第2話 M歴C部(季節外れの転校生、幽霊と再会)

 所謂季節外れの転校生というやつだ。衆目を集めてしまうのは致し方ない。そう思っていても、やはりどうにもむず痒い気がする。信号待ちで立っているだけなのに自分の周りだけどうにもバリアのようなものがあるのではないかといった具合に空白が出来てしまい、緊張に汗を掻いてきた。とは言えそれは今止まっているからで、いつも通り自転車で移動してしまえば多分、気にもならなくなるのだろう。

 腕時計を見る。もう少しで7時半になるところだ。学校までは平坦な道しかなく、交差点もここで最後なのは編入試験の時に経験済みだ。今日も暑い。初登校だから早めに出たが逆に朝練に向かう生徒に混ざる結果になってしまったようだった。引っ越しも完了して、本日から登校はしているものの、もうほんの三、四日で夏休みに突入してしまう。ならばすっぱり二学期からの登校を希望したかったが、諸々の事情及び主に宿題の関係でどうせ登校することになるから、と母親に押し切られてしまった。

 制服も間に合っていない。だから、酷く目立っていた。正直少し母を恨んでいる。

 駐輪場に自転車を止めて、職員室へ向かう。父の転勤は恐らくこれで最後ではないかという話だったが実際のところどうかは判らない。各地でそれなりに友だちができて、また疎遠になって、を繰り返してきているし、今回もそうなった所で大した感慨もないだろう。

 でもどうせなら。本当にもう引っ越さないのなら、学生のうちにちゃんと誰かと関わっておきたいとも思った。そんなこと思った所でどうにかなることではないかもしれないけど。

 下駄箱で靴は脱いでみたものの、置き場所が判らない。真新しいサンダルに足を入れて仕方なく靴を持ち上げる。少し迷ったが放置するのもどうかと思ったし、職員室で場所を聞くまで持ち歩こうか、とそう思ったのだが…。

「貴方が転入生?」

  よく通る声だった。かなり動揺して振り返ったのは他でもない、先日のツーリング中の恐怖体験の事が頭にあるからだ。視界にはロングヘアの女子生徒が立って いる。下足場の出入り口から指す光を背に受けているため、黒っぽい影のように見えた。ただ、あの日見た『何か』ではない。痩せ型の体は同じだが、スラリと 高い身長にロングヘアのシルエットだ。腕を組み、こちらを見ているのは気配で分かった。内心ビクビクしながらもとりあえず頷くと彼女はそう、と返してき た。

「貴方は私と同じクラスです。下駄箱はここ一面であっています。この左隅がとりあえず開いているから正式な場所が判るまで入れていいと思います」

 彼女の指すのは右手に立つ下駄箱の出口側一列目の一番下。確かに確実に開いていそうな場所だ。

「あ、ありがとうございます」

  言いながら指し示された場所に近づくと漸く彼女の風貌が判った。一言でいうと相当の美人だった。途端緊張して靴を落としそうになる。 短めの前髪はすっぱりと真横1文字に切りそろえられ、他はまっすぐ伸ばされている。言ってしまえばほとんど市松人形のようなロングヘアなのに不思議とそれほど重たくは感じない。アーモンド形の大きな瞳が前髪のせいで際立って、半端無く眼力が強いように感じられた。顔を見るとたじろいでしまうと気付いて、視線を外さざるをえない。彼女は全くそんな様子には気付かないようで自分の靴箱らしき場所で脱いだ靴とサンダルを入れ替える。ひざ下当たりの丈のスカートは彼女が優等生であることを示している。そこからのぞいた膕があまりに白くてなんとなく赤面した。

「職員室まで案内します。ついてきて」

 固い喋り口。有無を言わせないものに感じる。職員室は校舎内で唯一識っている部屋だったが今は黙って従うことにした。彼女は美人だがこの状況は喜ばしいとは思えない。突き当りを左に進んで一番奥の引き戸をノック、次いで彼女は室内に声をかける。

