第7話 Life isn’t always what one likes.

 早朝、といっても七時に校門前。十分前に行くと他の面子はもう揃っていた。

「ご、ごめん…」

 慌てて言いながらブレーキを掛けて自転車を降りると皆一様に無言で首を横に振った。

「私達同じバスなのよ」

 多希は冷めた声で気にしないで、と答える。全員で校内に踏み込んだ。さゆりは一番後ろでずっと俯いている。あいつ絶対シメる、なんて綺莉の言葉に夕歌が同意してるのが聞こえた。あの人については意見がよくまとまるんだなと思ったが多分、この二人は同族嫌悪なんだと思い至る。それはともかくも、かくいう葵もなんとなく気持ちが重い。

 全員がなんとなく不機嫌なのには理由がある。一昨日の夕方のことだ。

 すべての問の答えを見つけたあと。全会一致で学校の図書室に向かった。

 最寄りの駅に着いた頃には全員が走っていた。卒業年度と一緒にページも判った。早く知りたい、とそんな気持ちに突き動かされていたんだろう。夕方に差し掛かった校内は人気がない。多希が何度か電話を手にしている姿を目にしたが、つながらなかったようだ。

「ユースケは本当に役に立たないわ」

 苛立った様子の多希に葵はこわごわ聞いてみる。

「あのさ、荒神先生とはなんでそんなに仲が…」

「仲がいいんじゃないの、従兄なのよ」

 ピシャっと返って来た言葉にいろいろと得心が行く。彼女たちは多分一緒に育った時と同じように振舞っているのだろう。目的地は用務員室だったが、ドアを開けようとした綺莉はすぐに手を止める。そして、吐き捨てる様に鍵がかかっていると告げた。全員が何故焦燥感にかられていたのか、その理由は正直なところうまく説明できない。でもどうしてもすぐに知りたい、とそう思っていた。

 仕方なく、ダメ元で職員室に向かった。ダメ元と言うのが、件の教師、村上に関する懸念があるということらしい。曰く、

「あの人、何故かしらないけど私達姉妹を特別嫌っているの」

 多希が言うのだからきっと、本当にそうなのだろう。用務員の老人はその点、忘れ物をしたと伝えたら快く鍵を貸してくれるらしい。穏やかないい人だということだった。

 ただし、土曜の今日は休みなのか、ただ単にもう帰ってしまったのか、居ないようだ。職員室の前で立ち止まった多希は一度大きく息を吐いた。失礼します、と声を掛けて戸を開く。人の気配は無い。多希は振り返り、どこかほっとしたような顔をして室内に踏み込む。中程の窓と窓の間の柱に壁掛けの蓋付きキーケースがあるのが見えた。どうやらそこにむかっているようだ。その柱のすぐ脇は確か荒神の席だ。もしここにいれば確かに、すぐ確保して貰えそうな位置だった。

 多希がキーケース横の丸い金属の出っ張りをスライドさせ扉を開けようとする。しかし彼女はそれを幾度かガチャガチャと動かしている。すぐに悟った。開かないのだろう。

 やがて諦めた多希が戻ってきた。

「開かないの?」

「ええ」

 戸口まで戻ってきた多希は小さく肩をすくめる。

「あそこがしまってたこと、今まで一度もな…」

「何をしている」

 低い声は叱りつけるように響く。葵とさゆりは肩を震わせたが、残りの三人は敵意をふんだんに含んだ視線を向けた。振り返ると教師らしい男性が立っている。背が高い。夏休みなのに襟元のボタンをきっちり閉め、濃いグレイのスラックス。袖をまくりもしていない。黒々とした髪をぴっしり後ろに流し、彫りは深め、若い頃はいい男だったんじゃないか。見たことがない先生だがそれも仕方ないだろう。何しろ転入して一週間ほどだ。

 背筋をまっすぐに伸ばしたその教師は畳み掛けるように多希に言う。

「下校時間だ。何をしている」

 さゆりが小声で、村上先生、と呟いた。…なるほど、事態は最悪だと瞬時に悟る。

「図書室に忘れ物をしてしまって戻ってきたんです」

 多希が言う。村上の眉根がぴく、と動いた。

「キーボックスが開いていなくて」

 続ける多希の声を、村上はピシャリと断ち切る。

「明後日にしなさい」

「でも…」

「図書委員も司書の先生も帰宅された。勝手に開けるわけには行かない。学生の分際でこの夏休みのはじめにどうしても必要なものというのはないはずだ」

 取り付く島もない。しかも、あんまりないいようだ。しかしそれをはっきりと言い返すだけの材料が見当たらない。

「どうしてもというなら明後日朝一番にくればいい。判ったら帰りなさい」

 早くと、急かされてしぶしぶ、全員が校内から出た。途中、綺莉が夕歌に鍵を開けて忍び込もう、と持ちかけていたが、彼は図書室は鍵が新しいんだ、と一言で切り捨てた。開けられる鍵と開けられない鍵があるようだ。

