伝えられない煮え切らない気持ち。周りくどい問いかけに自分の情報を隠して、それでも繋がっていたいという本音。でも怖い、だから隠す。堂々巡りだ。
良いか悪いか。子どもの自分には、判らない。それが正直な感想だった。
葵は静かに一言、告げた。
「僕は、言いません」
振り返ると夕歌は葵を見ている。睨んでいると言ってもいいかもしれない。葵は臆さずに向き直り、続ける。
「夕歌がどうするかは彼次第だと思います。でも、僕から綾目さんには言いません。…多分荒神先生も村上先生を待っていたんだと思います」
言葉をきる。まっすぐに村上を見た。彼も葵を見る。手のひらが顔を離れ、膝の上におりる。
「村上先生が自分で言ってくれるのを、待ってたんだと思います。だから僕も待ちます。そうじゃないと多分」
言葉を切る。夕歌は葵から目をそらして小さく息を吐いた。
「何も変わらないんです」
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