「失礼します」

 カラカラと音を立てて開いた扉の内側までは入らず、どうぞ、と体を寄せて道を開けてくれる。

「ありがとうございます」

「いいえ」

  応えた彼女はそっけなく踵を返す。長い黒髪が揺れて不思議な余韻を残した。クラスメイトらしいが、親切に案内はしてくれたものの名前を教えてはくれなかった。でもすぐにそれはお互い様だと気付く。その上彼は教えてもらっている方で、寧ろ名乗るべきだった。失礼だったかな、とは思ったが、気を取り直して職員室に踏み込む。弱冷房のためかやたらと忙しくうちわを振る担任の姿が見えた。

 ドアを閉め、教師の席に向かう。彼はこちらをちらりと見てから大きく手招きしてきた。

「はよう来たね、えらいなー」

 子供扱いはちょっと癪に触ったがいえ、と返す。教師は少し笑ってドアの方を指した。

「今の、かがりだな。クラス委員だからいろいろと教えてもらいんさい」

  小声で「美人じゃろ」、と囁かれるが返答に困る。眉根を寄せると「まあ都会はもっと美人がおるんじゃろうなー」とぼやかれた。…そんなこともないと思う。先ほどの彼女は思わず引くくらいにはきれいな娘だ。そうそう居るレベルではない。かといってそれを力説するわけにもいかず、結果相槌すら打てず困った表情で濁した。

  教師は眼鏡の端からちらり、とこちらに視線をくれる。なんとなくもっさりとしたイメージしかなかったが改めてよく見ると思ったより若い。三十路は過ぎて居ると漠然と思って居たが恐らくまだ勤務五年以内の教師ではないだろうか。オマケに、割りと整った顔立ちのようだ。女子生徒に人気が出てもおかしくなさそうだが、なんというか全体的に妙に野暮ったく、損をしているな、などと些か失礼な感想を抱く。

  勿論転校早々目をつけられたくもないのでその辺りについては触れない。そういえば名前が思い出せないな、と慌てて机の上に目を走らせた。丁度開封済の封筒が投げてある。鏡山大学、と印刷された水色の封筒の中段辺りにシールに書かれた宛名を見つけた。荒神優介…そうだ。確かにコウジン、と名乗っていた。変 わった字を書くな、と感想を抱いて人のことは言えないなと苦笑する。

 こちらの様子には気付かず、教師の視線は制服に向いていた。

「そのズボン、目立つよなぁ。まあ新学期には間に合うんじゃろ?」

 やりにくいだろうががんばれよ、色男、なんて軽口は正直嬉しくない。この学校は割合地味な紺のブレザーにグレイ地のスラックスが制服だったが元の制服は紺色ベースのチェックのズボンだ。パッと見て明らかに違う。

 悪目立ちして絡まれたりしないだろうか、といった不安はある意味であたってしまったといえる。相手は決して不良少年というわけではなかったが。



  地域ではそれなりに学力のある人間が通っている学校ということもあり、クラスには荒れた雰囲気も、特に悪ぶってるように見える生徒も居なかった。偶々か否か、欠席者はゼロ。席は後で継ぎ足したからだろう、一番窓側の最後尾。なかなか悪くない。緊張しているうちに授業は終わってしまい、昼休みもなんとか近くの席の生徒数名とたどたどしい会話をもって会食、一応和やかに終了。

 チラチラと脇目で見ていたが、件の篝は一人で教室を出て行った。他のクラスに親友でも居るのかもしれない。

 午後も取り立てて変わったことはなかった。所謂イベント、フラグ、その他、これからの展開を変えそうな特異な状況は残念ながら何もなく、所変わった授業はイントネーションの違和感のみ残して全くあっさりとつつがなく終わってしまった。取り立てて首をねじらなくても見えた篝の所作及び行動も極めて一般的で、メモすら取れないほど凡庸だ。肩すかしだが彼女はとても美しい女子生徒というだけで至って普通だったようだ。…自分でも何を期待していたのかわからないが。