 結局その場は解散になって、荒神と連絡をつけた綺莉から全員に集合時間のメールが送られたのが午後八時。その時は何も思わなかったけどこの早朝と呼んでも良さそうな時刻に夕歌が居るのは少し意外だった。

 視線に気付いたのだろう、夕歌が葵を見る。「おはよう」と声をかけると、「こんな時間に集合とか頭おかしい」なんて台詞が聞こえてきた。予想通りでちょっと笑ってしまう。

「迎えに行ってやったろうが」

 綺莉の声。夕歌は大きなお世話だ、と言いおいて、そういえば、と眦を吊り上げた。

「お前親父と喋ってたろう」

「貴様が寝ているから家人が出てきただけだろうが」

「誰が来てくれって言った!」

 葵はまあまあ、と二人を引き離しにかかる。多希は小さく「辞めなさいよ」と姉を制しながら階段を登り始めた。向かうのは生物準備室だ。早足で角を曲がり、少し前に出ていた綺莉が引き戸に指をかけた瞬間、向こうから開いた。

「おはよう」

 ボッサボサの頭の荒神が出てくる。くつろげたYシャツの首元にネクタイらしき長物がぶら下がっている。多希が呆れたように言った。

「いつにもましてだらしない」

「勘弁してよ多希さん、俺遅刻できないけえ五時過ぎにはきとったんよ」

 いきなり朝六時半に鍵を確保しろとかひどいよね、などと話しかけられて葵とさゆりは反応に困る。綺莉の冷めた一撃が飛んできた。

「どうせコンパでもしてたんだろうが」

「厳しいのぉ、綺莉さんは」

 否定しないということは図星なんだろう。朝まで飲んでいてここに直行しておそらく寝ていた結果か。

「司書の先生多分九時か十時じゃけんね。一応僕も行くけんね」

「ああ…。ただし黙ってろよ」

 ユースケが喋ってると苛つく、などと吐き捨てる綺莉。少し怖い。ビビってる葵の隣に並んでいたさゆりが小声で言った。

「小さい時はみんな、ユースケちゃんユースケちゃんってなついてたのにね」

 それは結構意外な話だな、と葵は思いながら、ひょっとして、と思い当たる。憧れていた人物の現実が目につく歳になってしまったからなんだろうか。愛情の裏返しというやつだ。なんとなく思い当たるフシがある。ずっと大きな存在だった母親が、普通の人間――。そう、全能ではなく矛盾をはらんだ只の人間である事に気付いた時、とか。大体、荒神はシャキッとしてたらもう少し違いそうなのだから。

 図書室は一階の隅だ。荒神の皺のついたズボンのポケットからホカホカの鍵が出てくる。鍵を開いて中に入り、電気をつけた荒神はさ、と声を掛けてきた。

「どーぞ、ごじゆーに」

 全員が卒業アルバムの方に向かう。真っ先にしゃがみこんださゆりが、え!と彼女らしくない、とても大きな声を出した。

 みんな言葉を失っている。葵も身をかがめてなんとか見える位置に頭を下げて、声を上げそうになる。見つけ出した答えは一九六三年。規則正しく並べられた卒業アルバムのうち、ほんの数日前にさゆりの母の写真を見つけた年度は一九六五。そしてさゆりが半分だけ引っ張りだしているアルバムの表紙には一九六四とあった。そしてその左横は空白…。一九六二と六四の間には、何もない。

「どういうことだ」

 葵は思わず問いかける。あの時、あのメモのはしきれで図書室に来ていた時。卒業アルバムは、さゆりが持っていた一冊をのぞいて揃っていた筈だ。その事実を知っている姉妹は殆ど顔面蒼白と言った体だった。一番近いさゆりの指がそろり、と空白の反対側のアルバムを引っ張りだす。一九六二。やはり、一冊だけない。

「さ…探そう」

 葵の声で皆呪縛が解けたようだ。綺莉はさゆりの隣の棚の足元を、夕歌はその棚の上から、多希はその棚の更に隣を、葵はさゆりの上を。其々一冊づつ背表紙の和暦を確認していく。一年たりとも飛んでいない。埃を被っていた卒業アルバム。よっぽどのモノ好きでないと見ることはない。

