第16話 摩天楼はバラ色か

 チリン、と小さな鈴の音が鳴った。小さいけれど澄んだ音は店内によく響き渡る。

「久しぶり」

 ガラス戸を開けて店内に入って来たのは、細身のスーツを着こなした男だ。

 閉店間際の店内に他に人はいない。

「よう、帰って来たんか。陽彩ひいろ

 珍しく人相の悪い顔がほどけて、笑顔でマスターが答える。

 男の名は陽彩ひいろ。マスターの高校の頃の同級生である。彼はカウンター席に座って、ポケットから小さな箱を取り出してマスターの前に置いた。

「お土産」

「おお、ありがとう」

 マスターは箱を手に取って、振ってみる。

「何、これ?」

「開けてみいや」

 言われて、マスターは箱を開けて中身を取り出す。それは銀色に輝くライターだった。

「ジッポ?」

「おう。お前タバコ吸わんけど、顔には似合うやろ」

 ジロジロとマスターの顔を見て陽彩ひいろは反応を待っている。

「顔に似合うとか意味わからん。けど、恰好ええな、こういうの」

「やろ?」

 してやったり。陽彩ひいろは嬉しそうに微笑んだ。

 マスターの不愛想な顔がほころぶのが彼の楽しみなのだ。

「ニューヨークはどうやったん?」

 マスターの問いに、陽彩ひいろは肩をすくめた。

「めっちゃ忙しかったわ。でも、俺、あっちに住みたいわ」

「昔から移住したいって言ってたもんな」

 高校の頃を思い出しながら、マスターは陽彩に濃縮還元オレンジジュースを出した。彼はコーヒーが苦手なのだ。

「街が動いている感じが凄いすんねん。例えば京都は店が早く閉まるやろ?静かな街やで、ここは。逆に、あっちは常にどこかが明るくて人がたくさんいて、朝も昼も夜も、色々な表情があるねんな。そこにおる人も様々で、観光の人間ももちろんおるんやけど、人種も業種も色々で興味が尽きひんわ」

 熱っぽく語る陽彩ひいろを眩しく思いながら、マスターは自分のマグカップに熱いコーヒーを入れた。

「俺は京都で十分やわ。高い建物はどうも苦手や」

 マスターはコーヒーの香りを確かめる様にカップの琥珀の液体を口に入れて言った。

「この辺は建築規制があるんやろ?高い建物はハナから建てられへんやん」

 陽彩の言葉にマスターは頷いた。

「色も派手なんはあかんねん。それに建物にはひさしをつけなあかんとか。俺はくわしくないねんけど、兄ちゃんが言ってたわ」

「そうそう。俺やったら真っ赤な壁にしたいけど、あかんねんろ」

 陽彩が言い、マスターが笑う。

「赤い壁って衝撃やな」

「バラ色や」

 自慢げに言う陽彩にマスターは笑った。

「摩天楼やったらバラ色に染まることもあるやろけどな。あ、そういや、京都タワーが夕日に染まってんの、見た事あるな。綺麗やったわ」

 マスターの言葉に、陽彩はぷっと吹き出した。

「それ、ライトアップでもされてたんちゃう?」

「あほ言うなよ。ライトなんて全然。まだお日さん出てたし。っていうか、そのお日さんが茜色やったんやからな、バラ色に染まるんやろ」

 ライトアップ説を完全に否定して、マスターは陽彩が何を思っているのか悟った。

「転職すんのか」

「さあ?」

 陽彩は答えをはぐらかし、オレンジジュースを飲み干した。

 今回は出張でニューヨークに渡った陽彩だが、本心はニューヨークに住みたいのだ。都合の良い事に、ニューヨークでのヘッドハンティングの話がきている。英語も達者で仕事もできて、何も迷うことなんかないんじゃないかとマスターは思うが、陽彩には陽彩の事情があるのだろう。

「京都もええとこやし、迷っちゃうよな」

 マスターはわざと明るく言って、陽彩の前の空いたグラスを取り、代わりにチョコレートを小皿に盛ったものを置いた。

「摩天楼のないとこには興味ないねん、俺」

 陽彩はチョコレートをつまみながら言った。

「そんなにええか、高層ビル。馬鹿と煙は高い所が好きって言うしなあ」

 マスターは言ってから、外に出て看板を店内に入れた。それからドアをロックして、店の半分の電灯を消す。

克己かつみんとこ行くやろ?」

 マスターが尋ねると、陽彩は頷いた。克己も高校の同級生で、今はワインバーを近くで営んでいる。

 マスターは閉店作業をさっさと終わらせて、陽彩と勝手口から出た。

 二人ブラブラ歩いて、京都タワーが見える範囲にある克己の店に到着する。

 店に入る前に陽彩が空を見上げる。

「あ」

 陽彩の声に、ドアに手を掛けていたマスターが振り返る。

「摩天楼はバラ色か」

 陽彩は京都駅とタワーを指差す。

 マスターが見ると、駅とタワーがピンク色に染まっている。空は既に夜の藍色だったが、まだ紅い太陽が残っていたのだ。

「俺、やっぱ行こうかな」

 陽彩は呟いて、ピンクから暗い色へ染まっていくタワーを見ている。

「行ったらええわ。好きな所で輝いとき」

 マスターは笑顔で言った。すると、手をかけていたドアが急に開く。

「やっぱりお前らか。玄関に立ったまま、入ってこおへんから何やってんのかと思ったわ」

 克己が顔を出して、二人を見比べる。

「タワー見ててん」

 マスターが言うと、克己は腰に手を当てて不可解そうにタワーと友達を交互に見る。

「何も変わらん風景やけど?」

 闇に飲み込まれたバラ色は克己の目には入らなかった。

 陽彩とマスターは目を合わせて笑い出した。

 一人、さっぱり理由の分からない克己だけが闇にそびえたつタワーと京都駅を見上げていた。

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