 一日を終えて改めて考えると、この学校は多分’当たり’だった。色んなところを転々として来るうちに、荒れた学校も幾つか見てきた。表面は皆上品ぶって居ても、ほんの少し何かが他者と違うというだけでイジメに発展させようかという空気を孕んだ学校もあったわけで。そこまでは行かないにしろ、いろいろな空気を感じてきたが、ここの生徒は皆、ある意味大人だと思った。

 人間誰しも自分を守りたい欲求のようなものがある。他者の容認というのは割りにレベルが高い行動だ。尤も今まで通ってきた学校の生徒たちも今の歳になったら多少違う様子になっているのかもしれないが。

 空っぽの教室を見まわす。一緒に帰ろう、と声をかけるにも現状誰がどこに住んでいるかなど 判らないわけで、予想通り一人の帰宅となりそうだ。慣れているといえば慣れているが、どうやらもう転勤はなさそうだと聞いても居るし、今までより少し真剣に人間関係を築こうかなんて決意はあったわけで。

 手間を省いて人と知り合うにはやっぱり部活なりした方がよさそうだ。今日の昼食中に遠慮がちな探りあいをしてみて、打ち解けるにはそれなりの月日を要すると痛感した。趣味なりが同じ人間を早めに見つけておくほうが今後のためだと思ったわけだ。

  幸いなことに今朝渡された資料の中に部活の栞なる如何にもハンドメイドな冊子が入っていた。とりあえずそれをパラパラとめくってみたのだが残念ながら自転車関係の部活はなかった。それでは、と他の趣味を考えたが、あとはちょっとアニメを見るだとか、ゲームをするだとか、そんなものしかない。元々そんなに仲が良くなる前に転校転校、と繰り返してきたせいで一人で時間を潰せるものが好きだったんだろう。

  それでは、と文化系の部活のページを見る。簡単に部名と紹介文、小さなイラストと活動教室名が書いてある。それが定形の書式なんだろう。ペンフレンド、だとか今どき誰が入るんだ?というような部活も現存しているらしい。鏡山大学へ進学した先輩5人!なんて微妙な数の煽り文句からして、受験に向いた部活なんだろう。鏡山大といえばこのあたりでは結構有名な大学だ。かるた部と書かれたコマには午前の授業で見た教師と思しき似顔絵があった。女の子らしいタッチだが薄毛の部分が非常に的確である。

(なるほど、競技かるた全国準優勝者なのか、あの先生は)

 冊子はほんの8ページほどで終わってしまう。元々そんなに部活に力を入れているわけではなさそうだ。漫画研究部、というのもあったが女子部員が殆どとわざわざ注意書きがしてある。敷居が高そうだ。

 考えが甘かったかな、と半ばあきらめ気味に最後のページをめくる。

 そして気づいた。

(?)

 ステープラで二箇所止めてあるだけの冊子のとじの部分に深く差しこむようにして、二つ折りの紙が挟まれている。とじ込み付録か何かのように見えたが軽く引っ張るととれた。誤植でもあったんだろうか、とそのわら半紙を開く、と。

(M?歴?C?…部?なんだこの部活)

 聞いたこともない。大体真ん中にその部名らしき四文字と、教室の名前が書いてあるだけだった。だけどなんだろう。自分が求めていた不思議ってのはこういうのだった気がして思わずその紙を掴む指に力が入る。

 きっと肩透かしになる、とは思った。この街にきて初回のツーリングで起きた不思議のせいで、ありふれた日常から脱する刺激を追い求めてしまっているのではないか。この間のあれだって多分幻覚とか、幻聴とか、そいった類のことであろうし、簡単に何度も不思議なことは起きないのはこの人生で嫌というほど思い知ってきた。

 どこに行っても転校生、数年たったらいなくなる、影の薄い存在、自分はあらゆる人間にとってモブだ。そんな風に卑屈に思うことにいい加減飽きてきた結果なのかもしれない。ただ、コレは抗いがたい誘惑だった。何かが起きる切欠があるなら、進んで飛び込みたい。後悔はしたくない。そう思った。

 立ち上がる。いつが部活の日かもかいていないし、とりあえず行ってみようと思った。そもそも何をしているのか確かめたい。転入初日だからこそなんとでも言い訳できそうな気がする。