「どしたんね、みんな」

 間の抜けた荒神の声に苛立った綺莉の言葉が斬りかかる。

「一冊足りない。持ち禁なのに…」

「無くしちゃったんじゃろ。こんだけあったら一冊くらいないのがあるよね」

 のんびりした声に怒った綺莉が身を反転させる。拙い、と思った葵は素早く二人の間の位置に入った。背中で綺莉を押しとどめる。

「先週まであったんだ!」

「に、人間勘違いてことも…」

 勢いに気圧されてか、首を竦めた荒神は力なく愛想笑いを浮かべる。その態度が余計に気に食わなかったのだろう、綺莉が一歩躙り出ようとする、が、それより先に

「絶対にあったよ、ユースケちゃん」

 はっきりと。そう言い放ったのはさゆりだった。怒ってはいない。ただ、悲しそうな顔をしている。何より彼女がそんなにはっきりものをいうところをほとんど見たことがなくて、葵は驚く。相手が見知った相手だからではないだろう。多分、彼女にしては珍しく、腹の底から言いたいことなんだろう。

「隠されちゃってるんだよ。ユースケちゃん最近変だよ」

「な…何が…」

「昔はいろいろ手伝ってくれてたじゃない。綺莉ちゃんが突然遠くに行きたいって行っても絶対次の週には車出して連れてってくれてたじゃない。でも、わた…」

 右の瞳から溢れでた雫に、さゆり自身が驚いたような顔をした。小さな手がそれを拭って…ひどく子供っぽい仕草で。そしてもう一度口を開く。

「わたしが困ってるって相談してから、絶対に手伝ってくれなくなった。神社探してる時もそんな神社知らないとか、連れていけない、ずっと用事が…あるって」

 語尾は小さく掠れて消えた。いつも穏やかに、のんびりと笑っている子だと思ってただけにそのさまがひどく辛い。さゆりは静かに、本当に静かに問いかけた。

「私にお父さんがいないから…お母さんも死んじゃったから、ですか?」

 その台詞は関係ない葵の胸にもグッサリと刺さった気がした。彼女が今まで感じてきた痛みが一度に溢れでたようにすら見えた。どうしていいのかわからない。掛けるべき言葉も見つからない。パッと聞いたら論理の飛躍だ。でもその裏にある彼女の気持ちを思ったら本当に胸が痛い。刹那の沈黙、直後――。

 バキ、って感じの音、本当にするんだと関係ないことを思った。殴られた衝撃で荒神の顔が派手に振れる。手が早そうなのは勿論綺莉だったけど彼女はまだ葵の後ろに居る。そして驚いている。さゆりは人を殴れるような子ではない。勿論。多希ならばビンタくらいするだろう。でも、荒神が受けたのは拳だった。

 そう、その拳は夕歌のもの。彼は何も言わない。ただ、数歩後ずさった荒神を睨みつけている。荒神が一番驚いた顔をしていた。だけどすぐに、何かに気付いたようで二人に頭を下げた。

「違う、そうじゃないんよ。協力できなかったのは…その、悪かったけど…」

 荒神は殴られた頬を指先で抑える。口の端が切れて血が滲んでいた。

「そんな事が理由じゃないんよ。思ったこともない。さゆりはいつでも大事な従妹じゃし」

 そんな風に思ってたなら悪かった、と。殆ど二つに折れる位荒神は頭を下げる。多希が大きなため息を付いた。

「生物準備室に行きましょう。氷もタオルもあるわ」

 文句を言うものはいなかった。アルバムはない。ここにいる理由もない。多希が先頭で部屋から出た。彼女は次に出てきた荒神から鍵を受け取り、彼に殴られた顔を隠して先に行くよう言っている。綺莉に支えられるようにしてさゆりが出ていき、有歌と葵が出て、多希が鍵を掛ける。多希は小走りでもうかなり遠くなった荒神の背中を追った。その背は、すぐに綺莉とさゆりを追い越す。

 角を折れる。夕歌は一言も喋らなかった。そして少しして、階段を登る集団から離れる。彼は何も言わずに一人踵を返した。帰ろうとしているのは明白で、葵は慌てて最後尾のさゆりに駆け寄って暇を告げる。放って置けるはずはない。さゆりはびっくりしたように立ち止まり、振り返って、離れていく夕歌の背中を見つめた。

 「ほんとだ」なんて呟き。そして葵の方を見て真剣な顔で何かを言おうとする。

「あの!気持嬉しかったって、ありがとうって、…あの」

 「あの、あの」と焦って空回りするさゆりに「伝える」と笑いかけてから、葵は急いで駐輪場に向かう。自転車を回収して一転、校外に走りだした。色々と悪い予想をしてしまったが、バス停までの道すがらなんとかその姿を見つける。自転車を降りる。静かに、少し間を置いて隣を歩いた。

