第26話 暗雲

 急に降り出した大雨に、小さな鳥かごに閉じ込められた気がして心細くなった小鳥は、カウンターでせっせと皿洗いをしているマスターを見た。

 ゲリラ豪雨と名乗る昨今の急な豪雨は、文字通りバケツをひっくり返したような雨の嵐で、雨量は言わずもがな、雨音も凄い。雨以外の音がしない喫茶店の中で、先程までは客も賑わっていたのだが、ランチ時間が終わると急に静かになる。その後の、この雨だ。

 各テーブルに置いた小さなグラスの中の名前も知らない草花の様子を全部チェックした後、小鳥は雨が運んだ不安を隠すように、マスターのいるカウンターに戻った。

「雨、凄いなあ」

 マスターは最後の白い皿を洗い終えて、蛇口を止めてから言った。小鳥は頷いて、布巾で食器を拭く。

「なに、怖いんか」

 お見通しである。黙ったまま、コクンと頷いた小鳥の頭を、彼は撫でて笑った。

「ほんまに、いくつになってもお子様やなあ」

 反論できない小鳥は無言を通した。

「それで、今日は早く帰りたいとか言わへんのか」

「いつも言ってるみたいな言い方しないで下さい」

 そこだけはきっちり釘を刺して、小鳥は黙々と食器を拭いてはしまっていく。

「ふむ、悪かった。冗談や」

 マスターは肩をすくめて、それから控室の方に行ってしまった。そこから声だけで「そや、そや」と小鳥に呼び掛ける。

「小鳥、今日は店で会議あるから、ちょっと行ってくるわ」

 店、と言ってもこの喫茶店のことではない。マスターの持っている民泊の宿泊施設でもない。彼らの実家の旅館の事である。

 珍しく名前を呼ばれたので、ドキッとして小鳥は控室を恐る恐る覗いた。

「何かあるん?」

「さあ。親父と兄貴と、両方から呼び出しくらったし、なんか相談があるんちゃうか。会議なんて大層に言ってたけど、どうやろうな」

 彼は全然似合っていないデニム地のエプロンを畳んで、小さなデスクの上に置いた。

「んじゃ、店番頼むわ。雨で客もこおへんとは思うけど、なんかあったらすぐに電話しいや」

「はい」

 マスターは大雨の中、傘も差さずにガラス戸を開けて出て行った。

 チリン、と小気味の良い音が響いた。

「傘くらい差せばいいのに」

 マスターは傘を持つのが嫌いなのだ。

 旅館に到着したときにずぶ濡れで嫌がられるに違いない。

 小鳥はそれが自分の責任のような気がして、溜息をついた。

「話ってなんだろう」

 父親と兄から呼び出しを食らうなんて、何かやらかしたのか、それともお見合いの話か。

 急に兄であるマスターの事が心配になって、小鳥は豪雨の中に光がさしているガラスの向こうの世界を見た。

 雨は降り出した時と同様、瞬く間に止んでしまった。

 一方、父親と兄に呼び出されたマスターは、ずぶ濡れの服を見た支配人に有無を言わさず大浴場に連れて行かれた。

「まったく、ぼんはいつまでたっても心配させよるんやから」

 年配の支配人はマスターが子供の頃からこの旅館で働いている。

「雨に濡れたくらい平気やって」

 マスターはバイトが着る紺色の作務衣に着替えて、何食わぬ顔でフロントに立った。何人かの宿泊客の対応をして、彼が帳簿を見ようと書類棚に手を伸ばした時、社長である父親を呼びに行っていた支配人が戻って来て、マスターの首根っこを捕まえてロビーのソファへ座らせる。

「お茶、淹れますさかい、ちょっと待ってて下さい」

 支配人は控室にあるお茶セットで抹茶を点てると、マスターの前に置いた。

「おおきに。で、兄ちゃんは?」

 マスターが支配人に問うと、彼は首をぎこちなくあちこちに向けて、恭一の姿を探した。歳のせいなのか、体が硬くて動きがゆっくりになっている。そんな支配人の姿に、なんだか切なくなるマスターだ。

「さっきまで、ここにいはったんやけどなあ」

 待ってておくれやす、と言って、支配人は今度は恭一を探しに行ってしまった。

 マスターは支配人の点ててくれた濃茶を飲み干すと、席を立って、茶器を洗いに行った。勝手知ったる旅館なのだから、遠慮する気もないのだが、喫茶店をやり出してからは滅多にここへ来ることがない。

「お、ここにおったんか。どうする?ロビーか、父さんの部屋か」

 恭一が後ろから声をかけてきた。

「どこでもええけど」

「ほんなら、ロビーでええか」

 恭一は言って、自分が先にロビーのソファにドンと腰掛ける。

「何なん、話って」

「ああ、父さんが話すと思うわ」

 恭一はスラックスのポケットに手をつっこんで言った。

「やっぱりなあ、これ、破けてるわ」

 恭一はポケットの袋を出して見せ、穴が空いている個所に指を入れている。

「兄ちゃん、鍵をポケットに入れるから破けんねん」

 マスターの言葉に恭一は笑った。

「ポケットが一番便利やねんて。銀行代わりになるねん」

 話しにくい事があると、先に冗談を言う恭一の癖を思い出して、マスターは苦笑しながら覚悟した。

 良い話ではない。

 兄や父親が決定したことなら従う他ないが、マスターは心にどんより闇が入って来るのを感じた。

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