第4話 墓守
ガチャッ、と鍵の開く音がした。しかし、この部屋の鍵は今テーブルの上にある。呆気にとられて見ていると、軽い音を立てて開かれる引き戸。そこには、一人の男が立っている。その右手に小さな金属板と針金。どうやらその二つで鍵を開けてしまったらしい。
彼は少しの間、ぽかんとした顔で硬直していたが、すぐに口の端を吊り上げ、言った。
「ムカナタバカ姉妹じゃん」
背はどのくらいだろう、一七〇センチってとこだろうか。取り立てて低いという程でもないが、なんとなく華奢な印象がある。前髪は短くまっすぐに切りそろえられその下の意地の悪そうなキツイ目元がこちらを睨んでいる。ちょっと怯んでしまってから葵は横の多希を見上げる。そしてまた彼に視線を戻した。
顎下あたりまででざんばらにカットされた髪はなんとなくホストだとかそんなイメージの、所謂モテそうな男子のする髪型だが、実際その男はモテそうな、可愛らしい顔をしている。高く通った鼻筋、大きめで軽く吊り気味の瞳、色は白く、肌は荒れていない。人形のような、といったら多分言い過ぎだが、多希と張り合えるくらいは美少年なのではないだろうか。…ただし、相当性格は悪そうだ。発言の印象が多分に含まれているけど。
「誰だっけ?」
さゆりが小声で多希に問いかける。多希の代わりに綺莉が立ち上がり、彼の前に立ちふさがった。なるほど、身長差20センチってところか。やはり170そこそこのようだ。
「墓守…お前この学校だったのか」
問いかけは意外なものだった。転校生の葵は兎も角も、なぜ七月も終わりかけている今その反応なのだろうか。墓守と呼ばれた彼は思いっきり頤を上向かせ綺莉を見下ろす。綺莉がその態度で挑発されるのは目に見えている。わかっていてやっているようだ。
「墓守じゃない。今辺様だろうが。タンスの分際で」
タンス?と反芻して綺莉に思い切り睨まれた。キリ=タンス…。桐の箪笥ということだろうか。
「誰がタンスだ」
その声は案の定、強い怒りをはらんでいる。止めようか、と立ち上がりかけたが、多希がそれを制する。多希は招かれざる客に話しかけた。
「今辺さん。それで、貴方何をしに来たの」
今辺は答えなかった。代わりにポケットから出したくしゃくしゃのわら半紙を綺莉にぶつける。今度こそ綺莉はキレる。そう確信した葵は慌てて立ち上がったが、黙って紙を拾い上げた綺莉は戸口の彼を部屋に引き込んで素早くドアを閉めた。冷気が逃げるからではなさそうだ。
さすがの今辺も少し意外そうな顔をしている。綺莉はそんな彼を無視して後ろ手で鍵も閉めてしまった。ガチャ、とやたらと乱暴な音がする。相当の力を込めて閉めたのだろう。怒っているのは間違いなさそうだ。
綺莉は黙ってぶつけられた紙片を多希の方に放る。それは多希の前、丁度葵との間の机の上に落ちた。多希は静かに拾い上げる。
多希の白い指で丁寧に伸ばされたその紙片。机の上に広げられたそれは昨日多希に取り上げられたもの、そして先ほど綺莉が見せたのと同じものだ。
「二人目ね」
多希のつぶやき。綺莉はふてくされたような顔をして元のパイプ椅子に掛ける。多希は葵の横、多希の向かい側の椅子を指した。
「今辺さんもお話を聞いてください。そこ、開いてます」
従わないと思った。が、彼は意外にも素直にそこにかけた。さゆりが慌てた様子でお茶を入れ始める。多希はチラリとそちらに視線をやってから二人に向き直った。
「今一青瀬さんには説明したのですが、ここは疑問を解決するだけの同好会です」
えらく簡素な説明になった。多希とて今辺が入部するとは思っていないのかもしれない。
「入部に際してテストをしています。このメモ」