  鞄に冊子を入れて、紙片を持ち上げる。3-H、と書かれている。この学校は確か五クラスまでだ。H?と疑問に感じながらも、教室をでた。

 夏の日はまだまだ高い。セミの声が煩わしく感じられた。きょろきょろとあたりを見回して大まかな検討をつけようとする。

 この学校の校舎は中庭を囲むようにコの字型をしていると、移動教室の時に教えてもらった。曰く、旧校舎の端っこの壁をぶちぬいて新しい建物とジョイントした為、校舎には継ぎ目があるし、古い校舎と新しい校舎が地続きになっている。特別教室があるのは旧校舎側で、一、二 年の教室は二階、三年の教室は三階で、いずれも新校舎側という配置らしい。一年A組はコの字で例えると書き出しの辺りになる。同じくコの字の向きに校舎を 当てはめると、上の横棒と下の横棒にあたる部分の両脇に一ヵ所づつ階段があるので合計四ヵ所階段が付いていることになるわけだ。教室を出て扉の右上に付け られた表示板を見上げる。1-A、と謎の筆文字で書かれている。プレートではなく、透明のプラスチックの間に紙を差し込むタイプのようだ。書道のうまい先生が全クラス分書かされたのだろう。

 校舎の端側の階段は教室のすぐ隣になる。そこを登り始める。ひんやりとした壁に触れながら三階へ。部活の生徒の声がグラウンドから聞こえてくる他は、蝉の合唱しか聞こえない。この校舎に残っている人間はほとんど居ないようだ。階段を登り切って、 教室の前を歩く。この辺りは廊下に窓を設えないようだ。生ぬるい風が吹き付けてすぐに汗が出た。教室を五つすぎ、角を通りすぎて一部屋目。化学室、と書か れている。一度立ち止まって振り返った。3-AからB、C、と数えてきたが五部屋とも無人だった。肩すかしだ。

(…D、E)

 目で教室を数える。

(この並びだと、この化学室はF?)

 直角に曲がった廊下の先の教室に視線を向ける。生物室、とある。その隣は…

「せいぶつじゅんびしつ」

  思わず音読していた。なんとなくぞわっとした。何かに引っ張られるようによろよろと教室の方に歩み寄る。化学室の前を通り過ぎた辺りで階段が目に入る。校舎は新旧共に三階建てなのだが、何故か上に向かって伸びている階段が見えた。日の差す向きの関係か、階段は妙に暗い。何気なく視線を向けて、思わず足を止めた。

 あの少女――ツーリングの最中、神社の参道で姿を消したあの少女…が立っていたのだ。シルエットは完璧に記憶と一致する。思わず腰を抜かしそうになるが気持ちに反して足は一歩も動かなかった。

 少女はこちらを見ている。そして酷く冷たい声を放つ。

「何だ」

 その声までもが、記憶を呼び覚ます。全力で叫びだそうとしながら頭の芯がゆっくり冷えていくような妙な感覚を覚える。落ち着け、落ち着けと念じながらどこかで冷めた自分が思う。やっぱり人間だったんだと。

 急に落ち着いてきた。足も動く。静かに階段の側まで行ってから、別の意味でも驚いた。これまた弩級の美少女だったのだ。ハイレイヤー気味のカット、よく見えなかったけどウルフっぽくかなり軽くなるまですいてある。正面から見た時は気付かなかったが実はロングヘアだ。背はかなり小さい。細身の体は酷く少女めいていて、女を感じさせない。吊り気味の目は大きめ、つんと高い鼻と少し小さめの口元。きゅっと真一文字に引き結ばれている。

「この間、神社で…」

「?」

「一昨日、土曜日」

 少女はあからさまに狼狽した。記憶が呼び覚まされたようだ。

「わざわざ探しに来たのか?!」

 他校の生徒は立ち入り禁止だぞ!なんていう、絶叫に近い音声に慌てて両手を突き出して左右に振る。

「違う、偶然!これ!」

 何がこれ、なのか判らないが体は勝手に例のわら半紙を指し示していた。シドロモドロで転校生であること、制服が間に合っていない事を説明しようとするが、少女の面相は一層冷たく冴える。

