ウタカタメモリーズ

ユキガミ シガ

第1話 序、或いは未知との邂逅

 流れ落ちる汗を幾度目か、腕全体を使って拭う。振り返ると、走ってきた海岸線が大きくカーブしているのが見えた。乗ってきたロードバイクを堤防に立てかけ、大きく息を吐く。ツーリングで色んな所を回ってきたつもりだったけどここは本当に綺麗なところだ。真っ青な空に夏の雲が膨らんであちこちに浮いている。風が気持ち良い。

 時計を覗きこむ。時刻は十一時を少し回ったところ。目的地までは昼ごろまでにはついてるだろう。地図を開いてもう一度ルートのチェック。指先で来た道をなぞる。山を示す三角と等高線の縞模様、外側に海岸線を示す濃い線。建屋を示す箱がない区間が続いている。そのまま指でなぞると、集落と集落の丁度真ん中当たりの山の中にぽつんと四角が書き込まれていた。鳥居のマークが有る。ここまで暫く何もないところを走ってきたし、現在地は恐らくこの神社だろう。と、すると目的地までは残りあと大体二十キロってとこだ。

 それにしても。と改めて当たりを見回す。たった今走ってきた大きなカーブから海上にそびえる小島二つ、そしてそこにかかる注連縄。鳥居。それらが見えてスピードを緩めたのだけど、止まって改めて見回すとなんだか胸が熱くなる風景だ。色んな街を点々としてきていたし、祖父母は全員生まれた時には亡くなっていたから田舎というものはない。それでもなんだかどこか懐かしい。この風景は幾度目かの小休止を取るに足る佇まいだと、そんなふうに思った。

 堤防の外に立った鳥居からまっすぐに伸びた石畳の参道は見慣れたアスファルトを二分して山手に伸びている。道路を渡った先にはもうひとつ鳥居と、鬱蒼と生い茂る緑の中にほとんど埋まるようにしてひっそりと駆け上がる石段。登ってみたいと思った。

 蝉の声が五月蝿い。…筈なのになんだかとても静かだと感じる。人の気配がないからだろうか。

  少し迷ったが、よし、と気持ちを固めてゆっくりと左右を見る。車が来ていないことを確認して道路を渡り、鳥居をくぐった。この辺りの神社はこんな風に海側に向いて参道が伸びている作りが多いように感じる。踏み入ってから気づいたが、生い茂る草で足元がよく見えない。サイクル用とは言え丈の長いジーンズを履いてきたのが幸いした。晴れ 渡っているから日差しは酷く強いのに木々の作り出す影で石段の先は薄暗く、ひんやりとしていた。目を向けるとその階段は少し先で緩く右にカーブしている。 ちょっと躊躇したがゆっくり足を踏み入れた。

 蝉の声が大きくなる。耳が痛いほどだ。苔むした石段にはところどころ落ち葉がかかり、赤く染まっていた。

 なんだか空気が違う。どこか異世界に迷い込んだような気持ちに思わず足が止まった。深く息を吐く。夏の匂いがした。

  気を取り直して再び、一歩踏み出す。脇に立つ石灯籠を過ぎ、更に奥へ只管登っていくが、参道は長く、社殿は一向に見えない。振り返るともう、海も鳥居も見えなかった。同じような石段の道を延々とループしているような、そんな妄想が頭をよぎる。首を左右に振って目をぎゅっと瞑り、足元を見る。落ち葉で埋まった道は柔らかい踏み心地で少し不安になる。

(蛇くらい出そうな感じだな)

 足元に充分注意して…。一歩一歩登っていく。あとどれくらいかな?と顔を上げた瞬間――。

「!!」

 驚いて息が止まるかと思った。石段の真ん中に、誰か立っている。こんなところに人が?背中の汗が一気に冷えた気がした。畢竟、足は止まる。見上げた先のシルエットがわずかに動いた気がする。

  うつむき加減の顔は最初よく見えなかったが、少しして気付いた。それは一人の少女だった。頬のあたりで髪が風に靡いている。生きているのかどうかはよく判らない。幽霊など見たことがないしこのロケーションで人に会うということにどうにも違和感を感じる。無言で立ち尽くして数秒、唐突に目の前の人影は両の腕をまっすぐ横に伸ばした。節の目立つ細い腕だった。

「此処から先、今…立入禁止」

 突き放したような冷たい声だった。少女特有の高い声。凛として響く。とっさに何も答えられなかった。ただその声の主を見る。少女は苛立ったように一歩踏み出してきた。そして酷くきつい口調で言い放った。

「今すぐ帰れ。でないと…」

 気迫に押されて思わず後退る。石段を踏み外し、大きくよろけた。ざあああ、と強く風が吹く。二、三歩よたよたと足を縺れさせつつも、なんとか転倒は免れた。

 しかし直後、狼狽した彼は大きく肩を震わせ、文字通り足を踏み外しそうになった。

「?!」

 誰も、いない。

  バランスを取ろうと目をそらしたのはほんの数秒だったはずなのに――。目を見開く。あたりを見回して、慌てて踵を返す。ぞっとした。

 誰もいない。

 今話しかけてきた少女は忽然と姿を消していた。蝉の声が耳につく。全身の血が一気に下がったような気がした。当たりを見回す余裕もない。もつれる足をなんとか動かして駆け下りる。殆ど転がるように降り立った鳥居の前で陽の光に触れ、ようやく生きた心地がした。

 振り返る。鳥居の奥の階段は変わらず静寂に包まれている。急いで自転車に跨って進み始めた。もはや予定も取りやめ。海水浴場の方向を目指すことに心を決める。今はとにかく、人がいるところに行きたかった。

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