第23話 雪駄チャラチャラ
チリン、と鈴の音が鳴って、静かな店内を震わせる。
丑三つ時とも言える時間帯にいるような酔狂な客はいない。
暗い店内に入って、マスターはドアにカギをかけた。
カウンターのバースツールに座って、彼は滅多に飲まない缶コーヒーをズボンの後ろポケットから取り出して、プルタブを上げた。冷たい缶には水滴がついている。通りでポケットが湿っているはずだ、とマスターはぼんやり思った。
一口飲んで、彼は缶を置いた。
深夜の喫茶店はいつにも増して静かだ。しかし、この静けさが彼の心を
彼は沈黙を乱すように鼻歌を歌い出した。
「通り歌か?」
唐突に声が降りかかる。
「び、びっくりした!」
マスターは恐れおののいて、声の主を凝視した。
「幽霊かと思たわ。兄ちゃん、性格悪すぎやで」
マスターはドキドキする胸を撫でおろして、隣に座る兄を見た。
「どうやって入ってきたんや」
マスターは立ち上がり、カウンターを回って、エスプレッソマシンの電源を入れた。それからカウンターの明かりを
「えー、お前がいるのが見えたんで、お勝手からちょちょいのちょいってな」
恭一は事も無げに言って、熱々の湯気の登るエスプレッソを飲み干した。
「鍵、壊さんといてや」
「そんなへまはしまへん」
言い切って、恭一はマスターの差し出す、温められたチョコレートマフィンに手を伸ばす。彼のお得意の、中身にトロっとしたチョコレートが隠れているマフィンだ。
「お前のスイーツは最高やなあ」
恭一はハフハフと笑顔でマフィンにかぶりつき、子供の様に笑顔になる。
深夜でもスイーツを食べられるくらいに胃袋は元気な方らしい。
マスターは棚からアールグレイの紅茶茶葉を出してポットに入れ、沸きたてのお湯を差すと、温めた二人分のカップにお茶を入れてから、表に回ってバースツールに座った。
「それで、何で通り歌なんかうとてたん?」
恭一は尋ねて、カウンターに散らばったマフィンの屑を拾って口に入れながら、先程マスターの口ずさんでいた鼻歌を自分も歌う。
「まるたけ えびすに おしおいけ
あねさん ろっかく たこにしき
しあや ぶったか まつまん ごじょう
せった ちゃらちゃら うおのたな
ろくじょう ひっじょう とおりこし
はっじょうこえれば とうじみち
くじょう おおじで とどめさす」
恭一は余韻たっぷりに歌い終えると、弟の不愛想な顔を見た。
「なんでってことはないんやけど、ちょっと不思議に思ってさ」
「何を?」
「どこでこの歌覚えたんかな、と思って」
マスターは紅茶をゆっくり飲みながら言い、カウンターに頭を預ける。
「そりゃ、アズミさんや」
恭一は言って、紅茶のカップを持って立ち上がると、カウンターの中に入って製氷機から四角い澄んだ氷を取り出して、カップに入るだけ入れた。
「アズミさん?」
「俺らの旅館で住み込みで働いてたおばちゃん。なんでかパンチパーマの。俺らの世話をよくしてくれてたやん」
恭一は冷めた紅茶をグイっと飲み干して、カップを自分で洗った。
「あー、なんか思い出したかも。洗濯とか、洗い物してた人?」
「そうそう。主に裏方してた人。アズミさんが教えてくれたんは、通り歌だけやなくて、マージャンも花札も教えてくれたやん。お陰で俺ら敵なしやったで」
「そうやったなあ」
世話になったのに、忘れていた。
マスターは子供の頃のことを思い出して笑った。
「思えば、子供に花札教える人って、アズミさんくらいやったな」
マスターは破天荒なおばちゃんを頭に思い描いて言った。
「そうそう。鍵開けの技術を教えてくれたんも、アズミさんや。今、めっちゃ役立ってんで。スーツケースの鍵失くすお客さんが意外に多いからな。ちょちょいのちょいって開けてあげたら、めっちゃ喜ばれるもんな」
恭一は怪盗並みのテクニックで、あらゆる鍵を開けられるのが自慢だ。
「そやなあ。でも、漢字とか算数教えてくれた時は、かなり嘘っぱちやったけど」
マスターは笑って、通り歌の「雪駄ちゃらちゃら」部分を鼻歌で歌った。
「懐かしいな」
恭一もご陽気に歌いだす。
「なんか、俺ら幼稚園児みたいになってんで」
我に返ってマスターが言うと、恭一は鼻で笑い飛ばす。
「少年の純粋なハートが残ってるって言いや」
恭一は意に介さなかった。
「ところで、兄ちゃんはこんな夜更けに何してたんや」
マスターの問いに、恭一はふふん、と笑った。
「今日は組合の親睦会の後、祇園で飲んでたんや。んで、タクシーで駅まで帰ってきたら、お前が見えたんや。そんだけ」
「なんや、飲み会かいな」
マスターは呟いて、ご陽気な恭一に苦笑した。
きっと夜更けまで飲み歩いていたから、家に帰り辛いのだ。彼の妻も会合の後に彼が弟の部屋に泊るのを承知している。夜中に帰ってくるくらいなら、信頼できる弟の所に転がり込んでいてくれた方が楽らしい。
いつもなら喫茶店の裏手にある弟の部屋に転がり込むのに、行ってみたら留守だったから、この喫茶店へ来て見たということだろう。
「ほな、帰る?」
マスターが問うと、恭一はニヘへ、と締まりのない笑い方をする。
「そやな。お世話になります」
ぼそぼそと通り歌を歌いながら、兄は意気揚々と歩き出した。
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