第28話 珈琲の香りと甘い夢

「つ、つかれた」

 小鳥が店のガラス戸の鍵を開けて、中に入るなりぐったりとひざをついて呟いた。と同時に、チリン、と小気味の良い音が店内に響いた。

 時刻はもう夜の九時だ。

 そんな小鳥を押しやるようにしてマスターが後ろから中へ入って荷物を降ろすと、留守の間に何も変化がなかったか店内を確認して回る。それから窓を開け放して空気を入れ替えた。

「君、コーヒー飲むか?」

 マスターの愛想のない顔が気遣うような優しさを添えて小鳥に向けられている。もちろん、他人が見れば怖い顔以外の何物でもないが。

「もちろん、飲む。それにしても、お兄ちゃんって最強の運の持ち主だよね」

「なんでや?」

「だって、乗った飛行機が離陸したと思った途端引き返すして大幅に遅れるわ、那覇空港に着くはずが石垣空港に行っちゃうわ、着いたら着いたで湿度98パーセントなんていう霧に見舞われるわ、普段京都ではできない体験してきたよ」

 小鳥が興奮気味に言うのを、マスターは鼻で笑った。

「旅行っていうのんはそういうもんやろ?」

 マスターは小鳥の前に熱々のコーヒーの入ったカップを置いた。

 普段は座らない客席に腰掛けて、小鳥はカップに鼻を近づける。

「いい匂い」

 それだけで幸せになれそうな芳醇な香りだ。

「暑い時に熱いモノをって怒らへんのか」

「お兄ちゃんのコーヒーは別。アイスもおいしいけど、ホットは格別だよね」

 小鳥は一口飲んで、余韻を楽しむ。

「それより、君、明日はもう一日休んでええからな。俺も土産渡しに行きたいとこがあんねん」

 マスターは言って、店内に冷房をかけ、開け放した窓を閉めて回った。

「お休みは嬉しいけど、お土産なんて買ってないでしょ?アヤメさんにはお土産買ったの?」

「え、アヤメに?」

 心から不思議そうな顔をするマスターに、小鳥は首を傾げた。長い付き合いで、他にお土産を渡すような知り合いがいるとは思えない。

「海辺で拾った貝をな、墓に供えようと思ってな」

 マスターは言って、カウンターの奥に引っ込んだ。

「私も行きましょうか」

 店に戻ると敬語も戻って来るらしい。小鳥はかしこまって聞いてみた。

「気にせんと、ゆっくり休んどき」

 奥から声が返事をする。

 小鳥ははーい、と返して、少し冷めたコーヒーの香りをかいだ。

 何とも言えない良い香りが脳に到達して、甘い夢を運んできそうだ。

「家まで送ろうか」

 マスターが出てきて小鳥を見た。

「うん。送ってもらおうかな」

 小鳥は旅行の続きの様に甘えて言ってみた。それからコーヒーを飲み干した。

「やっぱりいいです」

 小鳥の言葉に戸締りをしていたマスターが顔をあげる。

 甘い夢はコーヒーと共に終わったのだ。これから、現実が戻って来る。

「旅行って、帰って来た時の切ない感じがたまらないですよね」

 そう言い残して、小鳥は軽やかに身をひるがえして去って行った。

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