第14話 空中回廊
薄暗い店内に人相の悪い男が困ったようにカウンター席に座っている。
閉店後の店内には微かにワルツ・フォー・デビーがかかっている。
「ねえ、聞いてるん?」
人相の悪い男、この店のマスターの隣に座った美女が苦笑交じりに彼を覗き込む。
「ああ、ちゃんと聞いてる」
呟くように肯定の意を伝えた彼は、ますます怖い表情になっていく。つまりは、ほとほと困っているのだが、彼の表情筋はその心を外へ伝えない。
「じゃあ、考えていることを話してくれへん?」
「考えてるって言っても、な…」
マスターは助けを求める様にカウンターの奥の控室から顔を覗かせてている小鳥に目をやると、彼女は首を振って控室に引っ込んだ。
「あかんよ、小鳥ちゃんを困らせたら。自分のことやんか」
美女、アヤメはマスターの耳を引っ張って、自分の方を向かせる。
「何がそんなに困るん?答えは簡単やと思うけど?」
アヤメはマスターの困り顔に自分の顔を近づけて、じっと睨む。
「わかった。正直なところを答えるで。まず、結婚の申し込みやけど、付き合っている頃、俺はお前に清水の舞台から飛び降りるつもりで結婚を申し込んで、けちょんけちょんに断られてから、もうお前と結婚する気はないねん。さすがの俺も、あれは心が折れたで。そやから、今、お前が俺に結婚してくれって言っても、本気とは思えんし、むしろ恐怖や。何か企んでるとしか思えん。けど、友達としてなら、お前の頼みは何でも聞いてやろうと思ってる。これでどうや?満足か」
マスターは一気に言って、アヤメから逃れようとバースツールを半回転させる。
「上出来」
妖艶に微笑んで、アヤメは立ち上がった。
「じゃ、行きましょうか」
「は?」
アヤメに突然促されて、さすがの強面のマスターも
「友達としてデート。空中回廊から京都劇場に行って、ミュージカルを見て、その後ご飯食べるんよ」
アヤメは当然のことのように答える。それからカウンターの奥を覗き込んだ。
「小鳥ちゃん、そういうわけで、店じまい、よろしくね。この不愛想な男、借りてくから」
アヤメが言うと、奥から小鳥が顔を覗かせた。
「わかりました。行ってらっしゃい」
小鳥は笑顔でアヤメを見送る。
引きずられるようにしてマスターがガラスのドアから出て行くと、小さな鈴が小気味のいい音を立てて鳴った。
アヤメは京都駅の伊勢丹側のエスカレーターに乗り、降りると中央口からの大階段へ繋がるエスカレーターへ回る。渋々付き合っているマスターは一歩先にいるアヤメを見上げて、複雑な表情だ。後ろを見ながらスカレーターに乗っているアヤメは上機嫌だ。
「こういうの、久しぶりやね」
別れて何年経ったんかしら?とアヤメが可笑しそうに言った。
「気楽やな、お前は」
「良い事でしょ?」
彼女は前に向き直り、途中でエスカレーターを降りて階段を徒歩で上がる。大人しく付いてくる不愛想な男を確認しながら、伊勢丹の十階のガラス扉を開けて中へ入った。そこは拉麺小路と言われるフードコートのようなものになっていて、そこの間から空中回廊へ繋がる場所へ行くのだ。
静かな回廊の途中で京都タワーやその先の景色がじっくり見えるスペースがある。
二人はそこで立ち止まって、京都の景色を見ている。
「私、諦めへんからね」
ポツリとアヤメが言った。
「ん?」
聞き返したマスターの顔を見上げて、アヤメは野心的に微笑んだ。
「何も」
彼女のはぐらかした言い方に、マスターは寒気を感じて周りを見回した。
「なんかここ、寒うない?」
「全然。それじゃ、良い時間やから、劇場に行こっか」
アヤメはマスターの腕を取って、自分の腕を絡める。
「何観るん?」
彼の問いに彼女はニヤッと笑う。
「オペラ座の怪人。有名なんやで」
チケット取るの大変なんやから、と彼女が付け加えるのを聞いて、彼女のミュージカル好きを思い出して、マスターは「はいはい」と苦笑して答えた。
空中回廊を進んで行くと、下へ降りるエスカレーターがある。降りた先は東広場だ。そこから建物の中に入り、エレベーターで下まで降りる。
京都劇場はもうすぐそこである。
開場を待つ人の列に並んで、彼らは互いに懐かしい感情を認識する。
元恋人という間柄は、やはり友情とは少し違うのかもしれない。少なくとも、彼にとっては。様々な思い出が生々しく思い出されるのだ。
「ねえ」
アヤメの呼びかけに、彼は現実に戻る。
「ん?」
「だから、今度は一緒に水族館に行こうって言ったんやけど、聞いてなかった?」
アヤメは彼の心の中を見通すような黒い瞳を細めて見せた。
「悪い、ちょっと考え事してて。俺も水族館は行ったことないし、行こか」
「うん。美ら海水族館ね」
アヤメの言葉に、マスターがギョッとなる。てっきり京都水族館の事だと思い込んでいたから、京都を飛び出して沖縄に飛ぶとは思っていなかったのだ。
「冗談よ。ほんまに、顔のわりに純朴なんやから」
付き合っていた頃、何度か言われたセリフを耳にして、マスターは複雑な心境になるのだった。
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