「冷やかしだな」

「ひや…」

「なんの部活かも知らんのだろう」

 それはその通り。つまり、確かに自分は冷やかしのたぐいである。駄目だ。これは、何を言っても怒られるパターンだ。思わず口を引き結び黙りこむと、彼女は無い胸を張って宣言した。

「中途半端な奴はお断りだ。部活の邪魔だから、どこかに消えろ」

 消え、ろ。ときたもんだ。その言い草には正直少し苛ついた。

「いきなりそういう言い方をすることはないだろう?」

 正直、誰かに怒鳴られて言い返すなんてことは初めてかもしれない。怒鳴り返しはしないが、はっきりとそう言ってしまったことで今度は彼女が怯んだように見えた。

「大体、そこに立っているのが何の部活だって言うんだ」

 畳み掛けるように言うと、彼女は言い返そうと口を開いた様に見えた。けれどもそれよりも先に彼女を静止する声がかかった。

「また通行人に喧嘩を売ってるの」

 背後からの援護?なのだろうか。振り返ると化学室の前に長い黒髪の少女が居た。立ってるだけなのに様になる。一人目の美少女…篝だ。

「あら。犠牲者は転校生さんね」

 彼女は言いながらゆっくりと二人の間に立つ。転校生さん、という没個性な呼び名は少し癪に障る。

「一青瀬です。一青瀬葵ひととせあおい

 思わず聞かれてもないのに名乗ってから、赤面した。彼女はどうも苦手だ。緊張する。

 階段の少女はむっとしたように更に眦を吊り上げる。篝は少し驚いたように目を見開いたが、ほんの少しだけ笑ってからそういえば、と呟いた。

「ユースケったら転校生が来た、しか言わなかったわね」

  言われてみればそうだ。お陰で休憩時間のクラスメイトの第一声はお名前は、だった。近くの席に居た数名の物好きの皆さんは名前を答えると代わりに名乗ってくれたが、あまりに緊張していて教師の不手際については思いつきもしなかった。環境が変わるのは何度繰り返してもやっぱりストレスだとため息をつく。それにしても。

 ユースケというのは恐らく担任のことだ。職員室のボサボサ頭が頭をよぎる。見た目に反して担任を呼び捨てにするタイプなのか。それにしてもフランクだ。下の名前とは。

「ユースケはアホだから仕方ない」

 そっけない声は階段から。こちらも呼び捨てか。漸く階段女子は降りてくる気になったらしい。歩きながら付け足す。

「電話も出ないしな」

  オマケに電話番号まで知っているのか。と。呆れながら階段を降りきった少女を見て驚いた。居丈高な態度のせいか気付かなかったが、この子は一五〇センチあるのだろうか?一青瀬は一七五センチと平均より少し高い程度だが、こんなに身長差を感じるのは久しぶりだ。まじまじと見ていると、少女は怒ったように眦を 釣り上げて睨みつけてきた。

「見下ろすな!」

「無理よ」

 竹馬にでも乗りなさいとのキツイ返答は篝から。正直助かる。篝は少女、そして一青瀬を交互に見てから、そういえば、と呟いた。

「一青瀬さん、名乗っていなかったわね。二度も話したのに」

 言った彼女はゆっくりとした動作で一青瀬の手の紙片を掴む。そして決して乱暴にでなく、それでいて有無を言わせない仕草で、それを取り上げてしまった。

 わら半紙を丁寧に広げ、その文字列に目を走らせてから、顔を上げた彼女は唇を開く。

「私は篝多希かがりたき、そして彼女」

 言った彼女の指先が傍らの不機嫌そうな少女を指す。

篝綺莉かがりきり。私の姉です」

 顎が外れそうな顔で驚いた。驚いた事自体は確かに失礼だったかもしれない。ただ、その表情を見た綺莉の行動は糾弾されて然るべきだと思う。つまりその、繰り出された上段蹴りは。

