第24話 コンチキチン
チリン、と鈴の音が鳴って、熱い風が冷えた店内の空気を押しやる。
小さな店内に、いつもの鈴の音とは違う音が微かに紛れ込む。
「あ、もうそんな時期か」
小鳥が小声で呟いて、一瞬京都駅の方角を見て、それから直ぐに客の案内をする。
再び外の世界と区切られた店内に、先程の音はもうしない。
「マスター、クリームソーダ1つです」
注文を通して、小鳥はガラスドアから外へ出る。
もわん、とした空気に交じって、笛や鈴の音がする。
これは京都駅から聞こえてくるもので、京の夏の風物詩「祇園祭」のお囃子が駅で流されているのだ。
毎年この時期に耳にするので、なんだか当たり前になってしまったが、本来祇園祭は京都駅周辺では味わえない。八坂神社のお祭りなのである。
祇園祭が終わると梅雨が終わると言われている。もともと祇園祭は疫病を払う為に始められたという。
七月一日から始まり、三十一日まで続けられる。その一か月の間の大目玉とも言えるのが山鉾巡行で、現在では前祭と後祭の二回楽しめる。
小鳥は空を見上げて、夏色の雲を確認して微笑んだ。
店内に戻ると、マスターがクリームソーダを運んでカウンターに戻ったところだった。
「あは、ごめんなさい」
小鳥は言いながら、カウンターの奥の控え室に置いてあるパソコンに何か打ち込んだ。
「君、何を思いついたん?」
マスターがカウンターから声をかけると、小鳥はチラッと彼の不愛想な顔を見る。
「祇園祭の山鉾の場所を検索してるんです」
小鳥の答えに、マスターは「ああ」と気が付いた顔になる。
「それ、印刷しといて。店に置くから」
「はーい」
小鳥は良い返事を返し、それと同時にプリンターがウーンと唸って紙を排出した。
祇園祭の山鉾、というのは、山と鉾がくっついた呼び名で、山は山、鉾は鉾で形が違い、各町内で組み立てられる。そして、くじ引きにより、毎年巡行する順番が違うのである。だから、山鉾の場所を検索すると、だいたいその年の巡行の順番が一緒に表示されるという訳である。ちなみに、この山鉾たち、巡行後はすぐに解体される。町内を巡って厄を集めるので、それを貯めないようにする為なのだ。
「ところで、マスターは山鉾巡行見た事あるんですか」
小鳥の何気ない問いに、マスターはずずっと彼女の側まで行き、その恐い顔を目一杯近づける。ビクッとして小鳥が身を引く。
「君、舐めたらあかんで。俺が何の仕事してたと思ってんねん」
「旅館?」
「そや。なら、わかるやろう」
マスターはやっと彼女から離れてカウンターの定位置に戻る。
「旅館業してたら、観光の時期は出歩けへんのや」
堂々と言って、彼はグラスを磨き始める。
「はあ。でも、恭一さんは色々出かけているみたいですよ?実際目にしないと、案内できないやんか、って前に言ってたような…」
小鳥の発言に、マスターの眉が珍しく上がった。
これは地雷だったか。
小鳥はマスターの怒りの領域に踏み込んだことに気付き、ドキドキと彼の様子を観察する。
しかし、いつもの不愛想な顔に戻って、彼はふう、と溜息を付いた。
「あんなボンボンと一緒にせんとって。あの人、俺に仕事押し付けて、自分は祭りやらお茶会やら、好きなだけ出かけてるんやから。お陰で俺はデートにも行けず、毎年観光シーズンは旅館に住む妖怪みたいになってたわ」
兄弟で役割が違うことはお互いに理解しているが、忙しくなってくると、文句の一つや二つ、言いたくなるというのが人の性。旅館の仕事が好きで、出歩くのはほどほどのマスターとて、人間なのである。
小鳥はふふふ、と微笑んで、マスターの隣でコーヒーカップを漂白する。
「なんや?」
急に笑顔で隣に来た小鳥を警戒して、マスターが引き気味に尋ねる。
「なんでもないですよ?」
小鳥の含みのある言い方に、彼はおののきつつも、黙ってグラスをピカピカに磨く。
「それにしても」
小鳥が口を開くと、マスターは手を止めて彼女を見る。彼女もマスターを見返して、今度ははっきり笑顔でガラスのドアを振り返る。
「お客さん、来ませんね」
先ほどのクリームソーダの客以外、誰もいない。
いつもなら来ている頭頂部の寂しい、いや最近は盛り上がってきている若いサラリーマンも来ていないし、近所のおじちゃんも来ない。
いつもいる人がいないのは、なんだか心もとない気分になる。
「ま、そんな日もあるわな」
マスターは呟いて、今度は冷蔵庫の掃除を始める。
小鳥はドアを開けて鈴の音とともに外へ出る。
少し曇って来た空を見上げて、祇園祭の後に広がる夏色の空を思い浮かべる。
コンチキチンのお囃子が微かに耳元を過ぎ去っていく。
「そんな日もある、か」
小鳥は呟いて、ガラス戸の向こうのカウンターに隠れているマスターを透視するように見つめてみる。
なんだか、仕事しか興味のなさそうな仕事の虫の不愛想な顔が笑っているような気がした。きっと今年は宵々山から山鉾を見に行き、ちまきを買ったり、どこの御朱印を集めようかと思案しているに違いないと彼女は思った。
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