第29話 別離
小鳥は店の前まで来て、違和感に立ち止まる。
いつもなら開店前には、掃除の為に空いているガラス戸は閉まり明かりもついていない。ひっそりとした様子は、まるで閉店時そのもの。
今日は休みだったっけ?
小鳥はガラス戸から中をうかがった。
「何してんの?」
後ろから声をかけられて、小鳥が飛び上がる。
「何って、働きにきたんです」
小鳥はスーツ姿のマスターに答え、訝し気に目を細める。
「どうしたんですか、そんな姿で」
マスターは答えずに、店のガラス戸を開けて彼女を中に促した。
「まあ、座って」
マスターは冷蔵庫から冷えた緑茶を出して、凝ったカッティングのグラスに注いで小鳥の前に置いた。
小鳥はカウンターの背の高いバースツールに腰掛けて、その美しい細工越しに見える新緑の色を眺めた。
「で?」
小鳥はカウンター越しにマスターに見上げた。
「うん。この店、閉めることになった。俺の民泊もな、閉めるねん。簡易宿泊申請は出して許可ももろてんのやけどな。今、ホテル建築ラッシュやろ?旅行代理店のあり方も変わって来てるし、お客の欲求も昔とは違うしな。それに大きい旅館の何軒かは店じまいしてはる」
「それとお兄ちゃんのお店、どう関係あるの」
小鳥は困ったように眉を寄せている。
「親父に土地も建物も返すねん。で、ここはレストランにして親父の旅館の客をここでもてなすらしいわ。贅沢な造りの、ええ店やで」
「でも、ここはお兄ちゃんのお店でしょ?お父さんのと違うじゃない」
「名義は俺のやけどな。どっちかって言うと、親父より兄貴の夢かなえたりたいねん。昔から、大きい計画持っててんで。旅館の在り方、見せ方、お客の楽しませ方、色々計画してはんねん。俺はただ兄貴の役に立ちたいんやわ。わかってや」
マスターはいつもと違う優しい笑顔を浮かべる。
「民泊まで手放すの?」
小鳥はまだ納得できないらしい。更に眉を寄せている。まるでマスターに泣かされているみたいだ。
「あそこはな、生まれ変わんねん。えぐぜくてぃぶ、言うの?贅沢なやつ。そんな旅館に兄貴がしてくれる。楽しみやわ」
マスターは微笑んで言った。
「それでいいわけ?」
小鳥が弱弱しく尋ねると、マスターはにっこり笑って頷いた。
「君が手伝ってくれたおかげで、俺も楽しい仕事できた。ありがとうな」
「ありがとうって」
小鳥は今度こそ目に涙を貯めて、マスターの顔をじっと見ている。
「泣かんといてえな。俺は笑顔の小鳥が好きやで」
マスターは彼女の頭を撫でて、それから首元のネクタイをゆるめて吐息をついた。
「着なれへんもんは窮屈やな。世話になったとこに挨拶行って来てんけど、もうスーツは勘弁やわ」
そう言って、マスターはカウンターの隅に置いていた全然似合わなかったエプロンを小鳥に投げて寄こした。
「これ、持っててくれる?思い出ってやつ?」
「お断りです」
即答して、彼女は素早く席を立つと店を出て行った。ポツンと店に残されたマスターは一瞬ポカンと口を開けていたが、次の瞬間にはおかしそうに笑ったのだった。
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