 ひゅっ、と空を切る音が聞こえた。振り上がった少女の細い爪先は捉えるのも難しい勢いで自分に向かって飛んでくる。慌てて腕をすぼめてガードしようとした、時だった。

「おまたせええええ」

  エコーのかかった間延びした声がぼややーっと響いてきて驚いて視線を向ける。綺莉も驚いたようでその一撃は寸でのところで止められた。片や蹴り、片やそれ をガードする体勢、側の多希はまったくもって無表情で立つ中、どうやら階下から大声を上げていた少女は可憐な足音を立てて登ってくる。

 柔らかそうな結い髪が揺れている。目前の二人の美少女とは全く正反対の例えて言うならマシュマロのように柔らかそうな少女が近づいて来た。如何にも運動ができません、といった走り方であと3段、という辺りまで駆け上がってきた時だった。

 かっ、とサンダルの爪先が石段を蹴る音。

「あ!」

 上がる声。

 後はもう止める間もなく――。ばさっ、とも、どさっ、ともつかない音を立てて、その少女は足元に転がってきた。その可憐さに反して著しく派手な登場だった。

「気をつけろといつも言ってるだろうが」

 少々慌てた様子で手を差し伸べる綺莉。どうやら知り合いのようだ。手を借りて内股に座った見知らぬ少女はどうやら今打ち付けたらしい額を細い指で押さえながらえへへ、と笑った。

  タレ気味の瞳は大きく、丸顔にかかる髪はひどく柔らかそうに見える。薄っすらとウェーブしているのは癖っ毛のようで、その色はかなり茶色に近い。結い上げた髪を何箇所か三つ編みして柔らかく丸めてある。ほつれた髪もふわふわと柔らかい印象で、どうもこの尖りきった姉妹には不釣り合いに見えた。

「ユースケくん居なかったから、用務員室まで行ってたの」

  だから遅くなっちゃった、と言い足しながら彼女はポケットから鍵を取り出す。無味乾燥なキーホルダーの形からどうやら教室の鍵であるようだ。綺莉がそれを受け取ると、少女は尚も座ったまま恥ずかしそうに笑う。可愛らしい娘だが、この少女もユースケくん、か。なかなか乱れている。

 結局この子の登場で毒気が抜かれたらしい綺莉はちらり、と葵に視線をくれた後、何も言わずに生物準備室の前に立った。受け取った鍵を差し込み勝手に鍵を開けてしまう。そして用なしになった鍵を急に葵に向かって投げつけてきた。

 慌ててキャッチすると背後の多希にぽん、と肩を叩かれる。

「返してくださるのね、ありがとう」

 そんなつもりは毛頭ない。反論しようとする前に、寝ぼけた顔の少女がその可憐なかんばせを輝かせる。

「え?そうなの?ご親切にありがとうございます」

 漸く立ち上がった少女にペコリと頭を下げられてしまっては、今更お断りもしにくい。仕方がないか、とあきらめそうになりながら、教室に入っていく多希を慌てて呼び止めた。

「いや待って、閉めて帰らなくていいの?」

 多希は立ち止まりついて来ていた少女を室内に通してから返してきた。

「いいのよ。そのうちユースケが来るから」

「…判った。用務員室はどのへん?」

「校舎を出て裏側よ。使ってない古い焼却炉があるから、その前」

 それではご親切にありがとう、なんて全く心のこもってない一言を最後に、引き戸は閉められる。少なからぬむかつきを覚えながら手の中の鍵を握りしめた。

  残念なことに真面目な人間なので、これを返さざるを得ないのだろう。ため息を付いて階段に踏みだそうとする。そういえばあの謎のメモは取り上げられてしまったな、なんて思った瞬間だった。視界の端で、何かが揺れた。階段は薄暗く、目はあまり慣れていない。身を屈めて何が動いたのか見極めようとして気づいた。小さな紙切れが落ちている。

 拾い上げて広げてみると、歪な形のその紙片には数字と文字が走り書きされていた。

(バム?965、P5、…(8,2)。なんだこれ)

 やたらと今日は、メモに縁があるみたいだ。

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