 彼は何も言わない。その激昂の理由は掴めない。でも、彼を非難はできなかった。いいことではない。でも、遣る瀬ない何かについて想像位はできた。

 日は大分高くなっている。ただ黙って並んで歩いているだけだけど、夕歌が拒絶の意思を示さないのがなんだか妙に嬉しい。何より彼が、最初の印象と違ってとてもやさしい人間だと知ったことが嬉しかった。

 バス停についた。ベンチに座った彼に習ってポールに自転車を立てかけ、少し離れて座る。ジワジワと鳴く蝉の声が煩わしい。掛けるべき言葉は今度も、見つからなかった。

 中途半端な時間だからか、交通量はそんなに多くない。やがて一台のバスが滑りこんできた。そわそわと焦る葵の横で、夕歌はぴくりとも動かない。

 一度ドアを開けたバスは誰も載せることなくドアを閉め、走りだしてしまった。

 風が吹いている。生ぬるくても、今は心地いい。額の汗を拭ったところで、突然夕歌が口を開いた。

「ひとりごとを言う。聞くな」

 わけのわからない台詞だ。でも葵は深く頷いた。夕歌は人差し指を伸ばして、他の指を組んでいる。そのまま膝に肘をついて指先で顎を支えた。

「別に退学になっていいんだ。どうせ出席日数足りなくなりそうだし」

 夕歌は真っ直ぐ道路を見ている。

「ずっと引きこもってた。学校はアホらしいから好きじゃない」

 それは。彼が所謂不登校であることはなんとなく勘付いていた。この数日の様子からして、篝姉妹と夕歌は同一地域の出身だ。その上同学年である綺莉は夕歌がこの学校に通っていることを知らなかった。クラスが違っても通常そんなことにはならない。ではなぜか。遭遇の機会が極端に少なければ理解はできる。

「俺はさ」

 その後の夕歌は、なんというか、絞りだすように声を発した。その後の重たい言葉を聞き返しそうになって葵は唇をぐっと噛む。喉がひりついた。葵は自分が目を見開いているのに気づいたが、どうしようもなかった。蝉の声が嫌に耳につく。汗が首筋を伝って気持ちが悪い。

 俯く。唇を噛んで、彼が割合あっさりと…内容の割にはあっさりと口にした言葉を反芻する。

『実の母親に捨てられたんだよ、血のつながってない男のところに』

 単純な文章にされている。でもどうしても判らない。そんな境遇になったことがない。想像をしてみるけど、おそらくそんなものでは比べ物にならない。結果掛けるべき言葉は見つからない。

「違う男の子どもを妊娠して、偶々出会った親父と無理やり結婚して、俺を産んですぐ逃げたらしい。俺の、その、血のつながってない親父はいい人で、いい人過ぎて――嫌になるんだよ、自分が。なんで生まれたとかずっと考えてて、もう考えたくなくなって…それで、部屋に閉じこもってた」

 汗を拭う。夕歌はどこかうつろな目をしている。真っ直ぐむいたその瞳に映るものは多分ない。

「さゆりが片親なのは知ってた」

 妙に、音が遠くなったような気がした。

「あいつはでも…違うと思ったんだ。いつも脳天気そうで、庇ってくれる奴がいて」

 だから。

「さっきの…聞きたくなかった」

 彼女の悲痛な叫びがよみがえる。

『私にお父さんがいないから…お母さんも死んじゃったから、ですか?』

 おそらく、それは言ってしまえば被害妄想みたいなもので、脈絡もない飛躍した言葉で。でも彼女が悪いとはどうしても思えない。きっと、父親がいないことでそう言ってしまうだけの、心ない言葉や仕打ちを受けてきた結果なのだろうから。

 二台目のバスも行ってしまった。風が吹く。葵は「さゆりが」と切り出した。漸く声が出た。そんな風に思った。

「気持ち、嬉しかったって。言ってたよ」

 俯いた夕歌は盛大に頭を掻き毟った。恥ずかしかったのかもしれない。

「くっだらねえ」

 そう吐き捨てて勢い良く立ち上がった彼は、歩き始める。二歩ほど進んで立ち止まった彼は振り返らず言った。

「歩いて帰る。またな」

 こちらを向かなかった彼の表情は判らない。でも。彼も又、嬉しかったんだと直感した。

 そして葵も、「またな」なんてたった三文字を大事に胸にしまった。

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