第13話 カフェ・ロワイヤル

 チリン、と鈴の音が鳴って小さな店内に響き渡る。

「いらっしゃい」

 低い声でマスターが客を出迎える。すぐに愛嬌あいきょうのある小鳥が席に案内する。

「いつもの」

 顔も上げずに客が注文する。席に案内された頭頂部が少し寂しい感じの若者は常連客で、この近くで働くサラリーマンだ。いつもアイスコーヒーで煙草を飲む。

 カウンターには既にグラス一杯にアイスコーヒーが用意されていて、小鳥はすぐにそれを運んだ。

 店内に他の客は数名。スマホで次の行き先を調べている観光客カップルと、近所のおじちゃん、それに買い物帰りの主婦とお稽古帰りの婦人グループだ。

 夕刻の、ざわざわと話声のする店内には控えめにノラ・ジョーンズがかかっている。

「マスター、今日は早く閉めるんでしたよね?」

 小鳥の言葉に、マスターは洗ったばかりの白いコーヒーカップを拭きながらコクンと頷いた。

 彼女は外を見ながら、看板をしまうか出しておくか悩みつつ、マスターに視線を戻す。不愛想で人相の悪いこの店のマスターは、顔に似合わずサービス精神が旺盛なので、約束があっても、きっとギリギリの時間まで営業するはずである。となると、看板は出したままだな、と小鳥は思った。

 チリン、とまた鈴が鳴る。

「熱いの、頼むわ」

 入って来るなり呟き、カウンター席に座ったのはマスターの兄、恭一だ。

 マスターはエスプレッソマシンの電源を入れて、いつもはエスプレッソが売れないので電源は入れていないのだが、マシンが温まる間に細かいエスプレッソのコーヒー粉をセットした。

「今日は機嫌が悪いな」

 マスターが背を向けながら兄に言うと、小鳥が「え?」と恭一の顔を覗き込む。

「全然気が付きませんでした。恭一さん、いつも格好いいから」

 小鳥の言葉に恭一が苦笑し、マスターは眉を潜める。

「一つ聞いてええか?なんで格好いいと不機嫌ちゃうと思われるねん?」

 小鳥はにこりと笑って、マスターを見る。

「恭一さんは格好いいから不機嫌でも不機嫌に見せないからです。マスター、見習って下さいね」

「…」

 小鳥の論理に最早異議を唱えることを止めているマスターの久々の質問の形を取った異議は見事沈没した。

「聞いた俺がアホやった」

 言いながら、マスターは温めておいたデミタスカップにエスプレッソを注ぐ。カップをソーサーの上に置き、細いスプーンを添えて恭一の前に置く。

「それで、なんで不機嫌なん?」

「不機嫌ってほどじゃないねんけどな。うちに泊まった外国籍のお客さんがロビーに置いてあった清水焼の灰皿をごっそり持って帰ったみたいやねん。それだけならまだしも、大浴場の化粧品類も一切合切なくなってしもてて、おまけにそのお客さんな、フロントにアメニティが置いてないって言って、クレーム上げて粗品貰って行ってんて。最強ちゃう?」

「ほえー、すごいですね、その根性」

 小鳥が感心していると、恭一がため息をついた。

「だいたい、ロビーに置いてあるもんは持ってってええと思われているらしいで、その国では。ホンマか嘘か知らんけど」

 恭一は見事な柄の清水焼の灰皿を思い浮かべた。

「新しく買ううても、あれは知り合いに特別に焼いてもらったもんやし、なんか切なくなってなあ」

 恭一は砂糖を入れたデミタスカップをスプーンで何度もかき混ぜている。

 ようやくグイっと飲み干して、彼はすぐに立ち上がった。

「んじゃ、またね」

 チリン、と音を響かせて、恭一はお代をカウンターに置いて出て行った。

「マスターだったら、お客さんに設備品を盗まれたらどうします?」

 小鳥が尋ねると、彼はあごに手を当てて考え込む。怖い顔がますます怖く見える。

「最初から安物を置いとくかな?」

「それじゃ、旅館として格好付かないんじゃありません?」

 小鳥の突っ込みに、マスターは首を振った。

「俺んとこは庶民派の民泊やから心配いらんもん」

 自信満々な姿に小鳥が苦笑する。

「そういう問題なんですね」

 聞く相手を間違えた。

 小鳥はそろそろ閉店準備、と外に出て掃除をし、看板を店内に入れた。その間に客が帰り始める。それぞれの場所に帰って、夜を迎える。

「マスター、もう閉めちゃいます?」

 誰もいなくなった店内を見回して小鳥が言うと、彼は少し考えてから頷いた。小鳥は閉店のプレートを掲げ、照明を半分落とす。

 それからテーブルの上を片付けて、マスターに洗い物を渡し、店内の掃除を済ませる。

 ちょうど洗い物を終えたマスターが、閉めたはずのドアが開いて鈴が鳴るのを目撃した。

「もう店じまい?予約してたんやけど、ええかな?」

 入って来たのは超の付く美人で、スリットの入ったロングスカートが怪し気に誘う、という幻覚を見せるくらい色香の漂う姿に小鳥が笑顔になる。

「アヤメさん!」

「お久しぶり、小鳥ちゃん」

 美女は妖艶に微笑んで、カウンター席に座った。艶めかしい白い美脚が垣間見える。

「デートの約束してたんなら早く教えてくださいよ」

 小鳥がマスターに言うと、彼はいや、と歯切れの悪い返事を返す。

「違うんよ、デートと。だって私たち、別れたんやもんね?」

「ああ」

 ぼそっと答えて、マスターは温めてあったコーヒーカップに熱いコーヒーを注いだ。それから先がひっかかるようになっているスプーンにブランデーを染みこませた角砂糖を置いてカップに乗せると、アヤメの前に置いた。

 よく見ると角砂糖が青い炎に包まれている。

 薄暗い店内に、青い炎が揺らめいている。

「カフェ・ロワイヤル…」

 小鳥が呟く。

 アヤメのお気に入りのカップが持ち上がって、形の良い唇に薫り高いコーヒーが吸い込まれていくのを、ぼんやり小鳥は見ていた。


 




 

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