第17話 地獄からの使者

 チリン、と小さな鈴の音が鳴った。その澄んだ音色は店内によく響き渡る。

「いらっしゃい」

 低い声で不愛想なマスターが言うと大抵の客はメデゥーサに睨まれたように固まる。しかし、この客は顔見知りなので固まることなくお気に入りの窓際の席に着いた。他に客はいない静かな店内だ。

「濃いの、ちょうだい」

 兄の恭一は注文もそこそこに持参したノートパソコンを開いてキーボードを打っている。

 エスプレッソを届けに小鳥が席に行って、パソコンの画面をのぞき込む。

「会計帳簿を作り直してんねん。こないだ会計士がいじくり倒しよったから、おかしなことになっててなあ」

 コテコテの関西弁で恭一が言った。口調は穏やかだが、こういう時は機嫌が悪いのを長い付き合いで小鳥は知っている。

「それより、小鳥ちゃん、知ってるか。小野篁おののたかむらって」

 恭一は画面を見るのを止めて、小鳥の持ってきたエスプレッソに砂糖をたっぷり入れてかき混ぜると、ぐいっと飲み干した。

 そんな彼の問いに、小鳥は天井を見上げて記憶を検索する。

「確か、平安貴族で、お昼は宮廷で働いて、夜は六道珍皇寺の井戸から地獄へ通ってそこで働いていたとか言う人ですよね」

「そうそう。最近、地獄から帰る時に使ったって言う黄泉がえりの井戸が見つかったらしいね」

「へえ。その小野さんが何かあるんですか」

 小鳥は彼の前の席に座って、話を聞く態勢を取る。

「いや、別に小話はないんやけどな。ほら、地獄の沙汰も何とやらって言うやろ?この世もそうやし、死んでからもそんなんやったら、ほんま、困った世界やなあと思ってさ」

 会計事務処理に苦労しているのか、恭一が苦々しく言った。

「私、千本えんま堂に行ったことありますよ。えんま様が祭ってあるお寺。怖いなあって思いました。だから、あのえんま様が睨みを利かせているあの世って所には賄賂わいろなんてないんじゃないかなって思うんですけど、恭一さんはどう思います?」

 小鳥は明るく言って恭一を見る。

「そやな。悪い事ができひんように、えんま様が見張ってるわな。でも、小鳥ちゃん、仏教徒ちゃうんやろ?えんま様とか信じるん?」

 恭一の言葉に、小鳥は急に真剣な顔になる。

「誰にも言わないで下さいね。私、地獄から来たんです」

 あまりの突拍子もない小鳥の言葉に恭一の目が点になっている。

「っていうか、小さい頃に頭を打って意識がなかったらしいんですけど、その時に地獄に行ってたらしくて、そこでえんま様だか堕天使ルシファーだか冥王ハデスだか、名前はわかんないんですけど、そういう人が地獄を仕切っていて、君は帰んなさいって言って、この世に戻してくれたんです。それで、そういう世界があるってことは信じているんです」

 小鳥の真剣な様子に、恭一は「へえ」とだけ返した。天国って言わないところが小鳥ちゃんだけあるな、と妙に感心している。

「俺は天国も地獄も信じないな」

 マスターが黄緑色のバインダーを持って恭一の隣に来て言った。それから、そのファイルを兄に渡した。

「これ今月分?」

 恭一は受け取って中身を確認する。

「うん。頼むわ」

「おう」

 恭一はファイルを閉じて、パソコンも閉じた。

「ここのお店の会計も、恭一さんがやってるんですか」

 小鳥が意外そうに言う。黄緑色のファイルが店の経理のファイルだと知っているのだ。

「そう。俺、何でも屋の会計士なん」

 恭一は立ち上がって、ファイルとパソコンを抱えた。

「じゃ、また」

 彼はお代は払わずに出て行った。鈴が控えめに鳴る。

「マスター、お代…」

「ああ、これは一応会議やから、いらんねん」

 マスターの言葉に小鳥が首を傾げる。

「複雑ぅ」

 小鳥は呟くと、トレイにデミタスカップを置いて、カウンターに戻った。

 マスターも後ろから付いてきて、小鳥の運んだカップを流しに入れて、蛇口をひねる。

「君、地獄と天国、あるとしたらどっちに行く?」

 洗い物をしながら、マスターがポツリと尋ねる。問われた小鳥はしばらく考える。

「地獄です。天国だと腑抜けになっちゃいそうです。地獄なら、戦う精神が磨かれそう」

「ほおう」

 何と戦うのかは別として、彼女が勇者のように見えるマスターだった。

「マスターはどっちですか?」

「え、俺?」

 問い返されて、彼は蛇口から流れる水を見つめる。

「あるとしたら天国やな。俺は穏やかに過ごしたいわ。争いも憎みも妬みも、何も感じたくないしなあ」

 しみじみ言ったマスターの背中を見ながら、小鳥は寂しそうな表情になる。

「なーんてね」

 マスターは水を止めて、小鳥を振り返った。

「ん?」

 小鳥がすぐに背を向けて、布巾片手にテーブルを拭いていく。

 肩透かしをくらった気分で、マスターはそんな彼女を見ている。

「君、なんか隠し事があるやろ」

 からかうようにマスターが言うと、彼女は珍しく怒ったように睨んでくる。

「あら?」

 彼は失言だったかと頭をかく。

 女子の扱いは難しい。

 小鳥はさほど汚れていないテーブルを親の仇とでもいうようにゴシゴシと磨き続けていた。






 

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