多希は二枚の紙を揃えてから二人に見えるように提示する。M歴C部、とあるあれだ。
「このメモの意味を推察して、且つ、わざわざ部室を探しに来た人は合格」
「誰が入りたいんだそんな仲良しごっこに」
今辺の台詞にはいちいち刺がある。仲が悪いのだろうか。ただし、綺莉はともかく他の二人にはあまり面識はなさそうだ。やっぱり単に性格が悪いのかもしれない。というかなんとなくちょっと怖い。背も葵より低いし、正直筋力がありそうでもない。どちらかというともやしっ子のようなのに威圧感がある。
「そうね。今までは三人の同好会でいいと思ってたのよ。でも今私達はちょっと困っているの」
ぴく、と今辺の肩口が反応したのが見える。多希を見ると彼女の憂いの目は真っ直ぐ今辺を見ていた。自分ならどんなお願いでも聞いてしまうかもしれない、けれど今辺は真っ直ぐ多希を見つめ返している。その無感情な目はどちらかと言うと好戦的な部類のもので彼女の色香は通じてなさそうだ。
「事情があって、
「そんなの俺には…」
「今辺さん、パズルとか好きでしょ」
多希は唐突にそう問いかける。今辺は答えず、露骨に不快げな顔をした。
「だから?」
否定しないということは実際にパズルが好きなのか。ちょっと意外だ。思いながらやりとりを見守る。多希は畳み掛けるように言った。
「そういう、問題の答えを探すのが好きな人が必要なの。考える頭は多い方がいい」
今辺は少し黙った。そしてゆっくり葵の方に顔を向けた。
「で、あんた誰?」
問いかけは唐突で面食らう。今のタイミングでそれかよ、と多希を見上げるが彼女は薄っすら微笑むだけで咎める様子はない。とりあえず無難に名前をいうことにした。
「一青瀬葵、一年です」
「珍名だな、字は?」
珍名とは失礼だと思っていたら横のパイプ椅子から人のこと言えるのか、なんて突っ込みが聞こえてきた。今辺、という名前には特に違和感は覚えない。少なくとも自分の名前よりは。葵は黙って胸元のポケットから生徒手帳を引っ張りだした。名前の欄を開いてみせる。
「へえ。俺は
夕方の歌、でゆうたという名前は確かに変わっているかもしれない。でもきれいな名前だ。そう思っていたのに、パイプ椅子からまたしても嘲笑的な一言が入る。
「アダ名は墓守」
確かに墓守と呼び、彼はそれを自分のことと認識していた。でも、何故?疑問は解消されないまま、夕歌は眦を釣り上げ、冷たく言い返す。
「五月蝿い、タンス女」
どうやら冗談抜きで綺莉とは仲良くなさそうだ。多希はなんだって仲間に引きこもうというのだろう。明らかにやりにくくなりそうなのに。多希は目で姉を制し、二人に向き直った。
「急だけど今からついて来てくれない?さゆりの家まで」
「ハァ?!」
がた、と立ち上がった夕歌は多希を睨みつける。多希は真っ直ぐその視線を受け、そして言った。
「本当に困っているの。今日だけでいいから、ちょっと手伝ってください」
夕歌は暫く何も言わなかった。ただ多希を睨みつけているように見えた。でも、次の瞬間目を伏せた彼はひどく気だるそうに言った。
「今すぐ出るなら行ってやるよ」
呆れて口が開いた状態で居たら、どやどやと他の四人が現れた。そちらをチラリと見てから視線を戻す。目前に立つのはあばら屋以下だと思う。頑張れば自分でも作れそうな作りの…なんだろう、建物というよりは寧ろ屋根、だろうか。正面から見据えた構え自体は綺麗に言えば古民家っぽい、というか、単に見慣れたくの字の屋根が付いている。ただし正面の壁からこちらに突き出した庇の下は全く空洞で、車庫か何かのようだと最初は思ったが、車庫なんてものは入口があっても反対側の壁はあるもので、こういうものをなんというのか全く思いつかない。要は建屋の屋根も、左右の壁もあるが、正面とその奥の壁はない。内装もない。でもパッと見た感じは家屋のようにも見える。庇の上の部分には渡船乗り場、となんだか個性的な字で書かれていた。
