第12話 渉成園
チリン、と鈴の音が鳴って、小さい店内に響き渡る。
不愛想な顔のマスターが「いらっしゃい」と低い声で言うと、大抵の客は固まるのだが、今回の客はニコニコと笑って席に着いた。
「相変わらずむさ苦しい顔やなあ」
ニコニコ。
客はマスターの知り合いで、近所で小さな旅館を営む美人女将だ。歳はマスターの父と同世代である。老女、と言ってもいいくらいの年齢だが、はつらつとしていて、年齢を感じさせない色香があり、美人と言いたくなるくらい目鼻立ちが整っていることを、本人も自覚しているのであえて自慢もしない京女である。
「お父さん元気?最近見いひんけど、生きてはる?あの辛気臭い顔見てへんと張り合いないわ」
ニコニコ。
結構なドギツイ言葉も、彼女にかかれば、魔法のように品の良い言葉に聞こえる。この喫茶店で働いている小鳥を熟女にしたらこんな感じ、とはマスターの兄、恭一の弁である。
「親父は生きてますし、元気です」
ぼそっと答えて、マスターはアイスコーヒーにミルクをたっぷり入れてアイスオーレにしてから彼女の前に置いた。
「あれちょうだい」
「シロップ、入れときましたけど」
なみなみとシロップを入れる女将の為に、マスターは最初からたっぷりシロップを入れて提供するのだ。
「おおきに」
にっこり微笑んで、彼女はストリーなしでアイスオーレを飲み干した。
「あの子は?」
「小鳥はエビスクにおつかいに出ています。野菜がなくなったので」
言ってから、マスターは空いたグラスを持ってカウンターに戻る。
「そういえば、
「え?なんかイベントあるんですか」
マスターが目を上げて女将を見ると、彼女はぷっと吹き出した。
「あるわけないやん。あんた、昔から渉成園に散歩に行ってたから、今も行ってるんかと思って」
「ああ、それで。今は全然行かないですね」
「なんでなん?」
「なんでって言われても」
マスターは困ったように首を右に傾けた。
渉成園と言うのは、京都駅の近くにある東本願寺が持っている別邸で、東本願寺から更に東へ行った所に位置している。東本願寺からは歩いて十分程度の距離だ。
美しい庭が有名で、四季折々の花が咲き、日常をちょこっと忘れられる場所である。七条烏丸から東へ、間之町通りを上がったところにある。
渉成園は
「小さな頃のあんたがお母さんに連れられて渉成園に行ってたのをよう見たわ。お母さんの息抜きやったからな」
女将はそう言って、立ち上がった。
「ごちそうさん。また寄せてもらうわな」
女将はお代は払わずに出て行った。彼女は月末にまとめて支払いに来るのである。
「おおきに」
鈴の音にかき消されるようにマスターが言った。
渉成園か。
マスターは思いを馳せるように遠い目になる。
入り口で、協力金のようなお代を集める箱にお金を入れて、中に入る。石垣があって、進んで行くと芝生があって、ゆっくり庭園を回って、池の中にある橋を渡ると建物がある。そこへ入ったことはないのだが、おぼろげな記憶で茶室だったと思うのだが、広い庭と古めかしい建物とで風流やなあ、と今でも思う。最近は足を運んでいないので、どうなっているのか分からないが、改修をしていると聞いたことがある。
幼稚園の帰りによく母親に連れられて行ったものだ。忙しくしている母にとって渉成園は、子供連れとはいえ一人になれるたった一つの場所だったのかもしれない。
そんな母はマスターが中学校の頃に病死した。先日墓参りに行ったところである。そして母の思い出と言えば、渉成園なのである。
久しぶりに行ってみようか。
そんなことを思いながら、彼が自分の分のほうじ茶を淹れていると、小鳥が帰って来た。チリン、と鈴が鳴った。
「お買い物袋忘れちゃって」
そう言いながら、彼女は両手に抱えたレタスやトマトをカウンターに並べる。
「お野菜のお値段上がってますよねー」
小鳥はレシートとお釣りをマスターに返す。
彼はカウンターの下に隠れるように置かれたレジにお金をしまい、レシートを伝票と一緒にクリップで挟んだ。
「お客さん多かったですか」
「いいや、全然。お馴染みさんだけやったわ」
「良かった」
マスターの怖い顔を見て逃げ出した客がいないことを確認して、小鳥は安堵した。
「君、渉成園って行ったことあるか」
唐突なマスターの問いに、小鳥は首を傾げる。
「行ったことないです。お東さんはお散歩しましたけど、渉成園ってどこにあるのかわかんないし、お金払わなきゃいけないし」
「…そうか」
一抹の寂しさを感じつつ、小鳥の屈託のない笑顔にマスターも笑顔になった。
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