第27話 暗雲2
見慣れた旅館のロビーに重苦しい沈黙が降りてくる。
マスターは強面の顔を、やっと崩して笑った。
「心配せんでも、土地も建物も返すし」
その言葉に、父親が頷いた。
「せっかく始めた喫茶店も民泊も店じまいさせることになって、悪かったな」
「別に、ええよ」
マスターはソファの背もたれに深々ともたれかかった。
「小鳥は?あいつは知ってんの?」
「いや、何も知らん」
恭一が答えた。
「そっか。ま、あいつの居場所はここにあるしな」
「そうや」
父親は頷いて、支配人の持ってきたコーヒーに口をつけた。そしてチラッとマスターを見た。
「お前はどうする。戻るか」
「旅館に?ええわ、もう。兄ちゃんが頑張ってるし、俺がいなくても大丈夫やろ?俺は俺で他のことするわ。今まで、何となく他のことしたらあかんと思ってきたけど、そうじゃないってことに今日やっと気が付いたことやし、ゆっくり考えてみるわ」
そう言って、彼は立ち上がった。
「ほな、俺は行くわ。期日までに片付けもしとくし、後は業者に入ってもらって」
「おい」
父親に呼び止められて、マスターはきょとん、とした顔になる。
「お前の淹れたコーヒーは、どこにも負けん。そやから、自信持ちや」
滅多に人を褒めない人間に言われて、マスターの目が点になる。
「そやそや。お前のコーヒーは気難しい顔に似合わず、奥が深くて優しい味がするしな。世界で一番やで」
恭一も父親に負けじと言った。
「おおきに」
マスターは笑顔を残して、そこを出た。
来た時とは正反対の青天の中、マスターは自分の店に戻った。
チリン、と澄んだ鈴の音色が小さな店内に響き渡る。
「おかえりなさい。なんでその恰好?」
小鳥が三番テーブルを台拭きで拭きながら言って、お盆の上の空のグラスを落としかける。
「危ないなあ。これは借りてん。雨に濡れたから」
小鳥の手のお盆を引き取ってカウンターに運ぶと、マスターはグラスを洗い始める。
「お父さん、何の話だったの?」
小鳥の問いに、マスターは微笑んだ。
「俺のコーヒーが一番うまいって話」
「ふうん。確かにおいしいけど、それだけ?」
「ん、まあ、そうやな。またおいおい話すわ」
「何それ」
小鳥は水滴のついたグラスを拭き、戸棚にしまう。
「ええやん。それより、今日はもう店閉めて、どっか行こか」
タオルで手を拭きつつ、マスターは何でもないように小鳥に言った。その瞬間、小鳥の顔がとんでもなく歪む。
「熱でもある?絶対お店を閉めない人が、なんでそんなこと言うの?」
「俺でもたまにはそんな気分になるんや。嫌やったらええで。一人で行くし」
マスターは気分を害して、拗ねている。
「行く、行くから」
小鳥は慌てて言って、閉店準備を始める。
看板を店内に入れて、掃除し、布巾も洗剤で洗って干す。グラスの漂白は昨日済ませたので今日はしない。在庫のチェックも補充も終わった。
「それで、どこ行くの?」
マスターに問いながら、小鳥は小さな鏡相手に化粧を直している。
「そやなあ、どこ行きたい?」
「どっか行きたいところがあるからお店閉めて行くんじゃないの?」
きょとんとした顔で小鳥が聞き返してくるのを、マスターは寂しそうに見て頷いた。
「行きたいところは山ほどあるねん。どうしよ?イタリアにピザ食べに行くか、それとも写真を撮りにヨーロッパ古城めぐりか、いやいやハイキングにマチュピチュ遺跡か?」
「…日帰りじゃきっと無理だよね」
小鳥の冷めた答えを聞いて、マスターは天然娘が天然じゃない答えを返したことに驚いてしまう。
「この頃、君、冷めてんなあ」
「だって、私、パスポート持ってないから」
小鳥は小さなバッグを抱えて、出かけるのか出かけないのか探るようにマスターを見ている。
「それじゃ、沖縄に行くか」
「はい?」
「パスポートいらんし、リゾートやし、ええやろ?」
「だから、日帰りじゃ無理じゃん!」
小鳥が驚いて大声を出す。
「一泊くらいコンビニで何でも買えるから困らんって。ほな、空港行こか」
チリン、と鈴を鳴らしてガラス戸を開けるとマスターは困った様子の小鳥を振り返る。
「俺とは嫌か?」
「違うって。沖縄行くのに、なんで一泊なのって」
今度は違う抗議らしい。大人しく一緒にドアをくぐり、マスターから鍵を奪って閉じまりする小鳥は、チラッとマスターを上目遣いに窺う。
「そやな、一泊は勿体ないな」
駅に向かいながら、マスターはスマホで旅行会社のサイトで予約を取っているようだ。小鳥は彼が本気なのを知って、少しドキドキと彼の少し後ろを歩きながら着替えをどこで手に入れようかと思案する。
「小鳥、張り紙忘れた」
マスターが急に立ち止まって言うので、小鳥は彼の背中に思いっきり顔をぶつけてしまう。
「張り紙?」
「しばらくお休みしますって」
「え?しばらく?」
「一泊は嫌なんやろ?」
「え、じゃあ、やっぱり本気?」
お互い顔を見合わせて、数秒身じろぎせずに向き合う。
マスターはまた駅へ歩き出し、口元に笑みを浮かべている。
「これってすっごいサプライズやなあ」
マスターのご機嫌な表情に、小鳥は突っ込みたい気持ちを抑えて、うんうん、と大人しく同意しておいたのだった。
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