「よかった、わかったんだ」
笑いかけてくるさゆりを見て、もう一度建物を見る。他のみなはバス通学だということだったが、葵が自転車であることを告げると綺莉が
「では、船着き場で待ち合せよう」
と言い出したのだ。どういうことかは飲み込めなかったがとりあえず言われた通り、道路に沿って進み、”渡船乗り場"を探した。そして見つけた建物がコレだ。そのまんま、渡船乗り場と大書きされた小屋もどき。右の壁に背を当てた長椅子が二脚、左側の粗末な椅子には新聞を読んでいるおじさんが一人。作業着姿でなんとなく煤けている感じだった。じろり、とこちらを睨んだその人物は怯む間もなく建屋の反対側、すなわち外に向かって声を上げる。
「源ちゃん、団体さんじゃ」
行くよ、という声は綺莉のもの。どうやら葵意外にはこれが普通のようだ。ぞろぞろと屋根だけの建物を抜けて行こうとする四人の後ろについて、葵はおっかなびっくり建屋の屋根を見上げる。建屋の骨があるだけで、風情も何もあったものじゃない。件のおじさんの前を通り過ぎ、まっすぐ正面に見えたのは、粗末な船と紺色の帽子を被った別のおじさんだった。この人が源ちゃんなのかもしれない。
「ああ、篝さんとこの。久しぶりじゃないね、乗りんさい乗りんさい」
多希は丁寧に会釈して先頭で乗り込む。綺莉、さゆりも、夕歌さえも迷いなく乗り込むが、葵はさすがにちょっと躊躇した。乗らんのね、と声を掛けられておずおずと問いかける。
「自転車は」
「乗せんさい、別料金よ」
大丈夫よね、沈まんよ、なんてガハガハと笑われて葵は思わず笑い返した。自転車を持ち上げて慎重に船に乗り込む。かなり揺れた。動揺しているのを見て取ったらしい綺莉が声をかけてくる。
「すぐ着く」
その言葉の通り、出発した船は対岸にすぐに近づいた。ほんの二、三分だったろう。海を渡ると、他の四人は揃ってアスファルトの道路の方に上がり、左側に進み始めた。古い住宅が並んでいる。五、六軒過ぎ、一際古い、そして大きな構えの門の前で、先頭の多希が立ち止まる。それに習って全員が入り口の前に立ち止まった。
見るからに古い屋敷だった。木で作られた門は観音開きで、ギイギイと音がする。さゆりはひどく手こずりながらそれを押し開けて四人に声を掛ける。全員がぞろぞろと門をくぐった。門の敷居は妙に高い、足を引っかけそうになってちょっと慌てた。敷地はそんなに広そうではないかな、と思っていたが、門と建屋の間に一メートルほどの奥行きの庭があり、庭木が立っている。木枠の引き戸をスライドさせるとガラガラと音を立てた。四畳くらいありそうな土間とたたき、正面の廊下の先にかなり広い畳の部屋が続いている。奥行きはかなりありそうだ。どうやら、そんなに広くない印象の幅方向に対して、奥行は相当あるようだ。
「どうぞ。…ちょっと線香臭いかも知れないけど」
確かに線香の香りがするなと思いながら靴を揃えて上がり込むと、左手のふすまに手をかけた綺莉が手招きしている。ついて入るとそこは六畳ほどの和室だった。中央に座卓、入り口の面の壁に背をつけて書棚が一つ。特定の病気に関する本が目についた。小説なども入っているがまばらに難しそうな歴史の本がある。誰かの趣味なんだろうか。
視線を移す。右手の奥に仏壇がある。大きな仏壇だった。夕歌の身長と同じくらいだ。仏壇の上の天井に天の文字の紙が貼られている。相当前から貼っているのだろう、なんとなく汚れて見えた。そういえば以前居た街の個人商店にあった神棚の上の天井にも同じような紙があった。確か字は”空”だったが、同じようなものなのかもしれない。
何気なく視線を下ろしてぎょっとする。仏壇には野位牌が立っていた。確かあれはなくなってすぐしか家に置かないものだ。祖母の葬儀の時に葵の家にも短い間あった気がするがその後確か大した日を置かずにどこかにやられてしまったような。
「不幸か?」
短い問いかけは夕歌のものだった。同じく野位牌に気づいたらしい。葵は憚って聞けないと思っていたが、夕歌はあっさりと口にした。ただし、その表情は決して軽くない。でも、作ったような悲しい顔もしていない。さゆりはちょっと困ったような顔で笑って、うんと応えた。
「お母さん、死んじゃったんだ」
気まずい沈黙があたりを押しつぶしていく。ちらり、と伺いみた夕歌はなんとも言えない顔をしている。出会ったばかりだけどそれでも判る。なんだか彼らしくない、感傷に似た表情が浮かんでる。何故か悪いことをしたような気がして目をそらすと、綺莉が黙って立ち上がったところだった。庭に向かった面の障子を開けて雨戸を開く。むっとした空気が入り込んできた。
「暑いね」
声は多希のもの。多希は部屋の隅にあった扇風機を持ち上げて座卓の横に近づける。さゆりは急にあ、と驚いたような顔をして立ち上がり、転がる毬のような勢いで走っていった。
「さゆ、走ったら転ぶよ!」
綺莉が声を張る。うん、と間延びした返事がしたがその後「わ!」と言う悲鳴も聞こえた。転びはせずとも躓くくらいはしたようだ。
「綾目は大丈夫なのか」
ちょっとうんざりしたような声で夕歌がぼやく。確かに、ちょっと心配になる感じの子だ。
「ちょっと抜けてるけど、多分この中で一番生活能力高いのよ、あの子」
多希は言いながら庭を背に座る。綺莉がゆっくりその横に並んだ。葵はちょっと困って座卓を見た。なんとなく仏壇の前は悪いような気がして、入り口すぐの所謂お誕生日席に座る。座った後で面は違えど多希の隣だと気付いてちょっと緊張した。夕歌は多希の向かい、葵の面違いの隣に座る。
遠くから近づいてくる足音。姿を表したさゆりはお盆にお茶を五つ載せてきた。麦茶のようだ。
「ごめんね」
さゆりは言いながら夕歌の隣、仏壇に近い開いた席に膝をつき、お盆を置いてからお茶を配った。手を伸ばして受け取る。ありがとうと声をかけるとニッコリと笑いかけられた。
「じゃあお願いの続きを話します」
さゆりはそのまま夕歌の隣に座った。お茶が行き渡ったのを見計らって多希が口を開く。少し、間があった。
「結論から言おうかと思いましたけど、止めます。先月の話からします」
さゆりが俯く。多希は眉間に皺を寄せてさゆりの方をチラリと伺い、正面の夕歌、そして隣の面の葵の方を見た。
「先月、さゆりの母が亡くなりました。…病死です」
空気が重たい。夕歌は何も言わない。葵は静かに頷くしかない。多希は葵に頷き返して続けた。
「さゆりのお母さん、さなえさんは、私達姉妹の母方のいとこにあたります。この家は私達にとっても祖母の家。今は出かけてますが、さゆりとさなえさん、お祖母様が三人で暮らしていました」
俯いたさゆりの口角がく、と上げられているのに気付いた。そしてそれが震えているのにも。
泣き笑い、とはよく言うけども、彼女のそれは笑顔を作り慣れた果てのものに思えて妙に悲しかった。
「さゆりの母はシングルマザーです。一度も結婚していません。結局、父親のことはお墓まで持って行ってしまいました。」
綺莉は無言で窓辺の方まで膝立ちで進み、雨戸の細い面に背を当てて座り直した。片膝を立てて外を見ている。なにか思うところがあるんだろうとそう思わせる。
「さゆりは一人で遺品の整理をしていました。そこで、一青瀬さんが拾ったあの紙片…今辺さんは見てませんね。これを見つけました」
多希は言いながら件の紙切れを出した。いつぞやの走り書きのような文字。それはアルバムのページを示したメモだった。
「本当はこれ、卒業アルバム、1965年、P5、(5,2)とあったみたいです。私達に見せようと学校に持ってきた日に運悪く授業中に手紙を回していると勘違いされて取り上げられそうになって」
「ペンケースの上に置いていたの…。先生と引っ張り合いになって破れちゃったんです」
さゆりはえへへ、と笑ったけどなんだか力がない感じで、結構傷ついている様だった。
「さゆりはこのメモの中身に見覚えがあったらしいんです。さゆり」
声を掛けられてさゆりはちょっと困ったように多希を、そして縁側の綺莉を見た。綺莉は外を見ている。でもなぜかさゆりは少し安心したような顔をした。
「ほんとうに小さい時の話なんですけど、私、どこかの島の神社に居たんです。後にも先にもそんなところに行ったことがなくて…あの」
夕歌がひどく面倒くさそうに隣のさゆりを見ている。イライラしていると顔に書いてあった。ちょっと脈絡のない話だったからなんとなく気持ちは判らないでもない。けど、夕歌の視線をそらす方法を考えてしまう。さゆりは泣きそうな顔になってきてる。夕歌をつつくと煩わしそうに手で払われた。
「私、そこで知らない男の人に手紙をっ…」
泣いているわけではないけど、呼吸の仕方でも失敗したのかしゃくりあげるようにして詰まる言葉。多希が優しく声を掛ける。
「さゆ、おちついて」
「う、うん」
さゆりは二度ほど深呼吸をして何故か夕歌に謝った。夕歌は何も言わない。さゆりはよし、とよく判らない掛け声を付けてから再び口を開いた。
「小学校に上る前、何故か一人で知らない神社にいて…。小さい神社…すごく高いところに境内があって、石段の上に立ったら海がよく見えた。そこで、知らない人にあってたんです。顔も覚えてないけど、優しかった」
さゆりは俯いて、膝の上に置いた手を見ている。指先が少し荒れている。母の洗剤まけした指先を思い出して葵は表情を曇らせた。
「そこで別れ際に渡された手紙、引き出しにしまってたはずなのにすぐになくなっちゃって…。多分お母さんが隠しちゃったんだと思うんです。だから多分」
さゆりは顔を上げる。そして上目遣いに葵を見た。真剣な目をしていた。
「あれ、お父さんだったんだと思う」
なんとなく、飲み込めてきたかもしれない。神社で会った男性の記憶。渡されたはずのメモ。そしてそれを不自然な状況で紛失した。その意味を考えたら確かに、同じ結論に達するかも知れない。
葵は問いかける。
「子供の頃渡されたメモの中身がこのメモと同じ中身だった、ってこと?」
さゆりは首を縦に何度も振る。そして、直後でも、と言いおいた。
「違うんです、もっと、いっぱい書いてあった。なぞなぞが書いてあって、子どもには読みにくい字があって…それに、男の人っぽい字だったはずなんです。このメモは多分、お母さんの字です」
なるほど。葵はつまり、と前置いてさゆりと姉妹に向けて問いかける。
「つまりこのメモはお母さんが書き写したもので、探して欲しいものっていうのは、このメモの原本ってこと?」
多希は静かに頷く。夕歌は面倒くさそうに立ち上がった。
「時間の無駄」
見下した彼はひどく苛ついた顔をしている。
「メモを探してくれっていえばすむことだろ」
応じたのは綺莉だ。ちら、と夕歌を見上げた彼女は立ち上がり、ちょっと小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「最後まで聞かないと協力したくならなかったろ」
「…」
なるほど。大事なメモである事を提示して訴求力を高める狙いがあったってことか。
「引き出しとか、本棚の本は全部見たんだ。さなえさんはこの部屋以外に持ち物は置いてないみたいだし…」
綺莉は言いながら書棚を指す。葵は部屋を見回して問いかけた。
「洋服ダンスとか、そういうものはあるでしょう?」
「それがさ、クローゼットはさゆと共同なんだってよ」
さゆりが触れるところに置くわけはない、か。なるほど。大体それくらいのことならわざわざ他人を家に上げて探そうなんて気にはならないだろう。相当探して、ないのだ。
思っていたら綺莉が押さえた声で付け足した。
「この件、四十九日までって期限が付いている。お祖母様はさなえさんのものは処分するって言って聞かないらしい。だからそれまでに」
…それまでに手紙を見つけておかないと、持ち物と一緒に二度と手に入らなくなるかもしれない。そういうことか。「明後日だ」と吐き捨てた綺莉の顔は絶望に歪んで見えた。
葵は考える。畳の下とか?いや、劣化してしまいそうだ。鴨居の上はどうだろう見上げたが、ものが置けそうなところはない。
「この狭さでないんなら捨てたんだろ」
冷たい一言は夕歌のもの。思わず彼を見る。しんと静まった空気。綺莉は爆発しそうな顔をしている。多希もそうだ。さゆりが泣いてしまうのではないかと思って視線をやると、彼女は意外にも強い目をしていた。
「お母さんは捨てないよ」
はっきりと言う。
「なんで分かる?」
夕歌は小馬鹿にしたように片眉を吊り上げて彼女を見下ろしている。本当に無駄に高圧的な男だ。でも、さゆりはいつもよりピント背を伸ばしてしっかりと彼を見据えている。
彼女ははっきりと言った。
「お母さんはお父さんのこと、ずっと好きだったから」
さゆりは真っ直ぐ夕歌を見る。
「もう逢えない好きな人の物、私の知っているお母さんなら絶対に捨てられない」
なるほど。捨てないんじゃない。捨てられない、のか。その理屈は判らないでもない。形見のようなものということだ。確かに、隠している方が有り得る話かもしれない。ただ、夕歌も怯むことはなくさゆりを見下ろしている。
少し間を置いて、さゆりは視線を落とした。その後の声はいつも通り、細くて弱い声だった。
「ずっと待ってたから」
ずしん、と重い言葉だ。殴られたように感じて葵はさゆりを見る。さゆりは怒るでもなく、再び顔を上げてただじっと夕歌を見ていた。夕歌は大袈裟にため息をつく。そして黙って仏壇の前まで行った。
「椅子か脚立持ってこい」
「え?」
戸惑うさゆりよりも先に綺莉がさっさと出て行く。程なくして戻った彼女はおそらく食卓用の木製の椅子を持ってきた。受け取った夕歌は仏壇の前に椅子を置く。ひどくお座なりな動作で手を合わせてすぐに椅子に登った彼は天井に手を伸ばした。
驚く全員の目の前で彼はあっさりとその紙…天と書かれた紙を剥ぎ取る。画鋲を外してぽん、と放られた紙は妙にゆったりと空を泳いだ。俊敏な動作でそれを掴んだ綺莉は目を見開いて硬直する。
「俺なら目につくところに隠すね」
夕歌は椅子から降りるともう一度手を合わせた。先程と同様全く気持ちがこもって見えない仕草だった。
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